魔法少女 リリカルなのは AnotherS


 二人だけの約束
 変わることのない 永遠の魔法
 
 
 
          第5話 ニクドメニアード
 
 
 約2年前、なのはたちの住む海鳴市で事件が発生した。後に『プレシア事件』と呼称される事件である。
 事の起こりは、とあるロストロギアがこの地域に偶発的に散ったことから始まる。
 ロストロギアの名は「ジュエルシード」。外見上は青い宝石で、大きさは植物の種より幾分大きい程度。その小さな鉱石には、とてつもない異能が秘められていた。
 触れたものの願いを叶える。
 全ての願いを叶える万能器具ではない。このジュエルシードは保有する魔力の範囲で願いを具現化する品なのだが……発動が不安定な上に、願いを拡大解釈することがある等、はっきり言ってしまえば問題の多い危険な代物だった。どこの次元世界が造り出したかは定かではないが、迷惑な話だ。
 しかし、その保有する強大な魔力に目を付けた人物がいた。事件名に由来する大魔導師、プレシア・テスタロッサである。
 フェイトの、実の母親だ。
 彼女には目的があった。成し遂げなければならない目標があった。
 それは娘の……アリシア・テスタロッサの蘇生。
 事故で死なせてしまった愛しい娘。蘇らせるには相応の対価が必要だ。自身の功績も名誉も財産も誇りもすべて犠牲にし、彼女は邪道に走る。そうでなくては彼女の望みは叶わないから。数多に存在する次元世界では多くの魔法技術が独自に発展しているが、どこの世界でも共通する事柄がある。魔法技術の最終地点。どんなに研究しても、どれだけ望んでも到達できない、しかし脚を踏み入れたい神の領域。それが……死者の復活である。
 どこの世界の魔法技術でも、これだけは達成された例はない。当然だろう。一度失った命を元通りにするなど、本当に神しか……いや、おそらく神ですら不可能であろう。類似したような魔法ならいくらでもあり、使い魔の生成等が主な代表例だが……完全な蘇生はやはり不可能だった。事実、プレシアはその壁に一度ぶつかっている。
 プロジェクト、F・A・T・E。
 人造生命技術の一端であり、自然発生ではなく人の手によって魔導師を生み出す計画。これを流用し、プレシアはアリシアを生き返らせようとしたが……結局は失敗した。その過程で誕生したのがフェイトである。
 別の手を考えなくてはならない。邪道を進んでも、神の領域は限りなく遠い。
 既存の技術を応用するだけでは、死者蘇生法は完成しない。
 それならば、
 ……既存の技術でなければ……。
 そうして次に目指したのが、失われた技術を手に入れることだった。
 『アルハザード』。
 ミッドチルダやその周辺の世界で伝承に残る、失われた世界のことだ。あまりに魔法技術が発展しすぎたために消滅したとされる、魔導師にとっての理想の地。なぜ滅びた世界が理想郷などと称されるのかは理由がある。彼の地には、不可能領域であるはずの死者蘇生や現在の魔法技術では再現不能な秘術が存在していたと伝わるからだ。
 昔話のような、おとぎ話のような、幻想の入り混じった夢物語。
 だが、そんな夢物語に縋らなくてはならない程にプレシアは追い詰められていた。病魔に蝕まれ、自身の命が尽きかけていたからだ。
 自分が死ぬ前に、愛しの娘を起こさなくてはならない。その一心で縋った目標地点。到達するにはどうすればいいか、プレシアは様々な研究と実験を重ねた。違法なことにも手を伸ばし、財産を湯水のように使い、そして結論に達する。
 導き出された回答が、ジュエルシードであった。
 21個存在する宝石型のロストロギア。並行起動すれば通常より莫大な魔力を生み出し、それは次元を切り裂き、大規模次元震を引き起こす。
 その先に……裂かれた次元の狭間の先にアルハザードはあるとプレシアは確信していた。そして手に入れたジュエルシード9つを用い、彼女は次元の彼方へ消える。それが事件の大まかな流れだ。
 ―――疑問が残る。
 プレシアは正気を失っていた。狂っていたと表現してもいい。自身の寿命は残りわずか。だが死者蘇生技術は完成しない。追い詰められ、焦り、絶望し、しかしいくら研究を重ねても答えは出ない。さらに……フェイトの存在がプレシアを追い詰めていた。愛しい娘と全く同じ容姿だが、まったくの別人。娘は左利きだ。娘は魔法の才能などなかった。お前じゃない。お前は私の娘なんかじゃない。失敗作だ。ただの失敗作だ。母と呼ぶな。同じ顔で、同じ笑顔で、私を母などと呼ぶな失敗作。そう失敗だ。私は失敗してしまった。もう失敗など許されない―――。
 そして狂気の末、幻想に手を伸ばした。ここまではいい。
 だが、いくら正気ではなかったにしても、彼女は大魔導師と呼ばれるほど優秀な魔導師だ。
 ―――彼女の辿り着いた結論は、はたして狂気に塗り固められた不正解だったのだろうか。
 発生した次元断層の先は虚数空間……要は何も存在しない空間だ。空気もなければ水も土も、魔力素もない完全な虚無。そんな場所に異世界が存在するとは考えにくいが、彼女はその先にあると確信していた。
 そこへの道を開けるために、周囲の次元世界を危険に晒してまで、『自身の願いを叶える』ために、彼女はジュエルシードを使用した。
 『願いを叶える』ロストロギアを使って。
 不思議な一致である。次元断層を生み出すためには莫大な魔力が必要になるが、逆に言えば「莫大な魔力」さえあればいい。次元断層が発生した例は過去にもあり、主にロストロギア等の暴走が原因だが、やはり「莫大な魔力」さえあればいいのだ。他のロストロギアでもよかったはずだ。さらに言えば、彼女は元は魔導工学研究者であり、過去に大型魔力駆動炉の研究開発に携わっている。複数の駆動炉を用いれば、大量の魔力など手に入ったはずだ。金銭や時間が無かったからその手法を選べなかったのだろうか。だが時間がかかるのはジュエルシード収集も同じはずだ。21個もあるのだから。
 彼女の、ジュエルシードに対する執着心は凄まじいものだった。
 収集を命じたフェイトに対し、プレシアは飴と鞭を使い分けた。持ち帰ったジュエルシードの数が少なければフェイトを文字通り鞭で滅多打ちにし、しかし再度送り出すときは「優しい母」を演じ、フェイトの心を悪用した。フェイトから「母」と呼ばれることを嫌悪していたにも関わらず。
 そこまでして……嫌悪していた事柄すら平気で行い、収集しようとしていたロストロギア。所有者の願いを叶える青い宝石。
 ―――本当に、ただ莫大な魔力を欲していただけなのだろうか。
 ―――その異能に、興味はなかったのだろうか。
 その答えは、

「プレシアの理論は正しかったんですよ。ただ、使い方をミスったというか……」

 現状、『彼女』だけが知っている。
 次元震を「檻」として使うほどロストロギアに精通した、『彼女』だけが。
 
 
 
 突然の砲撃は、場の状況をひっくり返した。
 直撃した紅い魔導師は魔力の激流に飲み込まれ、自身で作った瓦礫の山へ向かって押し流された。コンクリと街路樹と車の残骸でできた山に衝突し、そこでやっと桜色の魔力が爆散。衝撃波と粉塵が辺りに舞う。
 はやてにとっては、よく知った魔法だった。
 ―――ディバインバスター。
 これほどの魔力、これほどの威力、そして、この魔力光。見間違えるはずもない。砲撃が飛んできた方向に視線を向け、目的の人物を見つけた。
「っ! なのはちゃん!」
 彼女は……高町なのはは、飛行魔法で空に浮かんでいた。傍らには、黒い外套も。
 不意に、うれしさで、泣きそうになってしまった。
「はやて! 大丈夫!?」
「はやてちゃん!! ごめん遅れて!」
 すぐさまなのはとフェイトが、はやての下へ飛んで来る。着地すると、フェイトははやての身体を起こしにかかり、なのはは……はやてを守るように背を向け、前方に視線を向けた。
「はやて、立てる?」
「フェイトちゃんも……。う、うん。待って、いま立つから……」
 フェイトの手を借りつつ、力の抜けた腰に再度力を込める。ふらふらしながらも、はやては何とか立ち上がることができた。
 添えられた手に、再び涙腺が緩む。
「はは……。来てくれんかと思ってたんやけど……。ありがとな、2人とも」
「来るに決まってるよ。……それよりはやて、泣いて……」
「え? あ、ああこれは! その、なんや、ちょう気が緩んだっていうか……。だ、大丈夫やっ。ケガが痛むとか、そういうんやないから」
 笑って誤魔化しつつ、杖を握っていないほうの手でゴシゴシと目を擦る。実のところケガは相当痛むのだが、それが気にならないほど、今はうれしくて仕方がない。
 助けに来てくれた。ホントは守護騎士全員が倒され、守護騎士全員を1人で倒しきった魔導師を前にして、心の奥底で怖かったのだ。だけど自分は一人ではなかった。そう実感した途端、ケガなど忘れてしまった。
 握り返してくれる小さな手の平に、心の底から安堵する。
「ごめん、はやて。心細かったよね……。街に張られた結界が複雑すぎて、時間が……」
「い、いやだから、ええてそんなん。来てくれただけで、ホンマにうれしいから」
 泣き顔を見られてしまったことに照れつつ、大丈夫だという意思表示のために、笑顔を見せるはやて。フェイトはその表情を見て少しだけホッとしたような息を漏らし、
 それと真逆の反応を示したのが、なのはだった。背中越しに、はやての笑顔を見る。
 頑丈だった騎士甲冑に走る、焼け焦げた跡。足腰に力の入らない身体。涙と……その笑顔。
 視線を、正面に戻した。
『……。あなたなら、私の声、届いてるよね……。私の砲撃、あんなに簡単に、弾いたんだから……』
 念話で、瓦礫に埋もれているであろう人物に声をかけた。途端、

 瓦礫の山が爆発した。

「っ!」
「……。やっぱ、ダメやったか……」
「そんな―――。なのはの砲撃の、直撃を受けて―――」
 三者三様に、その爆心地を見つめる。
 粉塵と共に夜風に千切れていくのは、あの蒼い炎。邪魔な瓦礫を射撃魔法か何かで吹き飛ばしたらしい。
 ゆっくりと、静かに、粉塵の幕が薄らいでいく。
 紅い魔導師は、そこに立っていた。
 瓦礫にぶつけたのか、額からは血が流れていた。左手だけで器用に銀色のデバイスをくるくると回しつつ、右手でその血を拭う。
「…………」
 無言。だが感情は読み取れた。表情が、今までにないほど不機嫌なものだったからだ。地面を見つめ、一度だけ溜め息を吐き出し、乱暴に傷口を擦ってから、
「どうやってここに……いえ、それ以前に、あなたにはもう魔力は残っていないはずです。どんな手品ですか、今の」
 不機嫌そうな感情を何故か押し殺して、不思議そうに、なのはを見つめた。
「……」
 なのはは応えない。代わりに、

「僕の魔力を分けただけだ」

 紅い魔導師の背後から、答えが返ってきた。
「え、」
 その声に向かって振り返る紅い魔導師。だが身体が後ろを向く前に、その動作がピタリと止まった。
 ―――地面から生えた光の帯が、『彼女』の身体を捕らえたからだ。
「……。バインド……」
 自身を縛る光を見つつ、呟く。左手で回していた銀色のデバイスは、動きを阻害されたせいで手から離れてしまった。虚空を一回転した後、ガシャンという音を立てて地面に落下する。そのデバイスを見つめ、また溜め息を漏らしてから、『彼女』は背後に視線を向けた。
「殺人未遂で、君を逮捕する」
 黒いバリアジャケットを着た少年が、夜空に浮かんでいた。
 クロノである。
「ストラグルバインド……。相手の動きを拘束しつつ、強化魔法等を解く効果がある」
 ゆっくりと飛翔し、一定距離まで近付くと、クロノはそこで飛翔を止めた。
 表情には出さないが、心の奥底では安堵していた。拘束できるかどうかは博打だったからだ。

「よっしゃー! クロノ君さっすがー!」
 その様子を遥か上空から監視していたエイミィが、我がことのように喜んでガッツポーズを取る。他のアースラのクルーも、モニターを見ながら安堵の溜め息を漏らしていた。
 ブリッジは、そのモニター以外はほとんど光源がない。動力の大半を失っているのが原因である。手元のキーから漏れる光と、薄暗い中で画面に映る、紅い魔導師を拘束する光の帯だけが目に眩い。
 ―――あの次元震で、アースラは深手を負っていた。
 艦を覆っていたシールドは8割以上の出力を失い、外装も亀裂が入り至る所で気密漏れが発生し、速度など平常時の半分も出せない。今は無重力だからいいが、もう少し地表に近付けば重力に捕まり墜落するのが目に見えているほどの、そんな状況だ。
 誰に責任があるのかと言えば、それはエイミィだろう。
 通信席にいたにも関わらず航行システムに無理やり割り込み、そして船を次元震めがけて突進させた結果だった。お蔭で船のダメージはあまりに深い。実は第九七管理外世界に戻ってくる間も冷や汗もので、強行突破を試みた船のエンジンは酷く損傷し、ここまで来る間に何度減速し、何度停止しかけたことか。
 だが功績もある。それも2つ。
 あの場で強行突破していなければ、この瞬間には間に合わなかっただろうから。
 海鳴市の様子を確認できるくらいの地点に船が到着したのは、およそ40分前。第九二世界で見たのと似たような術式の結界が張られているのを確認し、全員が青ざめた。
 しかし迅速に結界の構築式を解析し、「穴」を開けたのがエイミィであった。
 彼女がいなければ、すべては知らぬ間に終わっていたであろう。
 ―――30分ほど前から、エイミィやなのはたちは結界内の様子を見続けていた。
 九二世界の時とは結界の能力が違うのか、街に設置してあった機器からの情報は受信することができた。こちら側からの通信が通らなかったのは痛手だが、中の様子を確認できるというのは大きかった。
 全てを見て、全てを聞いていたのだ。騎士たちが敗れていく姿も、紅い魔導師の尋常ならざる強さも、
 その言葉も。

 だから、クロノは安堵していた。
 紅い魔導師の出鱈目な物質操作や射撃は脅威だが、最も警戒していたのはその機動力だ。身体の複数個所から魔力を放出する瞬間加速。相手を無力化するには……自身が得意なバインド系の魔法を当てるには、足止めする何か、もしくは囮が必要だった。
 それを、なのはとフェイトが自主的に手を上げてくれた。
 相手との実力差はかなりのもの。長期戦に陥れば絶対に不利になる。短時間で終わらせるには砲撃などで昏倒させる手もあるが、あのジャケット―――なのはと同じデザインのバリアジャケットが、もし防御力も同一であれば、砲撃では倒せない可能性がある。
 だから、前もって打ち合わせていたのだ。
 なのはが砲撃を放ち、その隙にフェイトがはやてを保護する。なのはの攻撃が回避された場合、もしくは当たっても相手が倒れなかった場合はなのはが囮となり、隙を狙ってクロノが捕縛する、と。
 作戦通り、事が運んだのだ。そしてクロノがバインドで捕らえる事を優先させたのには、もう1つ理由がある。
 このバインドの―――ストラグルバインドという魔法には追加効果がある。捕えた標的に付加されている強化魔法、及び幻術や変身魔法の無力化。もし相手の姿が幻術の類であれば、これで、正体を暴き出せる。
「……君の正体、見せてもらうぞ」
 距離を開けつつ、自らが握るデバイス―――「氷結の杖」デュランダルの切っ先を、相手に向ける。
「…………」
「…………」
 そのまま数秒が過ぎた。
 ―――何も、起きない。
 紅い魔導師は鋭い目つきでクロノを睨みつけている。ただ、それだけだ。なのはとソックリな容姿も、そのバリアジャケットにも、何も変化は訪れない。
「…………バカ、な」
 呆然としつつ、そう言葉を漏らしてしまうクロノ。落胆して、ではない。表情には、若干の焦りが浮かんでいた。
 結論としては出ていたのだ。
 あれは幻術などではないと。だが頭の片隅で願っていた。幻術であってくれ、と。
 その願いは、脆くも崩れ去ってしまった。
「どんな結果を期待してたんですか、あなたは」
「っ」
 突然紅い魔導師のほうから話しかけてきた。その表情は、かなり不機嫌そうなものだ。
「私の姿を幻術の類だと思ってたってわけですか。まぁ、頭の固いあなたです。そう思い込もうとする気持ちもわからないではないですけど」
「な、なに……?」
「この際ハッキリ言っておきます。幻術は得意ですけど、私、今は使ってませんよ。無意味ですし。……相変わらず視野が狭いですね、クロノ・ハラオウン」
「っ!」
 名を呼ばれたことに驚くクロノ。
 自分は、まだ名乗っていなかったから。
 ―――僕のことまで、知って―――。
「でも……いえ、これは私のミスです。あなたの存在、半分以上忘れてました」
 そう言うと、彼女は左手を動かした。

 それだけで、
 彼女を縛っていたはずの帯の何本かが、砕け散った。

「なっ!?」
 驚くクロノ。驚いて当然だった。
 銀色のデバイスは、まだアスファルトの地面に転がっている。
 ば、バカな!? デバイスの補佐も無しに、自力でバインドを―――!?
「魔力を分けた……。ディバイドエナジーですか。こんな大胆なことするなんて……。あなたでも、意外に思い切ったことするんですね」
 言う合間も、クロノが施したバインドは次々と破壊されていく。『彼女』はまるで縛られている帯など無いかの如く背後を振り返り、そして申し訳程度に残る帯を左手で掴むと、紙きれのように引き千切った。ガラスの割れるような音と共に、青い魔力が粉々になって消えていく。
 初めての経験だった。これほど簡単に、自分のバインドが破られることなど。
 だが、そんなクロノの様子など興味が無いのか、彼女は二歩ほど歩いてアスファルトに転がる自らのデバイスの元に向かった。地面とデバイスの合間につま先を入れ、素早く蹴り上げる。
 空中で二回転ほどした銀色の杖が、主の手元に戻った。
「高町なのはさん」
 空中でキャッチした杖をさらにクルクル回転させた後、不意に回転を止めて切っ先と視線をクロノに向け、しかし『彼女』は背後にいるなのはに声をかけた。
「っ! な、なに?」
「どうしてこんなところまで来たんですか。クロノ・ハラオウンから魔力を分けてもらったといっても、戦闘できるほど回復しているとは思えません。さっきの砲撃で精一杯のはずです」
「―――」
 なのはが言葉に詰まる。紅い魔導師の言う通りだったからだ。
 魔力なんて、全然回復していない。クロノからはかなりの魔力を分けては貰ったが、それも先の砲撃でほとんど空になった。『彼女』の見立て通りと言っていい。でも、たとえ魔力がゼロに等しかったとしても、自分はここに来たと思う。
「はやてちゃんは……」
「……?」
「はやてちゃんは、友達だもん。助けに来るのは当然だし、それに」
 それに、どうしても来なければならない理由があった。
 紅い背中。
 自分と全く同じ、だけど色彩だけが異なる少女。
「……それに、あなたを止めなきゃって、思ったから」
「私を、止める?」
 ゆっくりと、『彼女』が振り返った。
 自分と同じ顔。その表情には、不可解そうな色が浮かんでいた。
「理解できません。私の実力はある程度知ってるでしょう。あなたたちじゃ私に勝てない。止めるなんて、出来るはずが―――」
「出来るか出来ないかなんて、そんなの関係ない! あなたには、こんなことしてほしくなかったから!」
 声が自然と大きくなる。自分でも歯止めが効かない。自分でも、叫んでいる理由がよくわからなかった。
 でも、感じるから。
 あなたは…………なぜか、『私』だとわかるから。
「なんで……なんで、こんなこと……。守護騎士のみんなに、あんなこと……。はやてちゃんにまで、なんで……どうして!」
 止めなくてはいけないと、感じるから。
 止められるとすれば、私以外にいないとわかるから。
 理由なんてわからない。叫びながら自分は泣いている。この涙の意味すらわからない。だけど確実なことは、目の前の魔導師は自分だということ。
 『私』だから、「私」が止めないといけない。そう思ったのだ。だけど、
「なにか勘違いしているようですね。ヴォルケンリッターと同じように」
「…………え?」
「私は「高町なのは」じゃありません」
「っ!」
 振り向いた少女が、なのはの想いを否定する。だけどなぜか、
 その表情は……視線を少しだけ下げて、溜め息を漏らすように紡がれる言葉は、
 どこか、寂しそうだ。
「私はあなたじゃありませんし、あなたは私じゃない。私は―――」

 ビーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ

「…………?」
「―――時間切れ、か」
 突然だった。紅い魔導師の持っていた銀色のデバイスが本体の宝石部分を光らせ、凄まじく大きな警音を発した。
《あ、す、すいませんマスター。リミットタイム伸ばしま―――》
「いい。ブレイズ、LSDS準備」
《―――な、な、なに言ってるんですか!? 八神はやてはすぐそこです! 増援だって、疲れ切った魔導師2人とそれに魔力を分け与えた執務官1人! 我々の敵ではないでしょう!? どうして!!》
「言ったでしょ。制限時間過ぎれば、どんなことになっても次へ回す。……私じゃ八神はやてに止めを刺せなかった。撤退するには充分な理由だよ。はやくして」
《…………了解です、マスター。LSDSスタンバイ。トリガーはそちらにお渡しします。いつでもどうぞ》
 銀色のデバイスが渋々といった様子でそう音声を発した後、紅い魔導師の背後に魔力が溜まり始めた。防護服の背に編まれた六角形の魔法陣が、ゆっくりと回転する。
「ま、待て! 撤退だと? 逃げるつもりか!」
 慌てて行動に出たのはクロノだった。飛行魔法で前方に加速、紅い魔導師との距離を縮める。
 これに顔色を青ざめたのが、なのはだった。
「だ、ダメ! クロノ君、止まって!!」
 それは、ある程度結果を予測できたから発せられた言葉なのだろう。だが遅すぎだ。紅い魔導師が銀色の杖を両手で握り、目を閉じる。
 デバイスは両手。モードは魔法演算優先形状。状態は陸戦時。動作に余裕あり。敵機影ショートレンジに5体以下。ブラックアウト確認。威力微調整。
《Flame lance》
 突如として魔導師の背後に出現した発射体が槍を射出。アクショントリガーによる予備動作無しの射撃魔法が、クロノを襲った。
「ぐぁっ!!」
 何とかクロノはバリアタイプの魔法障壁を発生させることが出来たが、着弾して熱と衝撃波を撒き散らす蒼い炎に押され、後退するしか術がなかった。
 その隙をついて、紅い少女が飛行魔法で宙に浮かぶ。
 背中には、輝きを増す蒼い光。
「ま、待って! お願い、何か事情があるなら話して! ちゃんとした理由があるなら、私たちも協力するから! だから!!」
 飛び去ろうとする『彼女』に向かって、なのはが必死に訴える。
 待って。
 行かないで。
 ちゃんと話をさせて。
 なんで……なんで、はやてちゃんを……。
「ちゃんとした理由も何も、行きつく答えは1つだけです」
「え?」
「結論は変わらない。私にとって、八神はやての命は邪魔です」
「―――」
 背筋が寒くなるような、冷めた口調と冷たい瞳。自分と同じ顔がこんな表情をすることができるんだということに、驚きの感情しか出てこない。だけど、
 その瞳の奥に……寂しさを感じるのは、何故。
「八神はやて」
「っ!」
 その瞳が、はやてに移動した。
「次に会うときは、必ずその首、落とさせてもらいます。覚悟しといてください」
「…………。覚悟なんてせぇへんよ。次は必ず、あなたに勝つから」
「……」
 はやての、精一杯の虚勢。だけどその言葉を聞いて、紅い魔導師は不機嫌になるどころか、ほんの少しだけ笑った。はやての覚悟を嘲笑うような様子ではなく、
 その覚悟を、嬉しむように。
「期待してます」
 小さな言葉。その後すぐ、背中の光が臨界点に達した。

 チャージされた蒼い光が、光と熱と衝撃を放った。

 ドンッ! という爆発音と共に、紅い少女の身体はロケットのように射出された。衝撃波だけで近くのビルの窓ガラスが粉砕され、蒼い光とガラスの破片を残し、紅いシルエットは夜空へ向かって小さくなっていく。
「…………」
「…………」
「…………」
 その様子を、3人の少女は何もできずに見ていることしかできなかった。あまりの加速。こちらの飛行魔法では絶対に追い付けないということはすぐにわかったが、身体が動かなかったのはそれだけではない。
 3人とも、動けない理由があった。
 それぞれの理由で、動けなかったのだ。
 蒼光が、闇夜に紛れて小さくなっていく。
 
 
 ただし、動けなかったのは3人だけだ。
『くそっ! エイミィ、後を頼む!!』
「言われなくてもやってますってば! アレックス君!」
「追跡プログラム、問題なく目標を追尾しています! ですが―――くっそ! なんつー速度だ!」
 アースラの面々が、真価を発揮していた。これ以降は自分たちの仕事であり、これが自分たちに出来る「戦い」だ。動力の足りない機器に鞭打ち、必死になってマップに投影された赤い点を追う。
「すでに速度は1500……1600を突破! まだ加速しています!」
「目標ミラージュ、海鳴の市街地を越えてさらに北上しています! 現在は住宅地上空、減速する様子はありません!」
「ある程度まではやてちゃんたちから離れたら転送する気だよ! サーチエリアのシフト準備! このままだと範囲を抜けちゃう!!」
「転送魔法については準備できてます! ランディ!!」
「作戦領域の変更準備、こちらも問題ありません!」
 大声で状況を報告するスタッフの眼前には、メインスクリーンに映される海鳴の全体マップが表示されている。赤い点として表示された「標的」が、不気味に加速しながら領域の境目を目指していく。
 不意に、標的の点のマーカーが変わった。
「ミラージュ、速度1700―――まだ加速してます! 計器が目標を魔導師ではなく未確認機として識別! も、もう普通の魔導師が出せる速度じゃありません!!」
「目標の飛行魔法、術式の解析が進みません! データベースにヒットしない……っ! 完全に未知の魔法です!!」
「ど、どうしますかエイミィさん!! 機器の識別、直したほうが―――」
「すぐやって! 航空機として識別してると魔法の解析手法が限定されちゃう! 急いで!」
「了解! ……識別、元に戻りました! いくつかエラーが出ますが、追うだけなら支障ないはずです!!」
 そして、再び不意に異変が起こった。
 赤い点が、マップ上でかなりの距離を一気に動いたのだ。
「―――な、なに……一体どうなってるの!?」
「冗談だろ、おい……!」
 1人のオペレーターの報告が、場の不気味さを上乗せした。
「速度…………2500?」
 前情報としては全員理解していた。なのはとフェイトを襲い、その後紅い魔導師は、音速すら超えてこちらの追跡を振り切った。だから今回はセンサー類の設定を変更し、作戦領域も状況に合わせて最適化できるよう前準備しておいた。
 それでも、わかっていても、この数値は彼らにとって冗談のような数字だった。
「―――うそ―――」
「ま、また加速して……さらに速度を上げています!! 住宅地を抜けたあたりで、加速度が急に……!」
「エイミィさん、別の魔法です!! やっぱり未知のものと思われますが、先ほどとは別の魔法を同時起動させてるみたいで……っ!? 作戦領域、離脱します!!」
「あり得ない……あり得ねぇって……。速度、2900……?」
「範囲シフト!! 絶対に逃がさないで!」
「り、了解! 作戦領域を海鳴市北部へ移動!! よし、追跡プログラム、まだ標的を追っていま―――」
 そして、
 最後の異変が起きた。

 マップ上の赤い点が、
 完全に、消失したのだ。

「―――え?」
「な……」
 ブリッジにいる面子が、全員唖然とする。誰も状況が理解できない。
 作戦領域を離脱した紅い魔導師の反応。だがこちらは、反応を見失わないよう調整を利かせた上でサーチエリアを移動させた。問題はなかったはず。それなのにマップを変更して2秒を切ったあたりで、突然反応が消えたのだ。何の予兆もなく。混乱して当たり前だ。
「な、なに、どういうこと? なんで何も表示されないの!?」
「ま、待ってください! えと……な、何だ? まさか転送魔法?」
「いや、そんな反応は……。げ、原因不明です! 目標、完全に消えました!」
「ふざけないでよちょっと!! 索敵範囲再スキャン! 転送魔法の痕跡調べて!!」
「や、やってます! でも、転送魔法が起動した痕跡なんてありませんよ!!」
「エイミィさん……」
「周辺の魔力素分布調べ直して! 絶対に何かの魔法だよ! 転送魔法じゃないかもしれない! 前の索敵範囲にも戻って」
「―――エイミィさん!!」
「もう、なによ! どうしたの!?」
 オペレーターの悲痛な叫びが、ブリッジを静寂化させる。
 続いた言葉は、ゾッとする内容だった。

「最大速度…………3200です。追跡システムのスペックを超えたんですよ……。もしかしたら、もっと速度出てたかも……」

「―――――――――」
 全員が、絶句する。
 頭の隅で、皆一様にこんなことを考えていた。
 人間技じゃない。
 絶対に、「魔導師」というカテゴリからも外れている。
「………………。悪魔……」
 誰かが、小さく呟いた。


 結果だけを見よう。勝利したと言っていい。
 紅い魔導師の言葉が真実かどうなのかはこの際別問題として、狙いは間違いなく「八神はやて」だった。それは『彼女』の行動が示している。偽の依頼で管理局メンバーの大半を別世界へ誘導した後、戦力を奪い、さらに……どういう手段かはわからないが次元震を使って進路および通信を妨害。その隙に自らは目標に接触、殺害を企てる。
 だが、負傷はしたが八神はやては無事だった。アースラに収容された後の検査でも、命に支障はないという診断結果が出た。彼女を守るために戦った守護騎士も負傷していたが……ケガの酷かったザフィーラやヴィータでさえ、救出後、一命を取り留めた。特にザフィーラについては、戦闘不能に陥った直後に応急処置を施されていたことが幸いした。シャマルの治療のお蔭である。
 シャマルとシグナムについては、ケガはそれほどのものでもなかった。だから、結果だけを見れば勝ったのだ。敵の目的である「八神はやての殺害」は阻止することができ、そして死者はゼロ。負傷者は出たし敵の確保には失敗したが、管理局側は勝ったのだ。
 だが、勝利を噛み締めることが出来る人間など皆無だった。
 はやてたちが保護されて3時間後、回収された守護騎士のデバイスに残された戦闘記録と、話すことができるはやてと守護騎士2名による証言から、襲撃の詳細が明らかになった。
 明らかになるにつれ、謎は深まる一方だ。
 紅い魔導師。高町なのはと外見的特徴が同一なその少女は、しかし高町なのはと全く違った。
 戦闘方法は近接戦、遠距離戦双方に優れ、扱う魔法もあまりに特殊。一部なのはの魔法と類似したものも確認されたが、使用方法や効果に著しい違いが見受けられた。それに……カテゴリ分別が難しい、本当に物質操作なのか疑いたくなるような攻撃魔法と、相手はミッド式と言っていたが絶対に異なるであろう霧状の魔力刃。多様に変貌するデバイス、あまりに理解不能で高速な飛行魔法。
 ここまで来ると、「姿がなのはと似ている」という問題すら霞んでくる。特にデバイスと、飛行速度については大問題だった。
 銀色の……「ブレイズ」と呼ばれていたインテリジェントデバイス。
 なのはやフェイトのデバイスにも、変形機能は備わっている。だが用途に合わせて形状を使い分けるその2機のデバイスも、変形バリエーションは各々3種類しかない。それなのに件のインテリジェントデバイスは、戦闘記録とはやてたちの証言を疑わなければ9種類、なのはたちを襲った時に確認された弓型形態も数に入れれば、バリエーションは2桁に到達する。異常な変形機能の多さだ。これほど多いと他の機能を縮小、もしくは取り外さなければいけないはずだが、そんな形跡は見受けられない。逆に所有者との会話を聞く限り、搭載されているAIはかなり高スペックのものだ。
 技術部門のメンバーが漏らす。こんなもの、現在の技術では絶対にあり得ない仕様だと。
 そして、飛行速度。
 追跡に失敗したのは誰の責任でもないが、もし相手を「魔導師」としてではなく「航空機」として識別していたら、実は結果は変わっていた。時速3000キロ以上出せる航空機は実際に存在するし、アースラのシステムなら追うことは可能であったが……相手を「魔導師」として識別したことが仇になった。そうしなければならなかった理由も存在はする。航空機として判断してしまうと相手の使用魔法を調べる類のプログラムが一部起動できず、転送魔法等が発動した場合に転送先を割り出せなくなるからだ。だから誰のせいでもない。アースラのクルーはマニュアル通りに動いたのだ。
 そう、マニュアル通りに……。次元犯罪者などが管理局の追跡から逃れる場合は、大抵は飛行魔法で移動しつつ転送魔法を駆使し、幾度も中継地点を辿ることで行方を眩ます。これが普通だ。事実、入局前……なのはと出会った直後のフェイトは、この手法でアースラの追尾を逃れた経験がある。
 だから飛行魔法だけで、それも管理局艦船に搭載されている追跡システムやセンサー類を振り切るなど誰も想像し得ない出来事だった。誰の責任でもない。……それに問題なのは逃走の「手法」ではなく、やはりその「速度」が問題となった。
 長距離移動での速度には、限界がある。
 魔導師単体で空を長距離移動する場合、魔力総量、瞬間出力とその持続時間、そして術者にかかる負担、この4点が課題となる。出力値があまりに大きいと、魔力を放出する術者の身体と魔力が持たない。それ以前に出力重視の発想は短距離移動、要するに緊急回避などの魔法に分類されるわけで、ある程度飛距離のことを……つまり持続時間を考慮しなければ長距離移動魔法ではなくなる。だが加速を持続し続けても出力が無ければ大した速度は出ず、また速度だけに重点を置くと、空気摩擦や加速で生じる肉体への負荷で、術者が無事では済まなくなる。だから、問題となる4点の要素をバランスよく吟味し、出力と持続時間を伸ばしつつ、負荷を軽減する術式を組み合わせた結果。これが魔導師単独の、長距離飛行速度の限界点となる。
 その結論は、ずいぶん前に出ているのだ。
 10年前の記録。時空管理局本局武装隊、航空戦技教導隊の戦技教導官、フェルミ・マロウ二佐の時速2129キロ。この瞬間最高速度で10キロ以上飛翔した記録を、破った者はいない。
 これが管理局の魔導師の……いや、魔法技術の限界値である。
 余談だが、
 このフェルミ二佐、記録を出したのは一尉の頃の話だ。記録を出した直後、姿勢制御が追い付かず時速1800キロで彼女は地面に墜落している。結果として二階級特進……つまり殉職したのだ。
 理論的に、これ以上速度を出せる長距離飛行魔法など存在するはずがなく、「悪魔」という言葉は比喩でも大袈裟でもない。理論を越えた数値だった。
 一部のクルーの間で、「ファントム」の噂が広まる。
 
 
「はぁ……」
 溜め息を漏らしたのは、はやてだ。その音に導かれるように、同じ部屋の何人かが同じような溜め息を漏らした。皆、疲労困憊だ。
 場所はアースラの休憩ルーム。
 あの海鳴の激戦から、すでに5時間は経過していた。八神家の面々は、はやて以外はここにシグナムがいる。ヴィータとザフィーラは一命を取り留めたものの、まだ意識は回復していない。シャマルは2人の治療中だ。
「2人とも、もう少し寝ていた方がいい。部屋は余っているから、今から準備してもらって―――」
「ああいや、うん、ありがとな、クロノ君。……でも今は、寝れんと思うから」
「私も今は、眠れそうにない。気遣いだけは有難く貰っておく。すまない、クロノ執務官」
「……。そうか……」
 重たい空気が、その場から言葉を奪っていく。
 こうやって、会話にならない会話が40分ほど続いている。誰かが言葉を発しても、すぐ途切れてしまう。
 やるべきことは多かったが、やり尽くしてしまった。
 紅い魔導師についての解析は、もう2時間以上前に終わっている。終わったというより手詰まりしてしまった。いくら解析しても回答が出ないのだ。
 守護騎士のデバイスに残されていた戦闘記録から、『彼女』の扱う魔法をピックアップして、画像解析のみだが判明したことはあった。
 ミッド式の魔法を、使用することもあること。
 射撃に関して……フレイムランスと呼ばれる射撃魔法についてはデータベースに類似したものが見つかった。少々使用方法と運用技術に違いが見受けられるが、おそらく自身で扱い易く調整しているのだろう。ディバインシューターを真似たであろう射撃も、基本的な部分はなのはと同一。並列詠唱の仕組みが不可解だが、おそらく『彼女』……ミラージュの魔力資質か何かに影響されているものと結論付けられた。また砲撃についても、これもなのはと同一のものであるという結果が出た。肉眼では捉えられないほど高速だが、解析の結果、発射される直前に環状魔方陣が確認できたのだ。これもミッド式で、曲げた手法に関してはやはり不可解だが、「ディバインバスターの高速運用型」という結論に達している。
 逆に、それ以上のことは謎の一文字に尽きた。正確無比な連続射撃魔法や短距離と長距離双方の飛行魔法、一度だけ見せた……六角形の魔法陣を展開させての近接攻撃魔法。霧状で完全に物質化されない、手首から生える魔力刃。
 それらを解析して得られる内容は、「エラー」か「情報不足」の文字。本局に通信できないのだから、これ以上の試行錯誤は無意味だろう。
 そして、『彼女』の目的。
 明言された内容は、「八神はやてを殺害する」という物騒なものだった。目的が判明しただけでも成果ではあるが、それ以上話が発展しない。
 アースラのデータベースにも1年前の冬に起きた事件……闇の書事件の詳細な記録は残っている。だがいくら探しても、こんな出鱈目で強力な魔導師が関わっていたような痕跡は皆無だった。守護騎士による直接的な被害者だけではなく、家族や恋人、友人に至るまで調べてみたが、それも空振りした。もしかしたらデータが足りないのかもしれないが、それも本局に問い合わせ出来なければ手も足も出ない。
 次元震についても調査は行われた。
 もう自然現象ではないとわかりきってはいるが、いくら艦の長距離センサーで調べてみても、返ってくる結果はすべて「自然現象」という回答だった。震源の数はすでに400まで増加し、その震度も無視できるような数値ではなくなっている。こんな異常現象は今までにない。それなのに計測機器は問われる度に同じ回答を返してくる。それだけ隠蔽が巧妙なのだろう。
 この調査において少しわかった事柄が……もとい、最悪の現状が付随した。
 脱出できない、という悲惨な内容だった。
 おそらくこの次元震は、第九二世界に誘き寄せたアースラの進路を妨害するものではなく、元々「八神はやてを第九七管理外世界から出さない」ためのものだったのだろう。艦船による渡航も、次元転送も行えない。九七世界と、その付近に存在する8〜9個の次元世界を中心に包囲網を敷かれていた。現在アースラスタッフの数名が脱出ルート、もしくは他世界を経由しての本局へのアクセスを行えないか調査しているが……望み薄だ。ここまでの事ができる相手が、そんな穴を残すとも思えない。
 例えるならば、檻。
 自分たちは、接近すると発火する……次元震という檻に囲まれてしまったのだ。溜め息だって出てくる。
「はぁ……」
 再び溜め息。これはなのはの溜め息だった。釣られてフェイトも、小さく息を漏らしている。
「なのはとフェイトも、寝た方がいいぞ。まだ魔力も回復していないだろう」
「うん……。わかっては、いるんだけどね」
「寝れないよ……。なんだか、頭の中、こんがらがっちゃって……」
「そう……だな。すまない」
「ううん。クロノ君のせいじゃないよ」
「……クロノ……。アルフは、無事なんだよね」
「あ、ああ。1時間ほど前に、連絡が来た。今は現地で、調査してもらっている」
「……。うん……」
 そこで、また会話が途切れてしまう。空気が重いことこの上ない。
 40分前にも、同じ会話をしていた。
 あれほどの戦闘があったにも関わらず、フェイトの使い魔であるアルフは、異変に気が付かなかったらしい。
 彼女がいたのは自宅、つまりハラオウン家だ。住宅地区にあるマンションの一室で、アルフはなかなか戻ってこない家族を待っていたという。つまり「結界から除外されていた」のだ。街に結界が張られていたことすらわからなかったというのだから、ミラージュの実力の度合いが窺える。
 戦闘能力だけでも異様なのに、結界に飛行魔法にデバイス、次元震と、出鱈目すぎにも程がある。
 空気が一層重くなる。
『クロノ艦長、よろしいですか』
 唐突に、皆の前にウィンドウが現れた。映っているのはオペレーターの1人だ。
「どうした」
『航路の調査が終わりました。……ダメです、ここから出られそうにはありません。近隣の次元世界になら行けそうな場所もありますが、遠方へ行くための航路は全て次元震で塞がれています。本局へ戻れそうな航路も見当たりませんし、通信も、長距離次元転送も……』
「……。もう1度、強行突破という手も使えそうにないか?」
『ええ。たとえ艦がダメージを受けていなくても、現状ではどの航路を使おうと艦がバラバラになります。あの時は次元震が活性化する前でしたし、それに、運がよかっただけというか……』
「運?」
『はい。おそらくですが、我々が通った航路は目標ミラージュも使った道なんだと思います。だから、包囲が固まる前に突破することができた。……それも、今はで閉じられています。九二世界にも、現状では移動することができません。震源が多すぎますし、そのほとんどがクラス4以上で活動状態にあります。……我々は、完全に閉じ込められています』
「…………。引き続き調査を進めてくれ。どんな手段でもいいから、まずは通信を最優先に」
『わかりました』
 重苦しい返答の後、ウィンドウが閉じた。さらに休憩ルームの雰囲気が重くなる。……もう通夜の後みたいだ。
「クロノ君も、少し寝たほうがいいんじゃ……。昨日、遅かったんでしょ?」
「……。僕よりそこの通信主任に言ってくれ」
 なのはの気遣う言葉に対してクロノは、溜め息混じりに顎で、テーブルの一角を示唆した。
 エイミィである。テーブルに突っ伏したまま動く気配がない。息をしているかどうかもあやしい有様だ。
「あの……エイミィ、さん? 大丈夫ですか?」
「…………だいじょー、ぶー」
 なのはの遠慮がちな問いに対しても、身体は一切動かさずに間延びした言葉だけが返ってきた。どう見ても大丈夫そうな様子ではない。ただし何かの癖なのか、さっきから右手の人差し指だけが握っている書類の端をカリカリ掻いている。やめてほしい。正直言って不気味だ。
「だーいじょーぶだけどさー……。これからどーすんのー……クロノくーん……」
「僕に訊くな。少しは自分で考えてくれ」
「ぶー……。つーめーたーいーー……」
 どうやら疲労の限界で頭のネジが2、3本緩んでいるらしい。
 どうするかなど、知れている。
 相手の目的は「八神はやての殺害」。それなら、管理局側でやることといえば彼女の身の安全確保である。それ以外に無い。
 だが、それをどうすればいいかが問題だった。
 ミラージュの存在はかつてないほどの脅威である。行使する全ての魔法は不可解な点が多く、防ぐ手立てもなければ対抗する案もない。今回はどういうわけか向こう側が撤退してくれたからいいが、再度攻めてこられたら……止める手立てがない。
 だけど『彼女』は宣言している。「次に会うときは覚悟しといてください」と。
 必ず、また接触してくる。
 最も理想的な案は、はやてを本局まで逃がすことだ。時空管理局本局のセキュリティは並大抵のものではない。武装局員の数も揃っているし、戦闘のエキスパートである教導隊もいる。相手は確かに出鱈目な強さを有しているが、物量でそれを凌げば……。だがそれも、次元震という壁がある。増援を呼ぶこともできない。
 どうにかしなければと思うが、何をどうすべきか……。
 そう考えているとき、ふとクロノの脳裏に疑問が浮かんだ。
「……はやて」
「ん?」
「訊きたいことがあるんだが、いいか?」
「え、う、うん、別にええけど……。なんか、気付いたことでも?」
「ああ。よく考えればすぐ出てきたと思うんだが、」
 そう前置きしてから、クロノは疑問を口にした。
「……彼女……ミラージュは、なぜ撤退した?」
 問われ、はやてが言葉を探す。
「え? い、いや、私に訊かれても……。でもなんや、あの子が持ってるデバイスがビーーッて鳴った途端に、彼女、諦めたっていうか」
「それは僕も見てる。だけど訊きたいのは、その前の事なんだ。……なんで君に、止めを刺さなかった……?」
 その言葉に、過敏に反応したのがシグナムだった。座っていた椅子をギシリと鳴らし、クロノに詰め寄ろうとする。
「ああいや、待ってくれ。別にはやてを責めているわけじゃないんだ。ただ、おかしいだろう。状況からすると、僕らは「間に合わなかった」。結果的に彼女が攻撃をやめたから、その隙を突くことができたが……。じゃあミラージュが攻撃を止めた理由は、何だ……?」
 答えを探すような間が流れる。最初に言葉を発したのはシグナムだった。
「それは主はやてが説明した筈だ、クロノ執務官。相手は攻撃を突然止めた。「母」という言葉を残して。向こうの状況は想像するしかないが―――」
「そう、そこだ。そこが問題なんだ。どういう訳か彼女は、はやてを攻撃できなかった。つまり…………それは現状でも同じじゃないのか?」
 ピクリ、と机に倒れていたエイミィの身体が動く。痙攣みたいで不気味だからやめてほしい。
「どーいうことー……? クロノくーん……」
「いい加減起きろ、エイミィ。……つまりだな、彼女を止める術は、よくわからないが「母親」なんじゃないか?」
 ビクンッと、エイミィの首だけが起き上がった。本当にやめてほしい。隣にいるフェイトが驚いている。
「お母さん?」
「ああ。思念通信か何かで指示を受けていたのかはわからないが、彼女は「母親」に止められた。なら、それは今も同じだろう。つまり現状、ミラージュははやてを殺せない。……この騒動は彼女の意志だろう。復讐と言葉にしているくらいだからな。だけどそれ以上に、彼女の「母親」のほうの発言力が大きいんだ。それなら、どうにかして彼女の母親を見つけ出し、確保できれば―――」
「あの子と戦わなくていいの!!?」
 突然の大声。エイミィの声ではない。はやてでもなければ、シグナムでもない。
 なのはだった。
「あ、いや、その、仮定だぞ? 見つかるかどうかもわからないし、うまくいくかと問われると、望み薄ではあるが……」
「ううん、そんなことない! 無理にあの子と戦う必要なんてないんだよ! ちゃんとお話できれば……お母さんのこととかも含めて話し合えば、大丈夫かもしれない!!」
「ま、待てなのは、どうして興奮してるんだ? と、とにかく落ち着け。見つける手段だって―――」
「ええ手かも……」
 そう言葉にしたのは、はやてだった。
「お、おい、はやて」
「いやな、あの子言ってたんよ。三割以上は復讐、だけど残りはお母さんのためやって。確かにあの子、復讐とか言ってたけど、素はいい子なんかなって思う時もあったし。……どういう経緯かはわからんけど、彼女、ずいぶん私たちのこと恨んでた……。でも最後まで私を…………私のこと、「闇の書の主」って呼ばんかったんや。「夜天の主」って、呼んでくれた……」
 はやてが下を向く。あの激戦を思い出していた。

『話せてよかった。……さよなら、夜天の主』

 あの子の言葉がわからない。なぜ、あんな言葉を残したのか。
 自分と、守護騎士のみんなを恨んでいた。憎んでいた。
 それなのに、『彼女』は最後、寂しそうに泣いていた。涙を流して、それを無理やり拭って、その言葉を残した。ワケがわからなかった。泣く理由もわからないし、何が「よかった」のかもわからない。
 でも、あの涙が、あの子の本音だと思う。
 あの涙に、ウソや誤魔化しがあるとは思えない。
 だから、止められるかもしれない。あんな涙を流せる子が、復讐なんていう理由だけで動くとは思えない。あの子の「母親」さえ説得できれば、あるいは……。
『クロノ艦長、いいですか?』
「っ、どうした?」
 突然、また皆の前にウィンドウが現れた。先ほどのオペレーターだ。少し慌てた様子である。
「何かわかったことでもあったのか」
『いえ、あの、我々も混乱していて……。その、いろいろ調べて、間違いなんじゃないかと何度も確認しているんですが……』
 しどろもどろに話すオペレーターは、どこか落ち着きがない。視線をクロノ達に向けないあたり、何やら怒られるのを怖がっている子供のようだ。
「……? なんだ、どういうことだ? ハッキリ言ってくれ」
『…………信じられないんですが、』
 そう前置きしてから、オペレーターは爆弾を投下した。

『通信です。本局から』

「―――ええっ!!?」
 驚愕の大声を発したのは、シグナム以外の全員だった。先ほどまでの疲れはどこへ行ったのか、エイミィなんかは掴みかかるような勢いで画面に向かって身を乗り出している。
「ど、どういうことよ!? まだ次元震だって収まってないんでしょ!? それリアルタイム!!?」
『い、いえそれが、メールなんです。それも任務の指示内容らしく……。と、とにかくブリッジへ来て下さい。我々だけでは、判断に窮してて……』
 
 
「いけるか、エイミィ」
「待って…………。ん、なんとかこれで開けそう。表示するね」
 休憩ルームにいた6人と、作業を進めるオペレーターたちが見守る中、それがメインディスプレイに表示された。
 酷い映像である。
 添付されている画像データは酷く歪み、欠け落ち、全体像が掴みにくい事この上ない。文字も6割以上が文字化けしていて、文章として読める個所など少ししかない。ただの破損メールのようだが、ここにいる面子にとっては見慣れたもので、何のメールかは一目で判断できた。
 作戦指示書である。
「送信元は、本局で間違いないのか?」
「どうだろ……。中継地点をいくつか経由して送られてきてるけど、こんなのいくらでも偽装できるし、履歴だって一部破損してる。それこそ、あやしい部分はてんこ盛りだよ。なにより、この内容……」
「……」
 訝しげに、皆そのメールを見上げる。
 本局から届いたメールというのは、ロストロギアの調査、及び回収依頼だった。
 ただし、そのデータは異様なほどに壊れていた。次元震の影響なのか「故意」なのかはわからないが、展開するだけでも修復ツールを使わなければいけなかったほどである。それでも文字は化け、画像はスクロールする度に色彩が乱れる。
 あまりに不可解で疑わしくて、怪しいメールだ。そもそも作戦内容が、
 ――――『最後の夜の雫(フォールリーフ)』の回収、というものだったから。
 他の依頼であれば、こんな時にロストロギアなんて構ってられないわよというかこっちの状況わかってんの次元震に囲まれててクルーの1人が命狙われてんのよ平和ボケも大概にしろ本局―――という具合でエイミィがキレること間違いなしなのだが、内容が内容である。
 フォールリーフ。あの紅い魔導師に出会った時と、同じロストロギアの回収依頼。
 そして前回の依頼は、間違いなく『彼女』が偽装したものだ。
「ど、どう思う? クロノ君」
「……」
 通信席から、クロノを見上げるエイミィ。だがクロノは答えず、じっと画面を見つめている。隣の画面には前の……つまり偽物であろう作戦指示書が表示されており、それと見比べていた。
 内容だけではなく、文章の書き方やロストロギアの詳細などもほぼ同じだった。破損しているために今回のメールのほうが見難いということはあるが、それさえ除くと、あとはロストロギアの観測場所と、送受信時間の記録が異なるだけである。
「エイミィ、この送信時間はどうなんだ。偽装かどうか、判断できないか?」
「……。こんなの、どうとでもできると思う。次元震がないなら、中継地点のログから調べは付くんだけど……今はそれ、できないし」
「そう、か」
 短く答えて、再びクロノが考え込む。
 信憑性はあまり無いが、その日付は前の依頼の後になっていた。はやてが襲われていた最中にあたる。
 もし仮に、この表示がその前……なのは達が襲われる前であれば、少しは納得できる。
 紅い魔導師は、次元震で通信を遮断した後、このメールをアースラが受け取る前に別の場所、つまりどこかの中継地点でコピーしていた。それを書き換え、観測場所を偽ってアースラに送信、第九二世界に罠を仕掛けて待ち構える。だが受信信号が届かず、中継地点のサーバーは依頼メールを再度送信。次元震に阻まれ損傷するも、現在フルスペックで次元震を調べていたアースラのセンサー網に引っ掛かった。……かなりこじ付けのような考えだが、あり得ない話ではないと思う。
 だけど、送信時間ははやてに対して襲撃中の時間だ。
 もしこの表示が正しいものであれば、紅い魔導師がコピーすることなど出来ない。襲撃中ということは他の事柄について行動することなど出来ないし、なのは達が襲われる前は……こんなメールなんて存在しないはずだ。
 だから、結論とすれば1つしかない。今回のこのやたら破損したメールも、紅い魔導師が作った偽の依頼書。
 だが、それが何を意味するものなのかがわからない。
 どういうつもりだ。
「あの……クロノ君、少し、いい?」
「ん? どうした、なのは」
 おずおずと、なのはが問いかける。
「えっと、実は私、よくわかってないんだけど……。これって前の依頼と……同じやつだよね? フェイトちゃんと九二世界に行ったときの」
「ああ。データが破損していることと、作戦場所が九二世界ではなく第九九観測世界になっていることを除けば、ほぼ同じ内容だ」
「つまり……こっちが、本物?」
 恥ずかしそうに訊くなのは。自分の疑問がトンチンカンなものでないか、少し不安なのだろう。それに対し、クロノは落ち着いて説明を始める。
「いや……どうだろうな。どちらかといえば、このメールも偽物の可能性が高い」
「ふぇ? こっちも偽物なの?」
「たぶん、な。依頼内容が同一だから、どちらかが本物だろうと考えるのは当然だ。だけど今回のメールのほうは、本局から送られた時間帯がはやてが襲われている最中なんだ。つまりこちらが本物だと仮定しても、じゃあ偽物であった前回のメールが作成されたとき、「どこにも本物なんて存在しない」ってことになる。本局側に何らかの理由があって送信するのを一時保留にしていて、その間にミラージュがコピーし、本局側が送る前にアースラに送りつけたってことならわからないでもない。だが本局側が依頼を躊躇するような状況になるなんて事、僕は聞いたことが無い。よほどの緊急事態でもない限り、そんなこと稀なはずだ」
 説明に追い付くためか、クロノの話す合間を縫うようにコクン、コクンと首を縦に振って言葉をかみ砕くなのは。一通り内容を把握できたのか、クロノを見て、
「つ、つまり、こっちが本物だって思うと、それだと前の依頼が偽物だったってことと矛盾しちゃう、ってこと?」
「そう、その通りだ」
「というか「本物の作戦指示」ってのがあったとしても、今の状況……周囲を次元震に囲まれている現状で、本局から何か連絡があるってこと事態があり得ないよ。絶対に次元震に阻まれるからね。このメールだっていかにも次元震を無理やり通って来ましたよ〜って思わせるような破損っぷりだけど、クラス4なんて大規模な次元震通過したら、原形留めてるほうがおかしいし」
「そ、そうですか」
 エイミィの突然の言葉に、ついそう答えてしまうなのは。クラス4とかいう尺度がよくわからないので、けっこう困惑していた。
「では、これも偽装されたもの、ということか。データが破損していることも含めて」
「そういうことになる」
 シグナムの厳しそうな言葉に、クロノが答える。断定するだけの証拠はないが、現状から考えると、そうとしか思えなかった。
 だが、やはり納得がいかない。これが偽のロストロギア回収依頼指示だとして、
「……だけど、目的は何だ……?」
 クロノが思案し続けているのは、そこだった。
「? 目的って、あの子の?」
「……。どちらも偽物だろう。つまり今回のメールも、罠だ。アースラの修理は必要だが、このメールにある第九九観測世界には次元震の影響を避けて向かうことができる。だからミラージュは、九九世界で待ち受けているだろう。…………でも、こんなわかりやすい罠を張るだろうか……」
「あ、そか。偽物やってすぐわかるから……」
「ああ。こちらが気付くということだって、向こうからすればわかるはずだ。誘っているとも解釈できるが、釈然としないな。……どう思う、なのは」
「え? わ、私?」
 おそらくこの場で一番事態が把握できていないと自覚していたなのはにとって、クロノから意見を求められたのは不意の攻撃だった。慌てた様子で、
「あの、その、わ、私じゃちょっと……。というかいまいち、状況がよくわかってないし……。な、なんで私なの? クロノ君」
 そう、クロノに問い返した。
 現在このアースラのブリッジにいる面子は、ほとんどが魔法文化に慣れ親しんだ者たちだ。だから、つい2年ほど前まで魔法など夢物語と同一に考えていたなのはにとって、「この規模の次元震ではメールなんて届くはずがない」とか「こういう理由だからこれは偽装されたもの」と説明されても、いまいちピンとこないのだ。認識に差があるのは自覚してる。最近やっと研修などで他の次元世界に赴くことや本局などへ出入りする機会が多くなったお蔭で、その差も無くなってきたかなぁと思ってはいたが、目の前の案件は素人が口出ししていい内容ではないと思う。
 だが、クロノの認識は違うらしい。
「なのはは、あの子の……ミラージュの行動を先読みしただろ? 今回も何かわからないかと思って」
 何気ない感じで言葉にしたが、その実、クロノはなのはの出してくるであろう意見を、自身の判断より重く捉えるよう準備をしていた。
 はっきり言って、クロノは一連の騒動において……ミラージュと呼称することに決めた少女との接触において、勝ったとは微塵も思ってない。
 管理局の立場としては勝利したと言っても間違いではない。彼女の目的であった「八神はやての殺害」を防ぎ、現在ははやてを艦船へ収容し保護している。例えミラージュが人知を超えた魔力資質を有する魔導師だったとしても、まさか艦船相手に1人で挑んでくることはしないはずだ。だから、自分たちは相手の目的を挫くことができたのだ。
 だが、いくら大層な理由を並べ立てても、クロノは勝利など味わえない。
 通信を遮断され、航路を閉ざされ、そして自分たちは1度、彼女の罠に落ちた。偽の依頼に踊らされ、戦力の大半をはやてから分断させられた。この事実は、どんな成果を並べても妥協できるものではない。
 その状況を、一番始めに打破してくれたのがなのはの言葉だった。全ては罠だ。狙いは九七管理外世界にある、と。
 マニュアル通りの行動では太刀打ちできない。もっと柔軟で、斬新な見解が必要だった。だから、「そういう理由で自分を納得させた上で」、なのはに意見を訊いたのだ。
 他意もあるのだが。
「あの魔導師の行動を、先読みした……。初めて聞く話だが、本当なのか? 高町なのは」
「ふぇ? え? いやあの、さ、先読みだなんて大したことじゃなかったんですけど……その、」
「本当の話だよシグナム。なのははね、あの子の罠を最初に看破したの」
「わ、わっ、ふぇ、フェイトちゃん?」
「へぇ……。すごいやん、なのはちゃん。お手柄や」
「は、はやてちゃんまで……。そ、そんな大したことしたわけじゃ、」
「いやいやいや、なのはちゃんがいなかったら、私ら現場に到着するのもーっと遅れてたからね。これが公式の作戦だったら、ホントに大金星。研修生なんて名前すぐ外れちゃうよ」
「そう、だったのか。……主はやての、命の恩人というわけだな、お前は」
「!? ま、待って待ってくださいシグナムさん! そ、それはさすがに大袈裟―――」
「なのはちゃん、何かあった時には言うてな。助けられたこの命、なのは様のためなら火の中水の中〜」
「―――ちょっ、はやてちゃん!!」
 照れつつ……というか焦りつつ、皆の注目から逃れようと悪戦苦闘するなのは。どうも集中砲火気味に褒められるのは苦手らしい。必死に弁明しようとするが、功績という事実は海より深い。
 頃合いを見て、クロノが再度声をかける。
「それで、どう思う、なのは」
「ぅえ? え、えっと、その……」
 まだ若干焦りつつ、周りの視線が自分に集中していることに逃げ腰になりつつ、だけどクロノのどこか真剣な眼差しを見て、なのはは一呼吸だけ深呼吸した。
 大画面に映る、文字化けだらけのメールを見上げて、さらに一呼吸してから、
「………………罠じゃない、と思う」
 そう、言葉にした。
「え?」
 意外そうな言葉はエイミィから。だが、その場にいる皆が同じような疑問を抱いた。
「……どういう意味だ、高町なのは。クロノ執務官も説明してくれたが、この依頼書は疑うべき個所が多すぎる。それでも尚、これは罠ではないと判断するのか」
 言葉そのものは少し高圧的な印象を受けるが、シグナムの問いは純粋な疑問からだった。彼女の場合、こういう物言いになるのは生真面目すぎる性格が影響している。それはなのはも理解しているので、圧力を受けているわけではなく、問いに対してスラリと答えた。
「はい。確証はないんですけど、罠とかじゃないと思います。……もし罠だったとしても、あの子らしくない」
 見上げた視線をそのままに、なのははミラージュを思い浮かべていた。次元震すらただの退路遮断と通信妨害として使う、見た目は自分とソックリな女の子。
 あの子なら、どうするだろう。
「……次元震なんてことをただの航路妨害に使うような、あの子なら……。こんなこと……ううん、罠なんて手段、もう使わないと思うんです。エイミィさん、アースラって安全ですよね?」
「? えと、安全……といえば、安全だと思うけど……。闇の書事件以降、常駐してる武装隊員の数も増えたし、主砲のアルカンシェルだってそのままだから、防衛力って意味ならかなりのもんだよ。セキュリティだって、この前本局で整備した時に、最新のに更新したばっかだし」
「じゃあ、はやてちゃんは今、すごく安全な場所にいるってことですよね?」
「う、うん。そういうことになる、かな?」
 質問の本意がわからないためか、しどろもどろに答えるエイミィ。他の面子も、なのはの変わり様に少々驚いていた。
 言葉そのものは穏やかな感触を受けるのに、ディスプレイを見上げるなのはの表情は真剣だ。
「…………はやてちゃんを外に出そうとするって、思うんです」
「……? はやてを外に?」
「うん。今、はやてちゃんは一番安全な場所に匿われている。それなら、あの子なら、どうにかしてはやてちゃんを外に出して、そこを狙うと思うの。……手段までは想像できないけど、でも、こんなわかりやすい手じゃなくて、もっと手の込んだものを使うんじゃないかな……。例えば、」
 そこで、なのはが言葉を切った。メールから視点を外し、床を少し見つめた後、目を閉じ、考え、そして目を開けて、
「…………例えば、人質とか」
「―――」
 全員が……作業中であるにも関わらず聞き耳を立てていたオペレーターでさえ、その言葉に声を失った。
 人質。
 物騒な響きであり、全員が予想もしていなかった単語だ。
「――――――エイミィ、武装隊に出動の連絡をしてくれ。それと、アルフにすぐ連絡できるか」
「え、あ、う、うん」
 最初に声を取り戻したのはクロノだった。彼の言葉に慌てつつ、エイミィが端末を操作し始めた。すごい勢いで。
「……なのはに訊いて、やっぱり正解だったな」
「―――? え?」
 くたびれたようなクロノの言葉に、なのはが我を取り戻した。ミラージュのことに没頭しすぎて、どうやら周りが見えていなかったらしい。
「人質、か。向こうからすれば有効な手だ。はやてを収容したことで、こちらも安堵していたし……。くそっ、よく考えれば予想できた手段だ。なんでそういう発想ができないんだろうな、僕は……っ。どうだエイミィ」
「ま、待って待って! アルフにはすぐ繋ぐから!」
「え……あ、あれ? え?」
 クロノとエイミィの慌て様に、心底戸惑うなのは。自分の言葉が、これだけ2人を突き動かすとは想像していなかったのだろう。
 だが慌てるのが普通の反応だ。クロノの言葉は正しい。人質という手段は向こうにとっては最良で、こちらにとっては最悪のシナリオだ。
「ま、待ってクロノ君! わ、私の今の意見は、その、完全にただの予想というか、根拠とかないし、それに、」
「いや、お前の想像は正しいかもしれないぞ、高町なのは」
「ふぇ? し、シグナムさん?」
「驚いたな……。武装隊としての研修が、これほどお前を成長させていたとは……。お前の意見は正しい。現状、主はやては最も安全な場所にいる。向こうもおいそれと攻め込んだりはしないだろう。その状況下で向こうが取るべき手段……。確かに、主はやての身近な誰かを人質に取るという手は、罠を張るよりも有効だ」
「アルフとの通信開いたよ! クロノ君!」
「はやての主治医、確か……石田先生、だったな。彼女の身の安全を確認しつつ、海鳴市周辺の調査を指示してくれ。武装隊のほうは3割近くをグレアム元提督のほうに向かわせる。ランディ」
「了解、武装隊に指示出します。転送準備も、10分ほどで済むはずです」
「2割を海鳴へ。アルフと合流させた後、はやての交友関係にある人たちを、本人たちには気付かれることなく護衛させてくれ。……もしかするとミラージュに遭遇するかもしれないが。その場合は本格的な戦闘は避け、時間を稼ぐよう指示を。悔しい話だが、倒せるとは思えないからな」
「はい」
「わ、わ、く、クロノくん!?」
 辺りの緊迫した様子に、なのはが再びワタワタと慌て始めた。
「ちょ、ちょっと待って! ほ、ホントに私、そ、その、ただ単にそう思っただけなんだよ!? この作戦指示だって、もしかしたら本当に罠なのかもしれないし! 私の想像だけで、今後の作戦立てるのは―――」
「いや、さっきシグナムも言ったが、なのはの意見は正しい。誰かを人質に取るのは罠を張るより有効だ。はやての身近な人であれば、尚更ね」
「…………うぅ、で、でも……」
 クロノの真面目な受け答えに、なのははそれ以上の言葉を紡げなくなってしまった。
 もちろん、なのは自身は適当なことを言ったつもりはない。真剣に考え、自分で出した答えだ。
 だけど、今後の自分たちの行動は『彼女』の狙う対象……つまり、はやての命を左右されかねない。そんな重大事項を、自分のただの想像だけで決めてしまっていいのか戸惑ってしまう。クロノが自分の意見について信用を置いてくれるという事柄は純粋にうれしく思うが、困惑の念のほうが大きい。
「……ね、クロノ」
 その時、そっと言葉を発したのはフェイトだった。
「どうした、フェイト」
「えっと、その……。なのはの意見が間違っているって言うつもりじゃないんだけど、さ。この指示書についても、放置すべきじゃないと思うんだけど、どうかな」
「……? どういう事だ?」
「あの子の……ミラージュの罠って可能性、まだゼロって決まったわけじゃないでしょ? もし罠だとしたらミラージュは、この指示書にある第九九観測世界に待ち構えているってことになるから、あの子の身柄を確保するなら、誰か向かわないと」
「…………。そう、だな……」
 フェイトの意見に、腕を組んで思案を始めるクロノ。その様子を確認した後、
 フェイトが、なのはに向かってウインクを1つした。
 っ、もしかして……。
『フェイト、ちゃん?』
 思念で、フェイトにのみ聞こえるように、なのはが声を掛けた。
『クロノも少し、気が回らないよね』
『え?』
『なのはの意見を全面的に肯定するのは、うん、わかる気がする。実際、なのはの意見は正しいと私も思うから。でも……はやての命が掛かっているかもしれない事柄を、全部なのはに背負わせるのは、いつものお兄ちゃんらしくない。……クロノもたぶん、焦ってるんだよ。最初の罠に気付かなかったから、責任、感じてるんだと思う』
『……』
『ううん、クロノだけじゃない。突然のことに、私も含めて、みんな焦っている。だから周りのこと、少し、うまく見えなくなってるんだよ。……でも大丈夫だよ、なのは』
『―――フェイト、ちゃん』
『私も背負うから。なのはだけに、全部背負わせたりしない。だから、慌てないで』
『―――』
 不意に、嬉しくて声が漏れそうになった。
 慌てていた理由。友人の命の重さ。その不安を言葉にすらしていなかったのに。
 目の前の親友は、感じ取ってくれていたらしい。
 だから声ではなく、思念でこう返した。
『―――ありがとう、フェイトちゃん。……うん、2人で……ううん、皆で、はやてちゃんを守ろう、フェイトちゃん』
 もっと感謝の意を伝える言葉があるとも思ったが、結局はそんな短い思念になってしまった。
 足りない言葉を、笑顔にして彼女に向ける。
 私の不安を感じ取ってくれて、私の不安を減らしてくれて、ありがとう、と気持ちを込めて。
 まぁ、その笑顔に対して気恥ずかしくなって、顔を赤くしてあらぬ方向を向いてしまったフェイトがいたわけだが。
「……そうだな。やはり九九世界にも人員は割くべきか」
 と、今まで考え込んでいたクロノが独り言のように言葉を漏らした。完全に別の事柄に意識が向いていたなのはとフェイトが、慌ててクロノに視線を向ける。
「長距離転送で、その第九九観測世界には行けそうなのか、クロノ執務官」
「いや……。エイミィ」
「はいはい。えっと……ちょっと難しそう。近くに小規模なんだけど、次元震の震源があるの。現地に降りるとなると……少し迂回しないと無理っぽいね。九九世界には観測機器とか置いてないから、今の状況もわからないし」
「直接アースラで向わなダメってことやね。罠の可能性、やっぱありそうやな……」
「…………」
 クロノが真剣な面持ちでメインディスプレイを睨む。長考し、1つだけ息を吐いた後、
「よし、行こう」
 そう結論を出した。
「え? で、でもクロノ君……」
 不安げな声を出して通信席からクロノを見上げるエイミィ。敵の正体が未だよくわからないこの状態で、動くのはマズいのでは、という考えがあったからだ。その考え自体は間違ったものではないだろう。
 だが、あまりに「マニュアル通り」の考えでもある。向こう側……ミラージュに、見透かされている可能性は充分にあり得ると、クロノは思う。
「現状では……狙われているはやての身を最優先に考えるべきだ。だからこそ、1つの地点にいつまでも停泊しているのは逆に危険度が増える。本局に行くことができないんだから、動ける範囲をひたすら動いて、こちらの位置を特定させないほうがいい。相手から逃げているようなものだが、この際形振り構ってはいられない。そしてはやての身を案じた場合、やはりこの騒動を鎮静化させるのには、ミラージュの身柄を確保するというのが一番手っ取り早い。少々危険ではあるが、いつ姿を見せるかわからない相手をここ九七管理外世界で待つよりは、現れる可能性のある地域へ行き、向こうの真意を探るのも早期解決に繋がる」
 一気にそこまで喋った後、クロノは再び息を吐いた。そして、皆を見渡す。
「武装隊の半数と、そしてアルフとは別行動になってしまうが……これが現状で最善だと思われる、僕の結論だ。異論は?」
 言葉だけだと、文句あるか? という印象があるが……クロノの様子はそれとは対極で、物腰は柔らかい。他の意見があるなら遠慮なく言ってくれと、表情に書いてあるようだ。
 反対意見は、出なかった。
 各々、覚悟は決めていた。
 現状を維持するだけでは事態は好転しない。危険はあるかもしれないが、動かなくては何も始まらないと理解していた。
 各々の、覚悟の意味合いは別だが。
「……では、これより本艦、L級8番艦アースラは、第九九観測世界へ向かう。エイミィ、決定事項を各部、そしてアルフへ伝えてくれ」
 ―――その覚悟の意味合いの違いをクロノが痛感するのは、もう少し後になってからである。
 
 
『ミッド式転送魔法を感知しました。この街と……あれ、ずいぶん離れた地点に誰かを送ってますね。転送先、算出しますか?』
「いや、いいよ。少し予想外だけど、たぶんイギリスだ。グレアムのとこ」
『あ、そういえばこの世界にいるんでしたっけ。……邪魔にならないでしょうか』
「少し気に留めておくって程度で大丈夫だよ。今すぐ何かする必要もないし、というか、どうせ何もできないと思う」
『ですね』
 そう言葉を発すると、三人掛けのソファを占拠していた銀色のデバイスは本体部分を発光させた。緑色の光が、一定間隔で点滅を繰り返している。
 場所は、どこかの部屋のリビングだ。
 窓から見えるのは、煌びやかな美しい夜景。海鳴という街の夜の姿を一望できるところを見ると、かなり高い場所なのだろう。高度という意味でも、価値という意味でも。
 高級マンションの一室。だが現在の住居人は、この広い居住空間を「暮らし」の場として扱ってはいないらしい。
 まずは、その大きなソファ。茶色のそれはベランダへ通じる窓を正面にしており、窓とその向こう側の景色しか見えないような位置に鎮座してある。テレビ等があったとしても見える方向には向いておらず、部屋の隅に置かれている。次に木目調の床には多数の本と、多種多様な宝石や鉱石、そして読み取り難い速記で書かれたメモが散乱していた。足の踏み場もない様子だが、何故が部屋の真ん中だけがメモも本も石も落ちていない。そして……後からその部屋にお邪魔したのであろう、小さな駆動音を漏らす機器が何枚かのメモを踏み潰して転がっている。その機械からは何本ものコードが伸び、絡まってもおかしくないような様子でグチャグチャに床を張っていた。何本かのケーブルはデバイスと、部屋に複数置いてあるPC用ディスプレイに繋がれており、高速でスクロールしていく文字の羅列が部屋の光源を果たしていた。部屋の照明は点けられていない。天井に備え付けられているはずの蛍光灯は外されており、妙な色をした棒状の何かが代わりに接続されていた。
 攻撃魔法の自動詠唱装置……要は爆弾である。
 罠ではない。部屋の主の許可なしに壁にあるスイッチを押そうものなら、問答無用で術式を発動して部屋に置かれてある無機物を吹き飛ばす証拠隠滅用のものだ。それが部屋の主の……アースラ所属の管理局員から「ミラージュ」と呼ばれるようになった少女の、現在の住まいである。
 生活感などまるで見当たらない。私情を完全に排除し、物が散乱する様は、まるで行き詰った研究施設のようだ。
『つかぬことを伺いますけど……。マスター、さっきから何作ってるんですか?』
「ん? 冷奴。あとは、お湯沸かしてるだけだよ」
 リビングと対面式となっているキッチンからそう答える「なのは」ソックリな少女は、なのはとはまったく異なる服装をしていた。
 サイズが合っていないブカブカのジーンズに、それとは対照的に細みで黒いシルエットの長袖シャツ。現在は料理中なため腕まくりをしているが……普段はスカートを愛用するなのはと比べると、あまりに印象が違う。唯一同じなのは、髪を纏めている黒いリボンくらいだろう。
『お、お湯ってまさか、また速完携帯食ですか? 身体壊しますよ、マスター』
「ブレイズ、いいこと教えてあげる。こっちではインスタント食品っていうの」
『そんな知識いりません。というか私の話を聞いてください! こちらに来てからそんな栄養偏った妙な品ばかり食べてるじゃないですか。計算しましたけど、そろそろビタミンとカルシウムが足りなくなって……っ、タンパク質と鉄分の摂取量だけが何やら増加してます! 野菜と魚類関連の摂取を強く勧めます! なんであなたは料理得意なのに他人の目がないと食生活がそこまで雑になるんですか! 料理してください料理を!』
「……そんな計算しなくていいから仕事してよ」
 はぁと溜め息を漏らしつつ醤油を少々かけた豆腐を箸でつつきながら、彼女はお湯を注いだカップめんを見つめる。あと2分43秒。
『あっ、またそんな、キッチンで立ったまま食べないでちゃんとどこかに座って食べれば……そうだ、それも言いたかったんです! この部屋も掃除したらどうですか!』
「したじゃない。昨日」
『あんなもの掃除じゃないでしょう! ただ散乱する物品の隙間を粘着素材を塗った円筒で拭いただけで……私が言いたいのはこの部屋を占拠している物品の整理整頓です! これじゃあ食事をするスペースもないじゃないですか!』
「大丈夫。整理する必要なんてないしどこに何を置いているかは覚えてるし。それに豆知識をもう1つ。こっちの世界の人は、独り暮らしの人はキッチンで出来上がったものをその場で食べる習慣があるんだよ。移動する手間を省いてるんだね。ん、合理的」
『え、そうなんですか? あらら……』
 話しつつも、彼女はソファのほうを見ない。冷奴を食べつつ、思考の隅で思う。あと2分11秒。
『……待ってください。…………な、ちょ、なにウソ言ってるんですかマスター! いま調べてみましたけどそんな習慣どこにもないですよ! 私のことバカにしてますか!?』
「ウソじゃないよ。ほんと」
『いいえ! どう調べてみてもそんな習慣見当たりません!! 誤魔化されたりしませんから!』
「ほんとだって。まかない食っていうの。調べてみて」
 話しつつ、やはりソファは見ないで食事を続ける。あと1分45秒。冷奴は半分に減ってしまった。今度は生姜でものせてみようと思う。
『……まかない食……。料理を提供する職種の人が、客へ提供する料理とは別に、食材の余りで手早く作り空腹を満たす料理の総称……』
「そ。料理で生計を立てている人にとって、時間って重要でしょ? お客さん待たせるわけにはいかないし、注文してから料理が出てくるの遅いとお客さん怒っちゃうからね。だけど作る側だって人間で、当然だけどお腹は空く。だから少ない時間でさっさと作って、厨房でさっさと食べて仕事に戻らないといけない。そのとき食べるのを、まかない食っていうの」
『な、なるほど……』
 厨房で食べる食べないは、まぁその人次第だろうなぁなんて考えつつ、冷奴を完食。あと1分14秒。む、今回はいいペースかも。……もう少し何か言おう。
「大抵は料理人の中でも見習いの人が作るんだって。余り物だけでどれだけおいしい料理を作れるか、料理人としてどれだけスキルアップしているか調べる意味合いもあるし、修行の一環っていう意味合いもあるんだと思う。あと……まかない食で結構いい出来のものが生まれると、それもお客さんに提供することがあるみたい。でも食材が余り物、つまりは粗末なものだから、お客さんに素直に出せるものじゃないし、それは稀な話だとか。ん、これはどこで聞いた話だったかな……」
 時間を稼ぐ。あと42秒。そろそろかな……。
『そうなんですか……って待ってください。それは料理人の話で、マスターとは関係ないじゃないですか! 最初は独り暮らしの人の習慣の話をしていたわけで、まかない食とは話が噛み合っていません!! 誤魔化そうとしたってダメですからね! ちゃんとリビングに来て食べてください! キッチンでそのまま食べるなんて、お行儀悪いです!!』
 残り時間が12秒というところで、こちらの言い訳が無くなってしまった。ん、やっぱりいいペースだと思う。
「あーもう……。わかったよブレイズ。今そっち行くから」
 まだ熱いカップめんを溢さないように持ちながら、『彼女』はキッチンを出てリビングへ向かう。床に散らばるメモを踏まないようにしながら歩を進めて、部屋の中央……唯一座れそうなスペースに腰をおろした。
 床にそっとカップめんを置きつつ、しかし蓋を取る様子はない。傍らに置いてあったディスプレイに手を伸ばして、そこに表示されている内容を確認し始めた。
 ものすごい勢いで、細かな文字が上から下へスクロールしていく。こんな速度では読み取ることなど普通の人間にはできないであろうが、彼女は必要個所だけを読み取り、
「情報をピックアップする際に、なんだかいつもより処理速度が落ちてるね。モデム、どこか不具合でもあった? 急造品にしちゃ上出来だなって自分では思ってたんだけど」
『え? ああいえ、マスターの作ってくれたコンバート機器については問題個所なんてありません。けど、なんだかこちらの世界のネットワークそのものが扱い難いんですよ。完全に魔法技術が無いのに、これだけ情報工学や通信技術が発達してるのって、今まで経験がないので。……この世界って不思議ですね。闇という言語はいろんな文化で確立しているのに、観測した事例が無い……』
「確かに、他の世界から見れば特異な存在なんだよね、ここって。でもその異常性を管理局はまだ見抜いていない。いいんだか悪いんだか……」
『マスターの理論は正しかったってことですか。学会にでも発表したら表彰ものだと思うんですけど。絶対に古代魔法史を塗り替える大発見ですよ? いいんですか?』
「そんな無駄なことしてどうするの……」
 ため息を漏らしつつ、駆動音を鳴らす機器についていたボタンをいくつか押す。すると、何もない空間に平面上の何かが現れた。キーボードだ。いくつか文字列を入力した後、ディスプレイが垂れ流しているログの流れが速度を増した。処理効率が上がったらしい。
 その文字を見つつ、しかし彼女の思考は別の事柄に向いていた。
 成長したな、と思う。
 彼女の相方であるインテリジェントデバイス、通称「ブレイズ」は、他のデバイスと違ってAIが自立進化型だ。通常のインテリジェントデバイスも所有者の資質に合わせて変形機能の追加や使用頻度の高い魔法を効率よく発動させるために術式を調整するなど、ロールアウト後の使用用途次第で成長はする。だがブレイズについては、根本的な発想が異なる。
 所有者に合わせて自身の機能を調整するのではなく、経験によって、所有者の資質に関係なく独自に成長する。
 だからたまに、『彼女』はブレイズに対してイタズラに似た問題を出題している。大半はどうでもいい世間話だが、デバイス自身が考え、悩み、そして感情に対して刺激を与えるような事柄を意図的に選んでいた。
 先ほどのまかない食云々の話もそうである。3分という短い時間だったが、慣れないネットワークから情報を取得し、吟味させ、さらにブレイズは……己が主の意見に「反対」ではなく「反論」したのだ。通常のインテリジェントデバイスでは絶対に起こり得ない現象である。
 最初のころは大変だったと『彼女』は思う。感情の機微というものが理解できていなかったころは、こちら側の問題に対して延々と悩みこんで、解けない事柄で簡単に無限ループにはまり、1時間以上も別の話題に振り回され、結局は最初の質問そのものを忘れてしまう、なんてこともあった。それから比べれば、今は3分以内に偽の情報や誘導尋問を看破してしまう。ホントに成長した。
 だから、そんな彼女と……一緒に成長してきた相方との、もしかしたら今回の戦いが最後になるかもしれない。そう思うと、やっぱり寂しく感じる。
 もっと、いろんなことを教えてあげたかったと思うし、もっと、どうでもいい話を延々と繰り返したかったと思う。楽しかったから。
『マスター、食べないんですか? 伸びちゃいますよ、それ』
「あ、うん」
 感傷に浸っていたために、カップめんのことを忘れていた。……どうも成長しているのはブレイズのほうだけで、私自身はあんまり成長してないなぁ、なんて思う。
 フタを取って、麺をほぐす。……少し伸びてしまったためか、箸から伝わる感触が変に柔らかい。まぁ胃に入ってしまえば同じだろうと自分を納得させてから、いざ食べようとしたとき、
 ビビィ、と機器の1つが妙な音を鳴らした。
「? どうしたの?」
『待ってください。……アースラ、移動を始めています』
 予想外の言葉に、『彼女』の箸がピタリと止まった。カップめんを再び床に置いた後、いくつかのディスプレイを手近な位置に寄せる。
「状況報告して」
『シールド出力は10%未満ですが、これは、亜空間航行の準備でしょうか……? まさか、別の次元世界へ……』
「行き先わかる?」
『航路から察するに、予想ポイントは現在5ヵ所。損傷によるエネルギー効率を考慮すれば、現実的に考えると……3ヵ所に絞られます』
「2番アンカーからアースラの自動航行システムに侵入して。私は復旧作業の進み具合をもう一度チェックするから」
『了解』
 突然の事態に戸惑いながらも、『彼女』は冷静に状況を分析し指示を出す。再び駆動音を鳴らす機器……こちらの世界に到着した後、現地調達して改良を施したPCの追加機能をオンしようとして、
『ま、マスター。アースラへのシステム侵入に失敗しました。通信機器の大半がシステムダウンしてます』
 ブレイズの言葉に手が止まった。考える。アースラはリトル・グレートウォールを強行突破したお蔭で慢性的なエネルギー不足に陥っている。現在他のどこにも通信が通らないなら、通信機器をマウントしても邪魔なだけだろう。私なら姿勢制御系を止めるけど、それは私の話。向こうの操舵担当の腕が悪ければ姿勢制御は止めない。やっぱりマニュアル通りに通信機器を止めているのだろう。でも全てをシステムダウンさせるのは考えにくい。だって、
 何人か、この九七世界に武装隊を降ろした後なんだから。
「ブレイズ。モード、シート」
『はいマスター。モード、シート』
 床から立ち上がりつつデバイスに変形指示を出す『彼女』は、メモを何枚か踏み潰しつつソファへ移動する。その間に、デバイスは変形を開始した。
 何本か接続されていたコードを蒼い炎でリジェクトした後、柄の部分がグニャリと歪曲した。足りない部品が瞬く白い光から吐き出され、それを絡め取っていく。フレームと柄から枝のようなものが複数構成され、
 半球状の、割れた卵みたいな形状に落ち着いた。飛行魔法が動いているためか、常に宙に浮かんでいる。
「アンカー1番と2番を。まずは相手のシールドをサーチ。慎重にいくよ」
『了解です』
 窓の前まで行くと、『彼女』はソファには座らず、半球状に変形したデバイスそのものに腰を降ろした。文字通り、この形状は「椅子」らしい。座った途端、視界を覆うように幾つのも半透明なディスプレイが何もない空間に現れた。数値として表記される部分は普通だが、文字は得体の知れない……何やら象形文字のようなもので埋め尽くされている。
『アンカー1射出』
 デバイスの言葉が終わるのと同時に、枝の何本かから蒼い炎が小さく噴射された。銀色の突起物が発射され、腕まくりしていた『彼女』の手首付近に突き刺さる。
「っ」
『あ! す、すいません! 痛かったですか?』
「平気。リンク確立を確認。続いて2番アンカーをリブート。射出はしなくていいよ」
『はい』
 突き刺さった銀色の突起物は数センチ程度の小さいもので、肉に食い込んだ個所から血が漏れる。数滴が床に垂れるが、『彼女』もデバイスも気にしていない。突起物からは極細のワイヤーが伸びて銀色の枝に繋がっており、時折ワイヤーから蒼いスパークが漏れる。それさえも、双方とも気に留める様子はない。
 ただ、目の前に表示される文字と数字の羅列に全神経を集中させる。
『2番アンカー再起動。艦船アースラの後方、シールド出力が5%を切っています』
「前方へのエネルギー集中、か。やっぱり別の世界へ移動するつもりだね。でもどこに……。通信装置、ホントに全部落ちてるの?」
『待ってください……。あった、ありました。1機だけ動いてます。九七世界に散布済みの調査機器、及び数名の魔導師と現在も通信中。暗号化されていますね』
「解ける?」
『こんな標準装備で独創性の欠片もない暗号、子供だましにもなりませんって。マスターの演算素子も借りてるんですから瞬殺です。解析完了。受信者は複数、大半は先ほど艦を降りた魔導師のようですが……1人だけ毛色の違う受信者がいますね』
「アルフ、か」
『? 誰です、それ』
「フェイト・テスタロッサの使い魔」
『―――ッ!?』
 銀色のデバイスが、息を飲んだ。デバイスであるにも関わらず、このブレイズという杖は咄嗟の感情表現が人間と大差ない。
『ま、さか……そんな』
「おかしい話じゃないよ。それよりウィルス突っ込んで」
『は、はい。……回線に侵入しました。妨害しますか?』
「ううん。気付かれてないなら都合がいい。アースラの通信システム、掌握完了。動いているこの回線を常時稼働状態にロック。だけどステータス表示は通信士の操作に合わせて偽装して」
『B227ウィルス散布、済みました。相手側のファイアウォールに変化なし。航行システムにアクセス成功しました。行き先は……第九九世界?』
「え、な―――?」
 そこで初めて、『彼女』の顔色が変わった。アースラが予想外の動きを見せた時ですら、狼狽はしたが落ち着いていたというのに。
「ちょっと、なんであんな場所に」
『わ、私にもわかりません。もしかして、私たちのこと警戒して……』
「いやそれは、ない、と思うけど……。こちらを警戒するのは当然の話だけど、あんなところに逃げ込んだら……」
 怪訝な表情で、表示されたデータを見つめる。見ているものは、アースラの航行システムに入力されていた情報を、あの妙な象形文字に翻訳したものである。
 第九九世界。
 管理局側からは名称すら与えられていない、まだ観測されただけで調査が滞っている未開の土地。だが『彼女』たちは知っていた。
 名前は「ニクドメニアード」。
『……。バカなんじゃないですか、あの人たち』
「アースラのデータベースにアクセスして」
『え? データベースですか?』
「はやく」
『あ、は、はい』
 感情を押し殺したような主の言葉に、何やら圧力めいたものさえ感じたデバイスだが、命令には素直に従った。数秒後には、アースラ乗組員の誰にも知られることなくアクセスを完了する。
『防壁展開、ウィルスも問題なく動いているので、向こうから察知されることはないはずです。何を調べるつもりですか?』
「九九世界の現状」
『は? そんなの、マスター知ってるはずじゃ―――』
「私が知りたいんじゃなくて、向こうがどれだけ知ってるかを知りたいの。もしかしたら、あそこがどういう場所か知らないのかも」
『! 情報、すべて表示します』
 半秒後には、アースラのデータベースに乗っかっている九九世界についての全データが表示された。しかしそれはウィンドウ4つだけの、微々たる情報しかない。
「……まさか、これだけ?」
『はい。管理局の最終調査記録は……―――な、じ、19年前!? 19年もほったらかしだったんですか!? あそこを!!?』
「調査区域は……ここ、もしかしてイドニアラ大陸? それも海岸線だけ……」
『ちょっと、本当にバカなんじゃないですか管理局って!? あそこを海岸線だけ調べてハイ終わりって……職務怠慢にも程があるでしょう!』
「いや、私に言われても……。とにかく、なんでアースラがここを避難場所に選んだのか、そこが謎だよ。これだけのデータで、現在の最高責任者であるクロノ・ハラオウンが八神はやての安全確保のためだけに、ここを選ぶとは思えない」
『あの石頭のことです。案外、この少ないデータだけで九九世界の実情を判断した可能性もありますよ?』
「そうじゃないことを祈ろう。……そうだな、会議室の使用記録を出して。こんな結論に至った経緯を調べたい」
『了解です。会議室使用記録は……我々との接触後、使用した形跡が7つあります。その内の3つに、艦長業務代行者用のアカウントでログインした形跡あり』
「会議資料をコピーして。あ、データそのものはEPCドライブ6番へ」
『? 私の記憶領域なら空いてますけど』
「念には念を、だよ。おそらく私の解析結果でも載ってるんだろうけど、あなたに記録させる内容じゃない。エピソード記憶としてだけ残しておいて。いつも通りにね」
『警戒しすぎのような気もしますが……』
「いいから。はやく表示して」
『……。了解です』
 渋々といった感じでデバイスが答える。声色から、簡単に感情が読み取れるような言葉だった。
 実のところ、『彼女』のインテリジェントデバイスであるブレイズには、『彼女』自身のデータがさほどデータ化されていない。
 使用頻度の高い魔法構築式なら山と記録されているが、それだけなのである。彼女の生い立ちやら渡航した世界の情報などは、ブレイズ自身の「思い出」として登録されているだけで、記録化されていない。その「思い出」も特殊な暗号で4重に迷彩され、さらには「記録」ではなく「記憶」という曖昧な状態のまま保管されている。
 「敵」に対しての防衛策である。妥協していないのだ。『彼女』は常に自身を過小評価していて、自身がハッキングできる内容ならば、どこか誰かの「敵」も同様にハッキング可能なのだと常日頃から警戒を怠らない。その結果が、「いつも通り」という言葉に反映されている。
 そのことに、今まで言葉にしたことは少ないが、ブレイズは不満なのである。実際ブレイズは、
 主の……彼女の本名すら知らないから。
 生まれた時から『彼女』と命運を共にしているというのに。不機嫌にもなる。
『会議資料、結構重たいものですが、すべてコピーできました。一番最初の会議資料を表示します』
 だが、正しかったのは『彼女』のほうだったらしい。ブレイズの声色がまた変化する。
『驚きですね……。アタッカーフィールドで情報は最小限に絞っていたはずなのに、ここまで……』
「まいったな。魔法陣まで見られてる」
 2人が見ているのは、なのはとフェイトが途中参加した会議に使われていた、調査資料だった。
 内容は、なのは、及びフェイトとの初期接触時と、第九二管理外世界を中心とした航路情報。
 航路についてはあまり注目するような情報ではない。しかしもう一方は、無視できる内容ではなかった。
「エイジアについては、まぁいいとしても……宝石まで注目されるとは思ってなかったな。用途が判明してないだけ、まだマシか」
『向こうの解析班の能力、認識を改めないといけませんね。こんなノイズ塗れの戦闘記録だけで、ここまで気付くなんて』
「サファイアの起動は控えた方がいいかな。アレを使うのは、最後の最後、土壇場で、だね」
『そうですね。敵勢力の実力は我々には劣っていますが、数が揃っていますし。それにサファイアは……先の一戦で問題が出ましたし』
「……。別の会議資料は?」
『はい。こちらのほうがデータ量は多いです。これは……海鳴市での一戦ですね』
 今まで表示されていたデータの半数が消え、代わりに別の画像データが浮かび上がった。『彼女』と、八神家との一戦の記録だ。
『記録の日時を信用するなら、ずいぶん早い時間にアースラは九七世界に到着していたようです』
「あ、でもこっちはデバイスに残っていた記録だ」
『む……。アームドデバイスのくせに』
 動画映像の光が、部屋の暗闇をさらに押し退けた。閃光と熱光。蒼い光が、薄暗い部屋を彩る。
「私と、高町なのはを比べたデータが大半、か。あとは……おっ、フレイムランスについては出典がバレてる」
『あれはミッド式ですから。でもブレードについては解析が進んでいない様子……。さっすがマスター』
「いや、誉めるならゴールドラインを誉めようよ……。次のは?」
『こちらは各部署からの調査報告のようです。おかしいですね。九九世界については、どの会議でも議題に上がってない……』
「会議の、議題に無い……?」
 思案顔で呻きつつ、『彼女』は手首から垂れ流していた自分の血をひと舐めする。少し顔をしかめた後、
「現在の艦長席、あと……そうだな、通信席の動作状況って盗み見れる?」
『可能です。艦長席のほうは少しセキュリティが厳しいですが、こんなのどうとでも……掌握しました。表示します』
「……。航路情報だけ、か」
『どうします、マスター』
「…………? あれ」
 と、不意に『彼女』の視線が鋭くなった。通信席のモニター表示……つまりエイミィが現在デスクで表示している映像を見て、何かを発見した。
「この縮小化されたウィンドウ……修復、ツール? なにこれ」
『待ってください。ブリッジ全席にウィルスを散布、メインシステムとの接続を遮断しました。件のデータ、表示します』
 それは、
 あの文字化けだらけの作戦指示書だった。
「……これ、まさか」
『―――管理局からの作戦指示!? どうして!! 次元震で、通信なんて通らないはずですよ!?』
「リトル・グレートウォールの稼働状況を調べて。全機」
『は、はい! 質問信号飛ばします! A1群、A2群、A3群、A4群、A5群、全機稼働確認。B1群、B2……! B2群登録の4、66、91番機から応答ありません!』
「散布場所を表示。それと、残りの機器の稼働状況確認も並行して行って」
『了解です。散布場所、出します』
 表示されたのは立体映像だった。無数の黄色の点が、次々に青く染まっていく。質問信号に対してちゃんと答えてくれた機器の場所だ。しかし、
 一部だけ、赤く表示されている場所があった。こちらの信号に対して、無言を貫いている個所だ。
「ここは……アースラが強行突破した部分、か」
『はい。もしかしたら、船のシールドに接触して付属したセンサーが外れたのかも……』
「本体は頑丈だけど、私が後付けした部分は耐久度高くないからなぁ……。やってくれるね、エイミィ・リミエッタ」
 深々と溜め息を漏らしつつ、『彼女』は卵型の椅子にズルズルと全体重を預けてしまう。何やら疲労した様子だ。
 そう、あの破損メールは、罠などではない。
 真実はこうである。『彼女』たちがこの九七世界へ到達した後、
 最初に行ったのが、管理局本局への情報攻撃なのである。
 『彼女』らの目的は八神はやての殺害であり、一番邪魔なのは周辺を固める守護騎士と呼ばれる護衛だ。次に邪魔なのが交友関係にある魔導師やその関係者……つまりなのはやフェイト、クロノたち。そして三番目に邪魔なのが―――管理局。
 作業そのものは簡単だった。まずは、この宙域近くを担当する部隊に偽の依頼を出して近寄らないよう仕向けさせた後、いなくなったのを確認してから各世界に散布されていた設置式の観測機器等にウィルスを感染させて目と鼻を騙し、後は本局そのものにも時限型で強力なウィルスを多数設置する。それだけだ。おそらく今の管理局本局では全員総出で、前代未聞の大規模情報攻撃に翻弄されていることだろう。確認する術はこちらにはないが、『彼女』自身はけっこう自信がある。その混乱の中では他世界へ向けて人員を割くことなんてしないだろうし、もし仮に近くを艦船等が通っても、滅多なことでは次元震には気付かない。次元震を感知する役目も担っている観測装置が病魔に暈されて、「この周辺は大丈夫ですよ」と信号を出し続けているのだから。
 その時、ちょっとした問題もあった。
 こちらの作戦目標だったアースラに対して、管理局側が作戦指示を出す直前だった、ということ。
 その予想外だった展開を、『彼女』は逆に流用した。中継地点である衛星を撃ち落とし、作戦指示内容は己がデバイスに受信させ、さらに偽装してアースラに送りつけたのである。
 でもここにきて、本当の指示書が送られてしまった。
 本物だったのだ、あの破損メールは。
『参りましたね……。まさかグレートウォールの隙間を縫って、本物のメールが届くなんて』
「……。送信時間が、私が本局に仕掛けたウィルスの起動時間と大体同じだ……」
『え? あ、ホントですね。これは……確か3番目に起動する予定のやつと、同じ時間帯……』
「滅茶苦茶になった本局のシステムが、送信済みのメールを再送信した、のかな。あんまり納得できないけど。でもオリジナルの作戦内容って、現場は第七三管理外世界だった気が……」
『あ、待ってください。……通信です。管理局本局から』
「! アースラには受信させないで」
『大丈夫ですよ。私がホールドしている通信装置以外はシステムダウンしてますから、私が何かしなくてもアースラは受信できません。私の方は受信成功しました。……あらら、またずいぶん破損してますね、このデータ』
「展開できる?」
『まぁ、なんとか』
 そうして表示されたのは、短いテキストファイルだった。ただし、ヘッダーには重要事項を示すサインが赤く点滅している。
 内容は、あまりに間抜けなものだった。
『……数時間前に送信された作戦指示、観測機材設置、及び航路巡回命令の草案はこちらの誤送―――え? 草案?』
「現在謎のウィルス攻撃により本局は混乱状態、システム復旧担当者が操作を誤り……ってことは、人為的ミス?」
『…………。やっぱバカですねぇ、管理局……』
「……」
 なんと言っていいかわからず、『彼女』は小さく溜め息を漏らすしかなかった。
 だが、すぐに顔色が変わる。
「まずい」
『? へ?』
「アースラは、作戦指示が間違いだって気付いていない」
『…………九九世界……。あそこって……』
「レベーカの出身地だよ。グレートウォールの隙間を生き残っているやつで埋め直して。終わったら私たちも急いで行こう。下手したら―――」
 なのはたちも、管理局側もわかっていない。
 そこが……第九九世界と呼ばれる場所が、どんな場所かということを。
 現地名称はニクドメニアード。通称「弱者の庭」。
「―――全員、あそこで死んじゃう」
 その身で経験しているから、『彼女』はよく知っている。
 放置されたカップめんは、結局一口も食べられることなく、生ゴミとして捨てられた。
 
 
「また熱帯雨林、か……」
 辺りを見渡しつつ、フェイトがそう漏らす。ただし前の時と……九二管理外世界に降り立った直後とは、様子が異なる。
 いつでも戦闘に入れるように、視線は警戒の色が濃く、そして握るデバイスは既にサイズフォームに変形していた。準備万端、といったところである。
 フェイトだけではない。その場にいる全員が彼女と同じく、いつでも戦闘行為に入れるよう気構えていた。
 一緒に降り立った多数の武装局員も、なのはも、シグナムも、
 ……はやてと、ヴィータもだ。

 もちろん、この九九観測世界に降り立つ前に、一騒動あった。
 保護対象なのだから当然艦に残るべきはずのはやてと、まだ傷が癒えていないヴィータが、降りる予定だったなのはとフェイト、シグナムの3人と共に、降りると言い出したからだ。
 ヴィータについては動機は単純である。自分の主に剣を向けた憎き相手。主を殺そうとしている、正真正銘の己が「敵」。それがもしかしたらまた罠を敷いて待ち構えているかもしれない。守護騎士として行くのは当然の話であり、負傷しているという事情は彼女にとって待機する理由には成り得なかった。足手まといだというシグナムの冷たい言葉にも、じゃあ砲撃の一撃でダウンしたテメェは何なんだよと言い返してケンカが勃発。双方ともデバイスを取り出してあわや艦内で戦闘、というギリギリのところでなのはが仲裁に入った。ボロボロのアースラ艦内で戦闘などしたら、全員あの世行きだというのに。
 そしてはやても、ヴィータ同様他の面子の言葉を聞き入れなかった。
 狙われているのは重々承知している。この場面で艦を降りるということは、自殺行為にも等しいことくらいわかっている。でも、どうしても確認しなければいけないことがある、と。
 狙われている理由。
 あの少女が、どうしてここまでの憎しみを自分たちに向けているのか、その本当の理由を知りたい。
 それは他のクルーではできない。狙われている自分でなければ問えない事柄だ。大丈夫、自分の命を軽んじたりはしない。絶対に死なない。必ず生きて帰る。4人の守護騎士の主……最後の夜天の主だからこそ、死ぬわけにはいかないから、だから行かなければいけない。そう強く主張した。
 その場にいたメンバーの中で、一番覚悟を決めていたのは、はやてだった。
 ―――当然の話だが、一番頭を悩ませたのがクロノだ。
 艦長という責務上、「敵」の狙いであるはやてを艦の外に出すことは許可できない。だがはやての言葉も正しく、相手の目的を探ることは事態解決への一番の近道だ。ミラージュの「母親」という存在についても現在はまったく情報がない以上、どうしてもミラージュ自身から情報を引き出さなくてはならない。それにこちら側の戦力も考慮すると、悩みどころだった。
 なのはとフェイトは、ここ九九世界に到達する間に睡眠を取っている。失った魔力を回復させるためだが、1時間やそこらで完全回復するわけもなく、本来の半分も魔力が戻っていない。
 シグナムについてはほとんどダメージがないので有り難いが、ミラージュとの相性の悪さは海鳴市で露呈している。下手をするとヴィータの二の舞だ。
 ザフィーラは重傷で動けず、シャマルもその治療のため動けない。
 ……少しでも戦力が欲しいと、クロノも考えてはいた。はやての覚悟だって、本当は無下にしたくはない。
 それでも最初、クロノははやてとヴィータに対して離艦を許可しなかった。こちらだって譲れない。代行だとしても今は自分が艦長であり、クルーの命は戦力云々と天秤に掛けるわけにはいかなかったから。
 だが、突如はやてが、クロノの言葉を聞いて豹変した。
 ニヤリと笑い、
「……最初の罠に引っ掛かったんは、誰やったっけ……」
「っ!!?」
 その後、いろいろはやての言葉巧みな精神攻撃に晒され、疲労の限界に達し、許可を出してしまった。どうやら、こうと決めた時のはやては、なのはと同等くらいに頑固らしい。邪道すら平気で使う有様に、守護騎士2人は危険を感じてブリッジから逃げた。
 身に覚えがあったのだろう。

「アースラから降りる少し前に、エイミィさんから映像見してもらったけど……2人があの子、ミラージュに会うた世界も、熱帯雨林やったよね」
「うん。あ、でも屋外じゃなくて、真っ黒な内装の建物の中だった。いま考えると、あれも謎なんだ……。第九二世界には文明そのものがないから、たぶんミラージュが何かの魔法で造ったものなんだと思うけど」
「建造物を造る魔法、か……。そんなん聞いたこともないし、やっぱ何から何まで謎だらけやなぁ、あの子」
 落ち着いたような会話がフェイトとはやての間でなされるが、双方とも言葉相応の余裕はない。お互い目線すら合わせず、背中越しで会話しながら、視線と意識は周囲を舐め回している。
 気温は魔法で微調整しているのに、頬には汗が流れ、顎から水滴となって地面に落ちる。
 フェイトとはやてだけではない。なのはも、ヴィータも、シグナムも、追従する武装局員の面々も、緊張感で嫌な汗を流していた。
 ―――第九九観測世界。
 発見されてからかなりの月日が経過しているこの世界は、20年ほど前、最後に降り立った管理局員たちの「機材の整備不良」が原因で調査が滞っている。近隣の文明保有世界……要はなのはたちの住む世界についての調査が優先されたため、その後調査隊を編成されることがなかったのだ。最後の調査内容は、文明の痕跡無し、魔法生物は確認されたが全体的な生物の進化状況は初期レベルというあまりに簡潔なもの。他には大気成分や重力の度合、捕獲した小動物の観察記録など、ハッキリ言って使い物にならない情報ばかり。弁明する気はなかったが、クロノはなのはたちに「こういう調査不足はよくあることなんだ」と説明した。管理局といえども人材と資金は有限だ。無尽蔵にあるわけではない。
 惑星の質量がかなりあるため重力がそこそこあるが、人が活動するのに問題が出るほどではない。気温は高いが九二世界ほどでもなく、記録では動物の分布域も狭いらしい。今回降り立った場所はたまたま森だが、南のほうには砂漠が広がっているとか。
 その内容自身が、アースラから転送装置で降り立った面々の緊張感を駆り立てていた。この場所は端的に言えば、管理局にとって資金や手間を掛けてまで調査するような世界ではない。だからこそ、おかしかった。作戦指示書にあった座標の近くに、
 ―――あまりに巨大な、建造物の反応を確認してしまったから。
 文明があるはずのない世界に発見された、謎の建造物。状況は、あの九二世界と酷似していた。
『みんな、聞こえるか』
「……こちらフェイト。よく聞こえるよ、クロノ」
 皆を代表して、フェイトがクロノの念話に応える。現場の指揮を任されたのがフェイトだったからだ。
 本来なら指揮官訓練を多くかじっているはやてがそのポジションに立つべきなのだが、今回は狙われている対象がはやて自身であり、有事の際を考慮してのことだ。
 有事の際など、起きないでくれというのが全員の認識であるが。
「周囲に目立った異変はないよ。場所は森の中。転送に誤差は……たぶん、ないと思う。アースラが捉えた建造物は、ここからだと見えない。やっぱり、少し移動しないと」
「こちらなのは。レイジングハートが調べてくれたけど、周囲の魔力素の分布にはそんなに偏りはないって。……私たち以外の魔導師の痕跡は、ないみたい」
 フェイトの報告に補足するように、なのはが言葉と思念の両方で話す。
 いつもの、明るいなのはの印象とは、少し違った。
「見える範囲に狙撃ポイントはないから、待ち伏せとかじゃなさそう。でも木とかがあるから、アウトレンジは見れないよ。クロノ君、そっちでサーチできないかな?」
『……ダメだな。やはり艦の機器が限界だ。今も整備班が修理を急いでいるが、正直言ってサポートはあまり期待しないでほしい。異変があったらすぐ戻ってくれ。転送装置だけは常時稼働状態にしておく』
「うん。修理のほう、引き続きお願いクロノ君。状況報告はこっちから定期的に行うから」
 なのはの言葉の後、動力の無駄使いを避けるためだろう、アースラから通信回線が閉じる。……誰が現場指揮なのかわからなくなるような会話だ。
 なのは自身にはそんな認識はないだろう。フェイトにしても、そんな程度で文句を言うようなことはしない。
 だから、指揮云々の事柄ではなく、純粋に心配して、なのはに声をかけた。
「なのは……。そんなに肩に力を入れなくても大丈夫だよ? 周辺の魔力素についてだって、バルディッシュもやってくれてるし」
「うん。……―――あ! ご、ごめんフェイトちゃん! 今の現場指揮は、フェイトちゃんだもんね……。ごめんね、口出ししちゃって」
「あ、ち、違、その、そんなつもりじゃないんだよ? そうじゃなくて、えと……」
 慌てて、だけど言葉を選んで、再度なのはに声をかける。
「なのは、なんだか、気負いすぎてるような気がして。ちょっと前から、余裕なさそうだし……」
「……。うん」
 そこは自覚していたのだろう。なのはが素直に肯く。
 この九九世界に到着する直前まで、なのははフェイトと共に睡眠を取っていた。そして起きてからというもの、会話の全てがとこか事務的だたあ。機械的とも受け取れる。
 アースラから降りる際にはやての覚悟の程は、主にクロノに向ける形で示されたが、なのはも、ある種の覚悟を決めていた。
 あの子を止める。
 ただの直感だということは彼女自身、理解している。でも、それができるのは自分以外には絶対いないという考えが、どうしても頭から消え去らない。
 鏡を真正面から見たとき、その虚像を「自分」だと認識するのは人として当たり前の反応だ。だからこそ、なのはは、あの時感じた想いを無視できなかった。
 鏡ではなかったのに、
 本人から言葉にされたのに、
 ミラージュと呼ばれるようになった少女を、なのはは、他人と認識できないでいた。知り合いでもない。親友でもない。それ以上に密接で、否定したくてもできない、絶対的な強制認識が全ての常識を駆逐する。
 ―――あの子は「私」だ。
 どんなに現実的な証明材料があっても、どんなに理論的な説明を聞いても、この不可思議な念だけが剥がれ落ちない。
 あの子の真意を聞き出せるとするなら、それは……原因はわからないが、憎しみを向けられているはやてこそが適任だと思う。でも、
 あの子の行動を止められるとするなら、それは……確証はないが、自分の役目だと感じる。
 あの子はここには現れないと、心の奥底では思っている。やっぱり、あの指示書が罠とは思えないから。でも可能性が1パーセントでも残っているなら、もしあの子が現れたなら、
 親友であるはやてを守るためにも、そしてこの歪で意味不明な認識が頭から離れないからこそ、気は抜けない。
 私がしっかりしないと……。
 それが、なのはの覚悟だった。そして、
「……大丈夫だよ、なのは。私、今度は絶対、混乱したりしないから」
「? フェイトちゃん?」
「……」
 不思議そうにフェイトに視線を向けるなのは。しかしフェイトはもう周囲の警戒のために、意識を森の奥底で沈殿している暗闇に向けていた。
 フェイトも、ずいぶん前から覚悟を決めていた。
 ―――また夢を見たから。

 見知らぬ部屋での、暖炉の温もり。
 まったく会話の成り立たない、異質な問いと自分の回答。
 抗う気持ちすら湧かない、誰かとの約束。

 確認しなければならないことがある。
 訊かなければならないことがある。
 あの夢は、なに?
 本当に夢? それとも現実? 私の、ただの妄想? それならこの想いも、あの暖炉の温かさも、引っ張られた頬の痛みも、額から感じた温もりも、握られた手の暖かさも、約束も、
 全部、幻想なんだろうか。
 全部、夢なんだろうか。
 それとも……。
 ―――確認しないといけない。もちろん、親友であるはやての身の安全のほうが優先ではある。現場指揮を任された以上、他の面々の安全も自分が受け持たなくてはならない。それはわかっている。でも、

『約束して……お願いだから……』

 だから覚悟を決めていた。
 はやての身の安全が最優先事項だ。でも、それに抵触しないような状況なら、ミラージュが現れたなら、
 今度こそ、訊かないといけない。二度目に会った時にはそんな暇すらなかったけれど、今度こそ、
 ―――あなたは誰なのか。
 この疑問に、必ず答えを出す。
 
 
「はぁ……」
 一連の会話は、一応艦から回線は閉じてはいたが、全部アースラに届いていた。溜め息を漏らしたのは、クロノである。
 念話での通信は閉じたものの、武装隊に持たせたサーチャーから常時状況は流れてきている。だからその会話を聞きつつ、彼は頭を抱えていた。
「? どうしたの? クロノ君」
「……いや……」
 何かを言いかけて、だけど結局は、何も言わずに項垂れてしまった。
 状況は最悪だと思う。あの魔導師……ミラージュの実力云々の話もそうだが、それ以上に厄介なことは、
 ―――現場に降り立ったメンバーの、コンディションである。
 なのはとフェイトの魔力が回復していない、というのもある。はやて、シグナム、ヴィータの傷も癒えていない、という事柄も当てはまる。だがそれ以上に厄介なのは……精神面。
 シグナムとヴィータについてはわからないでもない。自らの主の命が、今までにないほど強力な敵から狙われている。心中穏やかにしろと言うほうが無理な話だ。これは仕方がない。問題はそれ以外の面子だ。
 なのはも、フェイトも、はやても……本心は推察するしかないが、ミラージュと呼称するようにした少女に対してあまりに感情移入しすぎている。何らかの決戦に向けて覚悟を決めること自体は悪いことではないが、一連の会話から察すると……三人とも気負いすぎだ。
 あの少女は「なのは」とは別人だ。
 その認識を確固たるものとするために「ミラージュ」と呼称するようにしたのに、三人とも、あの少女に対して他人ではないと認識してしまっている。
 何らかの事件で特定人物を追う場合、私情が絡むようなメンバーはチームに入れないのが鉄則だ。家族や元同僚、元パートナー等がいい例だろう。事と次第によっては油断や同情で、相手を逃がしてしまうことも考えられる。だから艦長代理の立場とすれば、本来はあの三人を前線や捜査から外すのが当然だ。しかし、そうなれば戦力的に大きな痛手となる。
 いや、それは言い訳だ。
 ―――うまい言葉が見つからない。
 あの三人にきちんと、「あれは僕たちとは接点のない魔導師だ」と認識させるだけの、説得力のあるうまい説明が見つからない。だからこんな状況に陥っている。
 三人の覚悟を上回るほどの言葉を、自分は持っていない。彼女たちの覚悟を、どうしても打ち消すことができない。
「…………まだ僕は、艦長という役職には向いていないな、と思っただけさ」
 誰にともなく、そう呟いた。小さな言葉だったからだろう。聞き取れなかったエイミィが艦長席を振り返って「?」という表情をしている。視界の隅でその様子は見ていたが、クロノは改めて言葉を口にすることはしなかった。
 クロノは、漠然とだが気付いていた。
 ―――『彼女』の正体を。
 だけどその考えを言葉にすることはできなかった。絶対にできない。したくない。自分の考えが間違いだという可能性だってある。物的証拠もないのだからエイミィが主張している幽霊話とそう大差もないだろう。この騒動の早期解決にも、おそらく有効な材料にはなり得ない。大体にして自身の想像でしかない。それに家族として、友人として、これだけは絶対に言葉にできない事柄だった。
 言えば必ず、フェイトと、なのはを傷つける。
「ミラージュ……蜃気楼か。確かに、いい名だ」
 再度発せられた言葉はあまりに小さく、誰にも聞こえることなくブリッジ内の機材の駆動音に揉み消された。
 苦悩するクロノの心労だけが、滞積する。
 
 
「まさかとは思うけど……。あれが、あの子が造ったものなんか……?」
 眼下に広がる光景を目にしつつ、信じられないような表情ではやてが言葉を漏らした。
 移動した降下メンバーが目にしたものは、とんでもない代物だった。あまりのことに、他の面子からは言葉もない。
 巨大で広大な、遺跡だ。
 地盤沈下か何かで形成されたであろう直径数キロ単位のクレーターのような窪地の中心に、黄ばんだレンガでそれは積み上げられていた。青々と生い茂る大木の数々に没してはいるが、その全体像は揺るぎがない。正方形型に切り取られた敷地すべてを占領し、外壁は4つの三角形。風化で一部崩れているような部分もあるが、そんなもの微々たる破損であり、その堅牢とした風貌を乱す要因にはなり得ない。数百年を生き抜いたであろう建造物は、近付くモノを魅了し、かつ畏怖の念で退けてもいた。
 ―――ピラミッドである。
「冗談だろ……? あれを、魔法で? あり得ねぇって……」
 やっと言葉を発せたヴィータは、表情を引きつらせていた。見ようによっては笑っているようにも見える。精神的に参っている、というわけではない。呆れていた。
 こんなバカでかいものをただの罠で造るなんて魔導師がいたら、そいつは頭がおかしいに決まっている。
「…………幻術の類ではなさそうです。こちらの機材の情報を信じれば、ですけど……」
 武装隊の1人が、自前のデバイスを操作しながらそう報告する。どよめきが生まれたが、武装隊以外の面子はその言葉を聞いている余裕がない。幻術なんて使う相手ではないと、五人とも身を持って知っていた。
「あの指示書も罠の類だった……。そういうことか?」
「わ、わからない……。確かに、私となのはがミラージュに会ったときも、建物自体はレンガ造りだったけど……」
「スケールが、違いすぎるよ……。れ、レイジングハート、ロストロギアの反応ある?」
『何らかの魔力駆動体を確認しました。目の前の建造物の内部です』
「…………」
 全員、眼下を見下ろす。
 この場にいる全員がアースラから降下する前に、なのはとフェイトが体験したミラージュとの初期接触時の映像を見てはいる。だから目の前の建造物が、ミラージュが用意していた罠である可能性もあると、みな認識はしていた。フェイトの指摘通り、前回もその世界の文明レベルには則さないレンガ造りの建物の中だから。しかしなのはの指摘通り、あまりに建物自体が巨大すぎだ。幻術以外のどんな魔法を駆使すれば、こんな芸当ができるのか想像もできない。
 武装隊の誰かが、小さく、ファントムの名を口にしていた。
 
 
 ―――もちろん、ミラージュの罠などではない。
 なのはたちが遺跡を発見した場所から数百キロ北部で、空間が「ヒビ割れ」を起こしていた。
 圧力に耐えかねてクモの巣状の亀裂が浮き上がるガラスのように、ベキベキ、バキンッ、と音を鳴らして、地面から十数メートル上の何もない空間が悲鳴を上げ、数秒後、
 いくつもの陶器を一斉に割ったかのような、甲高い破壊音が鳴り響いた。
 完全に砕け散った空間の向こう側は、海鳴市の静かな星空。そこから……紅い魔導師が落下した。その手に握るのは、長くて歪な銀色の杖。
 地面からは10メートル弱。飛行魔法を習得している魔導師ならば大した高さではないだろうが、ミラージュは魔法など使わず重力に身を任せて降下した。空中で前転し、体勢を整え、
 驚くことに、無音で着地。
「―――っ、到着した!?」
『ゲートアウトシーケンス中ですけど各種環境データ照合開始! 大気構成成分に万有引力最大値、魔力素分布、電磁場、星図確認できました! 誤差1.2パーセント! ニクドメニアードです!』
 ブレイズが慌ただしい声で報告する間に、割れた空間は元に戻り始めていた。あっという間に夜空の星が、九九世界の青空に復元されていく。
「くっそ、魔力確認! もうアースラクルーは地表に降りてる! 状況は!?」
《ま、待ってください処理中で……っ! 我々の現在位置はセレンネスコフ大陸北東部! 弱者の分布は薄い地域です! アンカー2番起動! 庭の影響下ではありませんが―――ああもー!》
 先ほどまでミラージュと同じ言語で話していたが、ここに来てブレイズは、なのはたちの所有するデバイスと「同じ言葉」で話し始めた。言語処理に割く余裕が失われたためだろう。ついでに落ち着きまで失くしている。
《ほっとくって選択肢はナシですか!? このまま放置すれば八神はやても労せず―――》
「似たようなこと今後言ったら分解検査するよ! いいから状況は!? はやく!!」
《わ、わかりましたやりま―――くそ、バカどもめ……》
「なに!?」
《作戦目標、よりによってメズ・ノー遺跡群、アラクソン宝物庫の真正面です! それも近くに、弱者の反応あり!!》
「―――庭との距離は」
《……宝物庫の半分以上が、庭の内側です》
「――――――」
 2人でしかわからない会話を繰り返した後、ミラージュがおかしな行動に出た。
 左手に握るデバイスをギュッと握りしめた後、反対側の腕の手首をおもむろに、外側に曲げたのだ。途端に防護服の袖の内側、手首のあたりから、何かが飛び出した。
 なのはあたりが見れば、こう漏らしていたであろう。
 ―――リボルバー。
 弾丸6発を収められる空洞には、すでに弾が込められていて、
 またもおもむろに、なんの躊躇もなく、銃口を右の首筋に当て、

 引き金を、引いた。

 バンッと乾いた銃声が辺りに響く。どういう仕組みなのか、握られた小型の拳銃から薬莢が弾き飛ばされた。
《ちょ―――な、なにしてんですかマスター!! それ、そんなにストックないんですよ!?》
「いま使わないでいつ使うの! いいから随時現状報告お願い! 出力調整も姿勢制御も私がやる!」
 叫びつつ、またミラージュは右手首を曲げた。小さな拳銃は袖の内側に引き戻され、
 空いた右手を添え、杖を、地面と水平に構える。
 ―――魔法が、編まれ始めた。
 背中に背負う魔法陣が光り輝き、蒼い炎が燃え上がり、背後に、何かが形成されていく。
 だがミラージュは背後のものなど見ない。
 ここから遥か遠く、地平線の向こう。いくら目を凝らしても見えないところにいるであろう、作戦目標のみを見つめる。
「予期していない事になったけど……やるべきことは変わらない。八神はやても重要だけど」
《わかってます。ひとまず八神はやては後回し。やることは『敵機影群侵略領域への高速突入』と『味方機影の救助と安全地帯までの護送』ってとこですか。なんだ、本当にいつもやってたことと同じですね》
 焦っていたはずのミラージュが、ブレイズのその言葉を聞いて、少し笑顔を見せた。ブレイズ自身も、その言葉に皮肉めいた笑みを含めていた。
 いつも、やっていたこと。
 そう、これこそが『彼女』と、そのデバイスにとっての得意分野である。なのはの独壇場が「長距離砲撃」であるのと同じように、
 ―――「敵地強襲」と「拠点防衛」こそが、彼女らの独壇場だ。
「行くよブレイズ。最優先事項は……あの人たちの安全確保。異論ある?」
《あるわけありませんって! この際です、カッコいいとこ見せてあげましょう!》
「―――うん」
 そして、紅い魔導師が飛び立った。
 六角形のシンボルを抱く魔法陣を背負い、
 防護服とは対照的な蒼白い光を撒き散らし、
 魔導師というカテゴリの限界すら超えた速度で、
 青い空を、切り裂く。
 
 
「けっこう歩いたなぁ……。ここが、一番奥やね」
「たぶん。でも、ミラージュがいるような気配は……ない、ね」
 暗く多湿なその部屋に、はやてとフェイトが先頭を切って脚を踏み入れた。その後ろにはヴィータとシグナムが続き、次になのは、最後尾の殿は武装隊が務めている。
 かなり広い空間だった。
 長方形型のその部屋は、床がほとんど水に浸っている。まるで水路のような溝が規則性なく縦横無尽に刻まれ、そこを透明度の高い水が流れている。湿度が高いのはそれが原因で、床の面積の半分以上はその水路が占拠していた。実用性は感じられない。まるで芸術品のよう。天井は高く、意図的なのか風化なのかは定かではないが、見上げれば真っ暗な天井の闇を切り取るかのように細い光のヴェールが部屋に差し込んでいた。石造りのピラミッドの最深部だというのに、炎の灯もないのに部屋は明るい。床の中心部分だけがせり上がっており、その頂に、
 何かが、浮遊していた。
「……。あの指示書に載っていたロストロギアでは……ないな」
「剣でもねぇじゃんか。つか、何だよこれ。杖?」
 支えもないのに浮遊しているのだから、魔法関連の品だというのは一目瞭然である。だが、長い時間を生きてきたヴォルケンリッターの2人でさえ、その物体を見たことがなかった。
 ヴィータの言うように、一見すれば、杖のようだ。
 全体の色は乳白色。獣の骨から削り出したかのようなそれは、色のせいだろう、固い材質のはずなのに柔らかさを醸し出している。まっすぐ伸びる柄の先には、あまりに繊細で儚い、ヒトを模した彫刻があった。
 両目を瞑り、祈るように両手を胸の前で握り締める女性の彫刻。デバイスなどの戦闘用ではないだろう。儀礼用の、神秘性を携えた杖。足元の幾何学的な水路と合わさって、さながら神殿の守り主―――いや、神殿に祭られる宝物のようだ。
「……なにがどうなってんだよ。ホントに罠なのか? そうじゃねえのか? どっちだってんだ」
 はぁ〜と壮大に溜め息を吐きつつ、ヴィータは後頭部を乱暴に掻いた。苛々している心情が手に取るようにわかる。
 だがヴィータの言葉は、この場にいる全員の心情を的確に表していた。
 この縦に広い部屋に来るまでに、アースラのメンバーはかなりの距離を歩いていた。ピラミッドの内部構造は複雑怪奇で、巨大な全体像とは裏腹に通路はすべて細く、曲がったり、分岐したり、階段を下りたり上ったりを繰り返していた。何度か行き止まりにも遭遇したし、分岐で曲ってしばらくすると元の位置まで戻っていた、なんてこともあった。罠のようなものが皆無だったので負傷者は出ず疲労者だけが増えたが、その程度しか被害はない。もっと言えば、被害など皆無だ。
 人ひとり通るのがやっとという細くて狭い通路。罠を仕掛けるには絶好の場所である。しかし罠など見当たらなかった。魔法でのトラップもなければ、落とし穴とか槍が壁から飛び出してくるような原始的なトラップもない。この部屋とは比較にならない小さな部屋にもいくつか見てみたが、どの部屋も空っぽだった。巨大なムカデ状の昆虫にフェイトとはやてが一度驚いたくらいで、あとは何事もない。
 結果としては、ただの遺跡探索で終わってしまった。ミラージュの痕跡など、どこを探しても見つからない。
 不穏で疑心暗鬼な心労だけが積み重なっていく。
「大体にしてよぉ、この建物、ホントに奴が造ったのか? 風化の仕方とか、壁の老朽化具合とかさ。最近建てられたもんじゃねぇぞ。絶対に」
「うん……。でもそれは、第九二世界でも同じだったんだ。あの時も、見つけた建造物は外壁にコケが付いてて……。最近のものじゃないって私も思ったし」
「だがテスタロッサ、その時は内部の構造が異様だったのだろう。今回は内部も、不審なところは見受けられないぞ」
「……。そう、ですよね」
「いやでもシグナム、この世界に文明の痕跡があること自体が異様なんよ? 内部がどうこう以前に建物全体が不審なんやから」
「……。ではやはり、幻術でしょうか」
「う〜〜ん……どうやろ。武装隊の皆さんからの計測結果聞く限り、幻術やないと思うんやけどなぁ……」
「あーもー、ややこしいっつか、来るなら来やがれってんだ」
「ヴィータ。主はやての危機を―――」
「わーかってるっつの! はやてが危険な目に遭わないほうがいいに決まってる。でもよ、じゃあ今の状況って何なんだよ。これ以上先に道はなさそうだし、奴が現れる気配もない。どうすんだ」
「……。それは……」
 シグナムが唸ったことで、全員の会話が途切れる。ひとまず乳白色の杖から視線を外し、
「アースラ、聞こえていますか?」
 声と念話の双方で、シグナムが呼びかけた。ほとんど間もなく、念話が返ってくる。
『こちらクロノ。艦のシステムはまだ大半が復旧作業中だが、そちらの状況は概ね把握してるよ』
「我々の現在位置は最深部と思われる部屋の内部です。作戦目標だったフォールリーフは見当たりません。代わりに別の物を見つけました。どうも魔力で動いている物のようですが……どうしたらいいでしょうか。あの少女……ミラージュとは関係なさそうな代物ですが、回収しますか」
 シグナムの問いに、数秒だけ間があった。クロノも対処に迷っているのだろう。
『…………そちらの状況はこちらでもモニタリングしている。魔力素の偏りもさほど検出できないから、安全だとは思うが……―――って、おい! 待っ、はやて!』
「?」
 突然、念話の向こう側でクロノが慌て始めた。当然だろう。シグナムがアースラに報告を入れ始めた時点で皆の注目は自然とシグナムに集まり、
 はやてが何を始めたか、初動を感知できたメンバーは誰もいなかったのだから。
「なんや、見た目よりちょお重いな、コレ」
 その声に、誰もが振り返る。
 床より少し高い位置。隆起したような祭壇上の床を登り、はやてが、
 件の杖を、何の警戒心も持たず掴んでいた。
「な、あ、主はやて!! い、一体なにをされているんですか!?」
「はや、はやて!! あ、危ないよまだ安全確認できたわけじゃないんだから!!」
 一瞬でシグナムとヴィータが平静さを失った。ヴィータは慌てて駆け寄り、シグナムに至っては所持するデバイスを床に落としていた。よほど驚いたのだろう。こんな真っ青なシグナムを見るのは稀である。
「ん? そんなん、手詰まりの状況ならこっちから何かアクション起こさんと。……あれ、これベルカ式?」
「だ、ダメだよはやてちゃん! い、いいからソレこっちに渡して! 何の魔法が仕掛けられているかわからないんだよ!?」
 ヴィータが祭壇に上る前に、比較的近い位置にいたなのはがはやてから杖をもぎ取った。
 ―――誰の責任でもない。それは確かな事柄だ。
 何もはやてだって、考えナシで暴挙に出たわけではない。皆の位置関係を把握し、最初に行動を起こせるなら、なのはちゃんやろな。そう判断してから、杖に手を伸ばしたのだ。
 このメンバーの中では一番仲のいいフェイトですら気付かなかった事柄に、はやては早い段階から気付いていた。
 なのはが声を発していない。
 この遺跡に足を踏み入れたあたりから、彼女は何も話さなくなってしまった。誰とも目線を合わせることなく、皆の視線とは別の方向を向いて、周囲の警戒を怠らない。その背中は、何か形容し難い拒絶感があった。
 最初は、フェイトちゃんからの言葉が影響してるんやろか、と思った。遺跡に入る前の現状報告云々で、なにはちゃんがフェイトちゃんより詳しく報告を入れてしまった。そのことにフェイトちゃんはなのはちゃんに、「力を抜こう」と声をかけた。だからなのはちゃんは自分の先行行動にちょお反省して、少し距離を置いているんかなぁ……と。そんな程度にしか考えていなかった。
 だけど違った。
 そんな様子ではなかった。
 油断なく辺りを警戒し、皆の警戒の隙間を補うように立ち振る舞うその姿は、何か切羽詰まるものを感じた。
 これは罠ではない。唯一そう意見を発したなのは自身が、誰よりも今の状況を警戒していた。そんな彼女の背中を感じ取ってしまったからこそ、はやては暴挙に出たのだ。
 守ってくれている。
 自意識過剰な考えかもしれないが、そうとしか思えなかった。現場の指揮や状況分析を他のメンバーに完全に任せ、自身は周囲の警戒のみを徹底的に行う姿は、頼もしくもあり、そして嬉しくもあった。自分は今、頼りの守護騎士を2人も欠いている。艦から降りる際は平気なフリをしていたが、本当は……まだ怖い。
 あの少女、ミラージュの実力の程は痛感している。必ず無事に帰ってくると船では豪語したが、遭遇すれば絶対に無事では済まないだろう。それほど戦力差は歴然だ。
 その自分の弱さを、たぶん、見抜かれていたんだと思う。
 死ぬ気はない。負ける気もない。ただ怖いのだ。あの……研ぎ澄まされたような敵意と憎しみが、身が震えるほど怖い。
 だから、この純白の魔導師は、自分を守ってくれているのだと気付いてしまった。
 いつもの彼女なら先頭に立っている。いつもの彼女なら己が信念を曲げず、自分の考えを貫き通していたはずだ。今までもそうだった。
 でも今の彼女は全ての指揮をフェイトに任せ、自身の「罠ではない」という考えも押し殺して、現れない敵に全神経を集中させていた。
 正直に言おう。……本当にうれしい。
 自分の今の現状……命を狙われているという危険な状況すら霞みそうなほど、うれしく思ってしまった。
 ―――自分の感情に、少し腹が立った。だから、謎の杖に手を伸ばしたのだ。
 なのはちゃんに守られてるんは、ん、なんや、うれしい。
 でも、そんなこと思う今の自分は、あなたに守られる資格、あんまない思うんよ。
「―――お? ヴィータより速いとは、なのはちゃんさすがやな〜。よう周囲が見えとる証拠や。さっすが未来の教導隊エース! 視野の広さは高ランク空戦魔導師の証!」
「か、からかってる場合じゃないの!! はやてちゃん、あんまり無茶なことしないで! 狙われているの、はやてちゃんなんだよ!?」
 本気で怒っているのだろう、なのはの表情は硬い。が、所詮はなのはの怒った表情だ。頬を膨らます様子に、威圧感は欠片もない。
「ん〜……。なのはちゃん、なかなか怒ったときの表情もかわええな……。ん? まず、なんや変な趣味にハマりそうや」
「―――もう! はやてちゃん!! 本気で怒るよ!?」
「あはは……」
 そう笑って、不意に手が伸びた。
 なのはの頭を、何の気なしに撫でてしまう。
「怒ってええよ」
 はやて自身は明るく言葉にしたつもりだったが、自分でもわかってしまうほど、声に寂しさが滲んでしまった。
「―――……え?」
「怒ってもええ。だから、いつも通りにしてや、なのはちゃん」
 言葉を吐き出しつつ、だけど本心だけは胸の奥底に沈めた。これは……これだけは、
 表に出してはいけない。
「いつものなのはちゃんらしくないんよ。……確かに今、怖いで、私。でも……シグナムヴィータもいる。フェイトちゃんもいる。武装隊の皆さんもおるし、成層圏の向こう側にはクロノ君たちもいる。なのはちゃんだけ、全部抱え込んだらあかんて」
 あなたも近くにいるから、とは言えなかった。
 言ってはいけなかったから。
「? ?? は、はやてちゃん?」
 はやての真意がまったくわからないのだろう。なのはが壮大に困惑する。さっきまでのプンスカしていた感情はどこかへ消え去ってしまっていた。
 作戦成功、なんてはやては思う。
 ―――誰の責任でもない。それは確かな事柄だ。
 これは、お互いを思いやった結果である。覚悟の話とは別にした、お互いを考えた行動の結果。はやての考えはなのはの本心を的確に捉えていたし、なのはの行為も、はやてを想ってのことだった。何か別の因子があったにしても、おそらく、
 結果は変わっていなかっただろう。

 ミシッ、と音がした。

「え」
 一番始めに異変に気付いたのは、なのはだった。距離が一番近かったためだろう。
 杖が、動いていた。
 構成する材質の硬度が、その音の元だ。小さな動きにも関わらず、磨り潰すような鈍い音が、杖の先端から発せられていた。
 ―――女性の彫刻が、その瞳を開き、両手を天へと伸ばしていた。
「な、え? 動い―――」

 なのはが言い終わる前に、魔法が起動する。
 鉄色の光の糸が、彫刻から無数に発射された。

 あまりに突然のことに、誰も避けることができなかった。
 クモの糸のような、細くて長いバインド。それも発生した糸の量が凄まじい。決壊したダムから漏れる鉄砲水のように、部屋の空間を一瞬にして蹂躙した。
「わぁ!!?」
「ちょ―――な、なんや!?」
「なのは! はやて―――ぐぅ!」
 全員が悲鳴を上げるが、すべて遅かった。
 バインドの帯は1人につき数十本は絡まり、その場に縫い付けられてしまった。まるで時間が止まってしまったかのよう。そして乳白色の杖が、眩い鉄色の魔力光を放出しながら、ゆっくりと浮上を始めていた。もうなのはの腕からは解き放たれている。つまり……所有者を介せず、自力で魔力を練っていた。
 杖が告げる。
《我エイジアの民を確認す。遺品を求めし愚者よ汝らの邪なる物欲と設計図に流れし偽善を呪うがいい。宣言す。庭の秘儀は全ての奇跡を凌駕した。牙向く弱者に嘆くがいい。奇跡に縋り許しを請うがいい。全てが無駄だと認識し死の底で我らを讃えるがいい。我らこそ超越者にして君臨種。道を外れし愚かなる従属種は隷族の身を弁えよ。その生に悔いあるならば我が頂に座する者の栄光を紡げ。その言は一度限りである》
 突然の、訳のわからない言葉の羅列。理解できるものなど、一人もいなかった。
「な、なんやコレ……デバイスなんか? 一体、な、なに言うてるん?」
「はやて! ―――くそ、このバインド、外れねぇ!」
「―――っ、やはり罠だったのか!」
 輝きを増す杖に注意を払いつつも、バインドを解こうとするヴォルケンリッターの2人。だが身体の自由を奪っているバインドの数が多すぎだ。何本かがすぐに千切れるが、その程度では満足に動くこともできない。
「くっ……数が、多すぎる! なのは! はやて! そこを動かないで!!」
 フェイトも、はやてたちからは比較的遠い位置にいたがバインドを貰っていた。身をよじりながら脱出を図っていたが、それがいけなかった。
 勘違いしても当然だった。杖は、なのはがはやてから引き離して数秒後に起動した。だからなのは、もしくははやてが何かのトラップに引っ掛かったと、フェイトはそう思っていた。
 そうではない。フェイトの言葉に、乳白色の杖が反応した。
《その言は栄光に非ず。対象を識別……隷族の民よその身を弁えるがいい》
「……え?」
 途端、

 フェイトの足元に、ベルカ式魔法陣が展開された。

 その鉄色の光は、その場にいる魔導師たちの誰の色でもない。
 杖が、何かの魔法をフェイトに対して行使している証だ。
「―――!! フェイトちゃん!!」
 顔色を真っ青にして、なのはが叫ぶ。
 それにも、杖は反応した。
《その言は栄光に非ず。対象を確認……隷族の民よその身を弁えるがいい》
「―――っ!?」
 あまりの事態の急展開に誰も追い付くことができず、
 なのはの足元にも、鉄色のベルカ式魔法陣が出現した。
「ちょ―――待ってや! 隷族とか何とか、一体なんのことや!! 2人をどうする―――」
 はやての叫びは、しかし次の轟音でかき消された。音の発生源は3か所。
 2つの鉄色の魔法陣が、流された魔力を喰らって術式を発動させた音であり、
 長方形型の部屋の上……天井が、蒼い炎で破壊された音だった。

 なのはとフェイトの姿が、床に没し始める。
 強制転移魔法だった。
 
 
 
「主はやて! 奴です!!」
 バインドの解除に苦戦しながらも、最後の爆音が鳴り響いた方向……天井を見上げ、シグナムが叫ぶ。その視線の先、確かに『彼女』はいた。
 真紅のバリアジャケット。
 歪な蒼い炎。
 銀色のインテリジェントデバイス。
 ―――ミラージュと呼ばれるようになった、あの魔導師だ。
「―――」
 だけど、はやては上など気にしていられない。目の前の鉄色の魔法陣に呑まれていく友人の様に、愕然とする。
「―――なのはちゃん!! フェイトちゃん!!」
 叫ぶが、そんな悲痛な声を切り裂くように、
 蒼い槍が、頭上から降り注いだ。
「っ!?」
 突然の攻撃魔法に、さすがのはやても驚いた。だが槍は自分にも、守護騎士の2人にも降り注がない。
 着弾した炎は、床に描かれた水路を吹き飛ばしていた。
「……え?」
 爆発と共に、なぜか自分の身体を縛っていたバインドの威力が幾分落ちたのを感じた。そこで初めて、はやては頭上を見上げた。
 紅い魔導師は、自分のことなど見ていなかった。

「モード、ソード2!」
《SDSバージ! ロストロギア確認! モード、ソード2!!》
 突入した遺跡の下部、光の帯に縫い付けられた、何人もの魔導師を見て、
 理性が消し飛んだ。
「―――」
 何か言葉を発しようとして失敗した。いや、言葉なんて無意味だと判断したからかもしれない。
 縦に長い部屋。その中央部に陣取り、捕縛魔法を起動させているガラクタ―――見覚えがあった。
 クイックウィングで下方に加速。姿勢制御なんてする暇なかったから心理魔装が「制御不能」の文字を網膜に映し出すけど、そんなもの構っている場合じゃない。エラーを放置したまま地面に向かって急降下する。鉄色の魔力が度合いを増す。私の槍じゃ、演算補助である床の魔法陣を破壊しきれなかったらしい。もう庭の敷地内だからだろう。
 目の前には縛られて動けない、八神はやてとヴォルケンリッター。それと、おそらくは管理局の武装隊員数名。
 今はどうでもいい。
 床に吸い込まれていく、2人の人影。
 片方は―――無理だ。位置関係が悪い。私の速度じゃ間に合わない。
 もう一方は……間に合うか微妙だ。
「ソースを魔力に変更! LSDS最速起動!」
《っとに、どうなっても知りませんよ!》
 姿勢制御も初期衝撃緩和動作も省略しての大加速。自前の魔力を消費してバインドの網に自分から突っ込んだ。こんな捕縛魔法なんて私とブレイズにしてみれば空気に等しい。床に一定距離まで近付くとまた網膜に文字が浮かび上がる。「緊急回避」なんてしてられない。全ての飛行制御を手動にして安全基準クソくらえの距離で方向転換。バリアジャケットの肩部が地面と接触して摩擦熱が伝わる。「緊急回避」の文字が「転倒」に変わった。気にしてられない。
 地面を滑りながら、手を伸ばす。
「手を伸ばして!!」
 大声で叫ぶ。あらん限りの声で。
 目の前の金色の少女は、驚いた表情を浮かべながらも、
 バインドに抗いながら、手を伸ばしてくれた。
「――――――っ!!」
 完全に、ギリギリのタイミングだった。鉄色の魔力の糸を粉砕しつつ床を滑り、
 その華奢な指先を、助けを求めるような手を、掴めなかった。

 全部、瞬く間の出来事やった。
 蒼い炎の槍が降り注いだと思ったら、今度は紅い魔導師……ミラージュが、すごい勢いで急降下してきた。
 あの海鳴の街で私たちと戦った時とおんなじように、バリアジャケットに付いてる宝石から断続的に炎を噴射しての大加速。部屋中を覆い尽くしていたクモの巣みたいなバインドをものともせず私たちに接近して……だけどやっぱり、私のことは眼中に入ってない。床に接触しそうな勢いで急速な方向転換をかけ、いや、床に接触しながらも、スライディングのようにデコボコの床を滑って、
 今まさに、魔法陣に飲み込まれようとしているフェイトちゃんを、助けようとしていた。
 一瞬の出来事だったはずやのに、私は驚いてた。二重の驚きやった。
「手を伸ばして!!」
 冷静沈着に私たちを行動不能に陥れた魔導師が、あんな感情を顕にして、フェイトちゃんを助けようとしていた。その出来事自身に驚いていたし……一瞬だったはずやのに、その一瞬の出来事にそこまで頭が回っている自分自身に驚きやった。
 だけど、ほんの0.5秒くらいの差で、

 ミラージュの手は、伸ばされた手に間に合わんかった。

「あっ!」
 咄嗟に叫んでた。だけどどっちの意味合いなのか、自分でも区別できん。間に合わなかったことに対してなんか、
 間に合わなかった紅い魔導師が、部屋の壁面に向かってすごい速度で突っ込んでく様に対してなのか。

 伸ばした手を握り締め、紅い魔導師が、
 凄まじい破壊音と共に、部屋の壁面に衝突した。

「―――! うわ、わぁ!」
 あまりの衝撃に部屋全体が揺れた。床や壁面と繋がっているバインドから震動が伝わったのかもしらんけど、それにしてもすごい衝突。まるで遺跡全体が身震いしたみたいや。
 でもすぐに、別の振動が空気を震わせた。覚えがある。『彼女』の……ミラージュの、あの瞬間加速に用いる爆破音や。壁面にできた穴から、紅いシルエットが弾丸になって、
 私のほうに、
「っ!?」
 銀色の―――斬撃! あ、あかん! バインドはまだ―――。

 銀色の剣は、
 鉄色の魔法障壁に、衝突した。

「―――え、」
 ……? どうも、勘違いやったらしい。彼女は初めから私を狙ったんやなく、
「骨董品のくせに……」
《我新たなる盗掘者を確認す。遺品を求めし愚者よ汝らの邪なる物欲と設計図に流れし偽善を呪うがいい。宣言す。庭の―――》
「御託はいらない。許しなんて請わないし、あなたの所有者の名も言葉にする気はない。忘れられたなら、大人しく塵に帰れ」
《―――汝が塵となれ》
 途端、鉄色の魔法障壁が内側から炸裂した。
「うぁっ!」
 比較的近い位置にいたから、爆発の余波をもろに浴びた。けど大して痛くないし、熱くも痒くもない。それは―――その攻撃手段が、私に向けられたものやないからや。
 乳白色の杖も、
 紅い魔導師も、
 今この瞬間だけは、私を見てない。お互い、「敵」同士しか眼中にない。
 少しだけ距離を置いたミラージュが―――なのはちゃんとソックリな魔導師が、白い杖を睨む。
「攻撃手段なんてろくにないくせに、よくそんな言葉を選べ……ああ、なるほど。自我まで風化してるのか」
《―――汝は危険だ。排除する》
「やってみろよ、廃棄物」
 私たちと戦った時と、ぜんぜん気迫が違う。言葉使いも乱暴で、その瞳は敵意で研ぎ澄まされてた。
 これが、
 この子の、本当の―――。

 紅い魔導師から、激しい爆発音が鳴り響いた。
 肩と、スカートについてる宝石。
 計4箇所からの、炸裂に似た、轟音。

 炎熱による加速を得た小さな身体は、もうとんでもない速度で杖に向かって突っ込んだ。
 瞬きすらできんかった。杖とそんなに離れていない距離にいた私がホントに瞬きすらできんかったんやから、脚色でもなんでもない。動きを追えたわけやなく、もう、目に焼き付いたって感じやった。
 ただの蹴り。
 なのに、クモの巣みたいなバインドも、たぶんバリア系の魔法障壁も、ぜんぶ粉砕して、
 槍みたいな一直線の左脚が、乳白色の杖を―――真っ二つに踏み潰した。
 
 
「ザコめ」
 踏み潰した獣の杖を見下ろしつつ、怒りを侮蔑と共に吐き出しながら、紅い魔導師が呟く。
 その他の……主に武装隊の面々は、完全に言葉を失っていた。状況に付いていけない。
 突然のバインド魔法と意味不明のロストロギアの言葉。2名の魔導師が魔法陣に呑まれ、
 それを……おそらく助けるためだろう。紅い魔導師が介入してきた。
 情報と違う。
 あの魔導師は、我々の敵ではなかったのか。
 今の魔法は、一体なんだ。
 あまりの加速。あまりの正確無比な姿勢制御。床に接触する直前の飛行魔法の制御は―――あんな速度で、あんな角度で、曲がれるものなのか。
 人が扱える魔法の限度を、超えている。
 誰かが、そっと呟いた。
「――――――ファント、ム……」
 その言葉に、『彼女』が反応した。
「あなたたちは邪魔です。少し寝ててください」
 右手を前に翳す。
 デバイスは左手。本体の向きは右。モードは直接攻撃形状。角度90。状態は陸戦時で停止中。敵機影多数並びに距離ミドルレンジに散在。
《Cluster needle》
 アクショントリガーを引かれ、デバイスが自動で詠唱した。顕現したのは無数の炎の針。発射体もなく術師の手元から直接発射された50あまりの鋭丸が、呆然としている武装隊全員を襲った。
「ぐあっ!!」
「うわぁ!?」
 まだ消えずに残ってたクモの巣状のバインドすら粉砕し、炎の針が局員たちを吹き飛ばす。あまりの威力に幾人かが宙を舞った。バリアを張る暇すらない。少しの間の後、鈍い音と共に床に落下した。
 立っているのは、残り4名。
 紅い魔導師と、はやてと、守護騎士の2人のみ。
 なのはとフェイトの姿は……もうここにはなかった。2人を転移させたであろうベルカ式の魔法陣も、今はもう消えている。
「…………」
 無言で、はやてを見つめる紅い魔導師。
 その瞳には、前に会った時のような殺伐とした雰囲気はない。ただ様子を窺うように、じっと見つめている。
 沈黙に耐えかねたのは、見つめる紅い魔導師でも、見つめられているはやてでもない。ヴィータだった。
「―――てめぇ、偽なのは! 今回は前みたいにはいかねぇからな!! 覚悟し―――」

 無言のまま、視線すら向けず、紅い魔導師は剣を横一線に振るった。
 蒼い弾丸が、ヴィータに向かって射出。

「―――うぉっ!?」
 かなりの速度の単発射撃だった。慌てたヴィータが咄嗟にデバイスを掲げて弾丸をすらすものの、タイミングが合わずにその場で転倒。ベシャリ、という尻もちした音が静かになった部屋で嫌にはっきり響いた。
「て、てめ、この―――」
「静かにしてください。いま考え中です」
 やはり見向きもせず、なにやら不機嫌な様子でそう言葉を漏らす紅い魔導師。ヴィータのことを眼中に入れていないどころか、気にも留めていないらしい。
 しばらくすると、はぁと溜め息を漏らしてはやてから視線を逸らし、右の人差し指でこめかみ辺りを少し掻きつつ、左手で剣をくるりと回す。見ようによっては確かに、何か悩んでいるようだった。
「…………ロッド1」
《Yes master. Mode “ROD1”》
 回転していた銀色の剣は主の命を受け、変形を開始。白い光の中から出現する追加パーツを取り込みつつ、はやてたちにとってはもう見慣れてしまった長杖へと姿を変えた。それでも、紅い少女の様子はあまり変わらない。変形が終わったデバイスにすら意識を向けないで、相変わらず左手で器用にクルクルと回している。どうもこの少女、デバイスを回すのは何か癖の一種のようだ。ペン回しと理屈は同じなのだろう。
 だが、その回転が不意に止まった。ガスッと音を立てて床に突き刺し、もう1度深く溜め息を吐き出してから、はやてを見て、
「八神はやて」
「―――な、なに、なんや」
 相手の出方を警戒していたはやてが、突然名前を呼ばれたことで狼狽する。数時間前に殺されかけた相手が目の前にいるのだから、緊張するのは当たり前だ。声が裏返ってしまったことに少々顔を赤らめつつ、だけどそんな様子も気にしていない紅い魔導師は、
「前に言った言葉……次に会ったときってのは撤回します。今はあなたの首より、優先すべき事柄がありますので」
「……は?」
 はやてにとっては対処に困ることを一方的に告げた後、両手で杖を構えた。先端は、敵……はやてたちには向いていない。若干斜め上に傾け、
「アンカー1、2、射出」
《Connect anchor 1 and 2, Fire》
 そう、命令を発した。

 ガシャンと音を立てて、銀色のフレームが一部展開。蒼色の炎を踏み台にして、
 小さな針と、大きな針が発射された。

 小さな針は、黒い指抜きグローブとジャケットの襟の合間……魔導師の手首付近に刺さった。大きな針のほうはワイヤーを引き連れつつ、派手な破砕音と共に溝だらけの床に突き刺さる。
「な、」
 その様子に、はやてが驚きの声を漏らす。
 な、なんなんやホント、あのデバイス! どういう機能か知らんけど、自分の主を傷つけるなんて……!
 デバイスには……主にミッド式には、安全機構が多数備え付けられている。魔法及び魔力の暴走によって所有者を傷つけないように、二重三重のセキュリティが設けられているのが普通だ。フルドライブ時は例外だが、それでもデバイスが所有者に、いくら命令といえど外傷を与えるなんて異常事態以外の何ものでもない。インテリジェントデバイスならば尚更だ。
 だが目の前で精神を研ぎ澄ませている魔導師と、そのデバイスには、一般常識が悉く当てはまらないらしい。
「1番アンカー、及び2番アンカーとの接続確認。パターンファイルssi、ssh、svi、sza、sreを再コンパイル。“MC”、最小規模でラン」
《Program "MC”, Start!》
 何かの魔法なのか、その謎だらけの会話が終わったと同時に、

 遺跡全体が、揺れた。

「ぐ―――えっ」
 思わず、はやてが唸った。あまりに信じられない程の、船酔いのような、突然の吐き気だった。
 建物が揺れているわけではない。地面が揺れているわけでもない。ただ全てが、歪んだ。
 紅い魔導師を中心に―――空間そのものが、歪んでいた。
 ぐにゃりと周囲の景色がねじ曲がる。視覚も、平衡感覚も、何もかもが周囲の異常さに悲鳴を上げる。こんな現象いまだかつて経験したことがない。まるで辺りの空間に、自分が溶けていくよう。自分と他の存在との境界線が、曖昧に―――。
《”MC”終了します。各種環境データ照合開始。……庭の影響を若干受けましたが、問題ないレベルです》
「アンカーを全部引き上げて」
《はい、マスター》
 ―――突然、眩暈が収まった。はやての身体はいつの間にか傾いており、
 固い床が、目の前まで迫っていた。
「っ!」
 咄嗟にシュベルトクロイツの柄を床に突き刺し、どうにか転倒を避ける。全体重を杖に預け、
「――――――は―――は……は、ぁ…………はぁ……」
 肺が勝手に、酸素を欲した。
 不調は元に戻っている。眩暈も、さっきまでの異常なほどの不快感もない。だが突然の異変に、頭も身体も付いていけない。
 なん、なんや今の…………。攻撃……?
「転送先、割り出せる?」
《……どちらも最悪です。左側の魔法陣はセレンネスコフ大陸南部の、ミスコ砂漠。右側はイドニアラ大陸西部、レノフォロス大森林です》
「一応聞くけど、やっぱり、どっちも庭の中?」
《私のデータが正しいものであれば、ど真ん中ですよ。隙間もないくらいに》
「……」
 話し声が、どこか遠くに感じる。それでもなんとかはやては顔を上げ、前を見た。
 紅い魔導師はやはり、はやてや守護騎士、管理局武装隊のことなど気にも留めていない。自身のデバイスと意味不明な会話を続け、だが、
「八神はやて」
「っ!」
 突然、はやてのほうを見た。
「―――なんや」
 敵意を顕にしつつ、問い返す。虚勢と、警戒の結果だ。
 状況は最悪の一言に尽きる。武装隊の面々は一瞬にして倒され、なのはとフェイトはいない。視線を少し動かせば、頼りの守護騎士2人も視界の隅で床に倒れていた。おそらく先の不可解な歪みに耐えられなかったのだろう。自分だって、耐えたとは言い難い。眩暈が消えたのに視線はフラフラと泳ぎ、平衡感覚のマヒは未だ覚め止まない。杖を握る手から少しでも力を抜けば、いとも簡単に倒れるだろう。
 ま、マズッ、いま攻撃されたら、防ぎようが……。

「……高町なのはの救援に向かってください。かなり、すごく気は進みませんが、あなたに任せます」

「―――――――――はい?」
 突然の、まったくわけのわからない、言葉だった。
「術式の仕組み上、転送は一度限りのようです。それも1人用。助けに行けるのは1人のみ。……魔力資質を考慮すると、ミスコ砂漠に行くならあなたが適任です。上空からの広範囲砲撃魔法なら、何とかなるはずです」
 はやての混乱を余所に、一方的に話す紅い魔導師。だがその様子を見ていて、ある違和感に、はやてが気付いた。
 直前までなかったものが……いや、少し前に、突然現れて、突然消えたはずのモノが部屋の内部に存在していた。
 光輝く、鉄色のベルカ式魔法陣。
 なのはと、フェイトが呑まれていった、強制転移魔法陣だ。
 …………どう、なって……。
「念のため言っておきますけど、そこのプログラム生命体じゃ役に立ちませんので。近接戦闘能力だけじゃ、どちらに行っても死ぬだけです」
「……一体、なにを―――」
 問い詰めようとして、しかしはやてが言葉を続けるより、紅い魔導師の行動のほうが速かった。
 少し前にフェイトを飲み込んだ魔法陣に、躊躇いもなく足を踏み入れる。
 瞬時に、罠が起動した。
「ちょっ!? ま、待ってや! 一体なにがどうなってるかもわからんのに、それに―――」
 魔法陣が発光を強め、それに比例するように紅い少女が床に吸い込まれていく。戸惑うはやてを見つめ、
「心配無用です。数日かかるでしょうが……フェイト・テスタロッサは必ず確保し、安全な場所まで護送します」
 真っ直ぐ視線を向け、一方的にそう告げて、
 紅い少女が、魔法陣に呑まれていった。
 
 
「く……そっ。一体なにが……。ヴィータ、無事か」
「なんとか、な……。ったく、なんだってんだ、あの野郎……。ワケわかんねぇこと、ばっか、しやがって……」
 フラフラと身体を揺らしつつ、やっとの想いで、守護騎士2人が床から身を起こした。すでに紅い魔導師の姿はない。
 2人のコンディションは、少し前までのはやてと同じようなものだ。突然の空間の歪みに五感を翻弄され、その影響が今も抜けきらない。数時間前の戦闘のダメージも残っているのだから無理もないだろう。それ以前に、少々気を失っていた。自分のデバイスを握り直し、周囲を見渡す。
 先に、ヴィータが気付いた。
「……? お、おい、あれ……」
 ヴィータの言葉にシグナムが顔を上げる。ヴィータの表情を見て、何かを見て驚いてる様を感じ取り、その視線を追う。
「あれは……」
 視線の先にあったのは、あの鉄色の魔力で輝く魔法陣だった。
 そして、その光を見下ろす、はやての姿。
「……?」
 状況が掴めなかった。あの魔法陣は確か、高町なのはを飲み込んだトラップ型の魔法陣。罠にかかった相手を転送した後、消失した筈だ。それが再び現れ、
 それを見下ろしている己が主の、様子がどこかおかしい。
「主、はやて?」
 どこか遠慮気味に声をかける。だがはやては、シグナムの声に耳を傾けていなかった。
 傾けている余裕など、少しもなかった。

『転送先、割り出せる?』
『高町なのはの救援に向かってください』
『術式の仕組み上、転送は一度限りのようです。それも1人用。助けに行けるのは1人のみ』
『魔力資質を考慮すると、ミスコ砂漠に行くならあなたが適任です』
『近接戦闘能力だけじゃ、どちらに行っても死ぬだけです』
『心配無用です。数日かかるでしょうが……フェイト・テスタロッサは必ず確保し、安全な場所まで護送します』

 はやては何度も紅い魔導師の言葉を反芻し、何度も、考えていた。
 一分も満たなかった葛藤の間。だけど結論に達し、そして自分の浅はかさに幻滅していた。
 なに考えてるんや、私。
 罠かもしれん? 危険かもしれん? んなの、悩む暇ないやんか……。悩む暇なんてない。考えてる時間も無駄や。私は、

『あなたに任せます』

 何かが、頭の奥で切れた気がした。
 足を、一歩前に踏み出す。踏み入れた途端、魔法陣は獲物を得て動き始めた。
 身体が、沈む。
「な―――主はやて!!」
「は、はやて!!? 何してるんだよ!! いま助け―――」
「シグナム!! ヴィータ!!」
 慌てて駆け寄ろうとする守護騎士たちを制するように、はやてが大声で叫んだ。その瞳にも表情にも、浮かんでいる感情は1つだけ。
 頑なな、決意の色だった。
「アースラに戻ってクロノ君たちに報告しといて!! 私は―――なのはちゃん助けに行く!!」
「は―――え? な、なに、何で、どうなってんだよ!? はやて!!」
「心配いらんから!! 必ず……なのはちゃんと一緒に、戻ってくるから!!」
「―――っ、はやて!!」
「主はやて!!」
 まだ回復しない身体を無理やり動かし、禍々しい鉄色の魔力光に向かって駆け出して、だがヴィータの手も、シグナムの手も届かぬうちに、
 はやての姿も、消失した。
 
 
 
 言ってはいけない言葉がある
 触れてはいけない事柄がある
 たとえ家族であろうとも


Next 第6話 炎と雷と

 家族だからこそ 言えない事柄がある


GIFT館へ戻る

inserted by FC2 system