魔法少女 リリカルなのは AnotherS

 

 


 側にいてくれるなら
 私の横で 笑顔でいてくれるなら
 それだけで 私は胸を張って 生きていける

 ……恥ずかしそうに紡がれた言葉
 その声に その表情に 昔の影は微塵もない
 泣いているような瞳を助けたいと 強く願った人
 友達になりたいと 強く願った人
 そして誰よりも 強く 熱く 想った人
 だから 私はあなたの側にいる
 寂しさや 悲しみから 守ってみせるから
 ずっと あなたの側にいるから だから
 ―――私が なのはを守る
 
 
 
          第4話 大切な人のために
 
 
 1年前に起こった「闇の書」事件は、現地にいた魔導師と時空管理局局員数名、そして闇の書の持ち主であった魔導師と、その騎士たちの協力によって終結した。
 終わってみれば死者はゼロ。これは奇跡の数値だ。
 第一級捜索指定遺失物、「闇の書」。危険極まりなく、管理局がどうにかしたくても放置するしか手がなかったロストロギアを死者も出さずに解決するなど、本当に奇跡のような話だった。
 「闇の書」は負の遺産である。
 多数の世界の魔法体系を記録・貯蔵するのが本来の機能であった書物は、幾人もの所有者の手を渡り歩く過程で役割を変貌させてしまった。記録方法は「リンカーコアの捕食」、所有者もしくは本体自身が消滅すると本体だけが修復され別次元に飛ぶ「転生機能」、蒐集が666ページに達すると暴走を始める「防御プログラム」。「夜天の魔導書」という名前だったのが、「闇の書」などと蔑まされるようになったのも頷けるだろう。その歪な機能は人に不幸や不運を与えるだけで、「闇」を残すだけで、それ以外は何も残さない。悲しみと不幸を周囲に撒き散らし、そして止まらず転生し続ける。
 だから、止まったのは奇跡のような偶然の重なりと、関わった者たちの強い意志と、お互いを「助けたい」と願った想いなのだろう。
 それが「主に関わった者たち」と、「管理局」の視点だ。
 だが奇跡だったにしても、それはハッピーエンドだったのだろうか。
 管理局から見ればハッピーエンドだったのだろう。今まで対処に苦しんできたロストロギアの消滅。それに加え、特殊技能者として闇の書の主、即戦力として守護騎士と呼ばれる四名の魔導騎士を手に入れたのだ。これ以上はない成果である。
 「主に関わった者たち」からは、どうだろう。
 はっきり言えば、ハッピーエンドには程遠い。麻痺が内臓機能まで阻害しかけていた闇の書の主の病状を停止させ、さらに回復の見込みが生まれたのは良かった。分離させた闇の書の「闇」……防御プログラムを消滅させ、それにも拘らず闇の書の一部であった守護騎士を存命させることができた。これもよかった。しかし、犠牲は出たのだ。
 管理プログラム。闇の書の意志。
 祝福の風、リインフォースと名付けられたユニゾンデバイス。銀髪の女性はその身の消滅を願った。自分が存命していれば、いずれ防御プログラムは生成してしまうから、と。そして彼女は深々と降り積る雪の中、だけど笑って、空の彼方へ消えた。
 後悔はなかったから。
 主と、話すことができたのだから。
 主のために、戦えたのだから。
 主に、名を貰えたのだから。
 はっきり言えば、ハッピーエンドではない。だけど彼らに尋ねれば、おそらくは皆、ハッピーエンドだったと答えるのだろう。ダメな結果だったと……こんな結末は受け入れられないと言ってしまっては、その身を犠牲にしたリインフォースの決意が無駄になるからだ。あの最後の笑顔を無意味なものに変えてしまうから。
 だから、どちらの視点から見ても「闇の書」事件の顛末は、ハッピーエンドだったのだろう。
 奇跡が起きたのだ。死者がゼロという数値で。
 ―――本当に、そうだったのだろうか。
 今回の事件では確かに死者はいなかっただろう。「主に関わった者たち」に訊いたとしても、「リインフォースの想いは夜天の魔導書の主に溶けたんだ。死んだわけではない」と、そう言うだろう。それなら確かに、死者はゼロだ。
 ―――そうだろうか。
 闇の書事件は今回が初めてではない。消滅するごとに転生を繰り返す歪な書物は、調べれば調べるほど、過去に遡れば遡るほど、いくらでも死者は出てくる。大体にして、所有者は最後には闇の書に喰われるのだ。幾人の魔導師の手を渡り歩いたかは管理局すら把握できないが、その大半が命を落としているだろう。そして関係者にも死者はいる。クロノの父が代表例だ。
 それに、忘れていないだろうか。
 ―――本当に、あれはハッピーエンドだったのだろうか。
 奇跡。死者はゼロ。
 だが「被害者」は、どうだろう。
 内臓機能にまで麻痺が広がり、その病状を止めるために、守護騎士は何人の魔導師のリンカーコアを蒐集したのだろうか。それに蒐集された魔導師の「関係者」は、「家族」は、はたして犠牲にカウントしなくていいのだろうか。大切な家族を、友人を、恋人を傷付けられた。直接的な被害ではない。だが彼らも心に傷を負い、彼らもまた犠牲者であるとするなら、その想いは事件解決ですべて無くなったのだろうか。事件解決後、騎士とその主は被害者、または関係者や家族の元を訪ねて謝罪を行っている。だがそれだけで、闇の書の主やその騎士たちに対しての恨みや憎しみが……悲しみの連鎖が、なくなったと判断していいのだろうか。
 そんなはずはないだろう。
 事件は確かに終わった。闇の書と呼ばれる負の遺産は消滅した。だが騎士たちのことを潔く思っていない者たちは、少なからず存在するのだ。
 そして、大体にして、
 ―――本当に、あれは「終わり(エンド)」だったのだろうか。
 数百年も転生を繰り返し、「闇」と「悲しみ」と「死」を連鎖させ続けた闇の書の、あれが本当に終焉だったのだろうか。

 彼女に訊けば、こう答えるだろう。
「……いえ、あれが悪夢の始まりです。でもここにいる誰か個人を責める気はありませんよ。誰にも責める権利なんかないし、もし責める人がいたとしても、私なら「じゃあ自分でどうにかしてみろ」って、逆に責めたりすると思います。だから、あなたたちの行動は正しいです。これ以上はないってくらいに完璧な答えで、完璧な成果で、最高の結果で……。一番悪いのは間違いなくれ―――時空管理局です。だから私は……」
 全てを知る『彼女』は、こう答えた。
「だから私は、ここに来たんです」
 終止符になんて、興味ない。
 大好きな人たちを裏切ってきた。それでも叶えたい願いがある。叶えたい約束がある。
 これですべてが終わるのかもしれない。だけど終わらせるために戦ってきたわけじゃない。使命感もないし英雄を気取るつもりもない。そんなもののために来たのではない。

 戦う理由は、ただ1つ。
 
 
 
「な……なのはちゃん……?」
 呆然としつつ、その名を呼ぶ。だけど目の前の少女は、ただ冷たいような、鋭い視線を向けるのみ。はやての思考は完全な混乱状態だった。
 もう何がなんだか、全然わからない。
 突然消えた、お店のお客さんと従業員さんたち。
 外に出たら、街の人たちも消えていて、
 唯一出会えた友人は……だけど、いつもとまったく、様子が違う。
「ぐっ…………ぁ……こ、の……」
 すぐ近くで、苦しそうな声が聞こえた。
「っ! ヴィータ!」
 地面に蹲る小さな身体は、立ち上がろうと手足に力を込めている最中だった。はやてが駆け寄って背中に触れると、微かに震えているのが腕に伝わった。腹部への打撃が相当効いている証拠だ。
「ヴィータ、動かんといて! シャマル!」
「は、はい!」
 慌てた様子で、今度はシャマルが駆け寄る。そして背中に向けて、治癒魔法をかけ始めた。
「じっとしてて。すぐ終わるから」
「……ああ……」
 腹部を抑えつつ、素直に肯くヴィータ。だが視線は目の前の「敵」に向けられていた。
「テメェ……誰、だ……。なのはじゃ、ねぇ……な……」
「……。完璧に入ったと思ったんですが、その様子だと自分で身を引いたんですね。さすがは守護騎士。あなたといい魔剣士といい、反射能力はヒトと比べると歴然、か」
「質問に……答えろ! テメェ、自分が何してっかわかってんのか!!」
 見た目の幼さとはかけ離れた形相で叫ぶヴィータ。痛みと怒りで、沸点はすでに過ぎている。
「何をしたか、ですか……? そんなの、先ほどあなたを攻撃した。それだけでしょう」
「んなこと訊いてんじゃねぇよ!! テメェ、やっちゃいけねぇこと……2つ、したぞ……」
 言いつつ、ヴィータは、
 右の拳を、相手に向けた。
「……? 2つ?」
「1つ目は、さっきの攻撃だ……。テメェ、あたしじゃなく……狙ってたのは…………」
「ええ。直線状にあなたがいた。邪魔だから先に行動不能にした。……なにか問題でも?」
「―――大アリだ。テメェに何の目的があるかは知らねぇが……はやてを狙ったのは間違いだぞ。これでテメェは……あたしたち守護騎士四人、全員にケンカを売ったんだ……。タダで済むと思うなよ」
「……」
 目の前の「敵」は応えない。だがそんなことには構わず、
 立ち上がり、ヴィータは腕を横一線に振った。

 握りしめていた拳が少し開き、
 姿を見せたのは、鎚。

 一見するとただのアクセサリーだ。指に絡まる鎖。その鎖の先に付いている小さな鎚。これが、
 彼女の……ヴィータの『デバイス』だ。
「あともう1つ。あたしたちを油断させるための姿なんだろうが……化ける相手、選ばなかったこと―――」
 そして再び、ヴィータが腕を振るう。一瞬にして小さなアクセサリーは大きくなり、柄が太く長くなり、鉄のヘッドが……質量を増しつつ、闇夜を退ける。
「―――心の底から、後悔させてやる!!」
 現れたのは、無骨なハンマーだった。アームドデバイス、「鉄の伯爵」グラーフアイゼン。その切っ先を……「敵」に向ける。
「覚悟すんのはテメェのほうだ!! ぶっ潰してやる!!」
 言葉と共に飛ばす眼光は、怒りと闘志で極限まで尖っていた。バリアジャケットも装着せず、身を沈め、デバイスを握る手に全力を込める。だが、
『ま、待つんやヴィータ! 落ち着いて!』
 すぐにでも「敵」に向かって飛びかかろうとしていた矢先、脳裏に声が響いた。はやての思念だ。
『―――っ。なんで止めるんだ! はやて!! さっきの見ただろ!? こいつはなのはじゃない!!』
『そ、そうやけど、そうやないかもしれんやろ!? ひとまず落ち着くんや! ……シャマル!』
『は、はい!』
『あの子の姿……幻術かどうかって、判断できるか?』
 守護騎士とはやての間のみで思念通話が続き、そしてシャマルの沈黙で数秒だけ会話が途切れる。……その間、『彼女』は目立った動きを見せなかった。相手の出方を窺っているらしい。
『…………クラールヴィントの反応だと、幻術の類ではないと思います。私より偽装スキンとかのスキルが上でないのなら、ですが』
『じゃあ、なのはちゃんが何かの魔法で操られていたりしてる可能性、ゼロやないってことや……』
『!? なのはが、操られてる……?』
 はやての言葉に、ヴィータの構えが少し緩む。デバイスの切っ先を少しだけ下げ、相手を……『彼女』を注意深く見つめる。他の守護騎士たちも、少しだけ前傾姿勢を解いていた。
『同じ失敗2度は繰り返したくないから、幻術の勉強、しばらく前にしたんや。……仮想の人物やなく、既存の誰かに姿を似せるときって、どこか細部に違いが出るんよ。でも目の前のなのはちゃんには全然、違いなんてない……』
『で、でもはやてちゃん、それは術の熟練度によって、いくらでも抑えられるもので……』
『それもわかってる。でも幻術専門の魔導師に、今みたいなすごい動き、できる思うか?』
『―――』
 シャマルが再び沈黙する。他の守護騎士たちも同じだった。
 後方支援特化型であるシャマルが、幻術かどうか断定できない。仮に幻術だったとすれば、目の前の「敵」はシャマルより支援魔法に秀でていることになる。だが……あの身のこなし、そして不意とはいえヴィータに一撃を入れた戦技は、間違っても支援タイプの魔導師の動きではない。
 得体の知れない謎だけが、守護騎士たちの背中に圧し掛かる。
「ぶっ潰すのではなかったんですか」
「っ!」
 唐突に、今まで動きのなかった『彼女』が言葉を発した。静かな表情で、はやてたち5人を見下ろしている。
「その様子だと念話で何やら相談してるみたいですが……悠長ですね。敵前で内緒話ですか。仮にも騎士でしょう、あなたたち」
「……んだと……」
「会話の内容は大体想像がつきます。私が「高町なのは」なのか、そうではないのか。……結論、出ましたか?」
「―――」
 ギシリと、ヴィータの奥歯が音を鳴らす。
 ……正直言って、見た目ではまったく判別できない。
 目の前の少女が着ている服は、いつものなのはの普段着だった。朱色のシャツの上から白のパーカーを羽織り、紺色のミニスカートに白のオーバーニーソックス。小さなツインテールを結んでいるのは、細めの黒いリボン。違いといえばその口調と表情だが、それは外見ではなく仕種だ。
 なんらかの方法によって操られている可能性は、大いにあり得る。
「なのはちゃん、やろ……?」
 ヴィータの後ろから、遠慮気味な言葉が発せられた。はやてだ。
「……あ、操られてるんやろ? お願いや! 目ぇ覚まして! 私や! 八神はやてや! なのはちゃん!!」
「は、はやて」
「はやてちゃん……」
 彼女の声の強さに、思わず目線を「敵」から離してしまうヴィータとシャマル。それほど、はやての声には必至さが窺えた。
 シャマルに訊くまでもなかったのだ。はやてには、幻術ではないという確信があった。
 ……1年前の「闇の書」事件の折、彼女は幻術魔法によって欺かれた経験がある。結果としてそれは悲劇の引き金にもなった。だから勉強した。もう二度と、同じ失敗は繰り返したくなかったから。悲しい想いをしたくなかったから。
 だからこそ確信ができる。確証が持てる。目の前の光景は幻術などではない。細部のズレなど微塵も感じない。それは絶対だ。
 見間違うものか。
 自分が彼女を見間違うなど、絶対にあり得ない。
「しっかりして! 私のことわかるやろ!? なのはちゃん!!」
 だがそれを、
「……その名を口にしないでください」
「―――っ!」
 冷たい口調で、『彼女』が遮る。
「あなたからその名を聞くと、虫唾が走ります。……大体にして、どうでもいいでしょう、そんなこと」
 そして『彼女』は、パーカーのポケットに手を入れ、何かを取り出し、
 手の平を、開いた。

 姿を見せたのは、小さなアクセサリー。
 銀色の鎖に繋がれたそれは、
 銀色のフレームに守られた、深緑の宝石。

「どちらにしろ、結果は変わらない。……ブレイズ。セットアップ。ジャケットバージョンA」
《Set up》
 あまりに静かな起動命令と、応える女性の声。微かに『彼女』の身体が浮遊し、そしてデバイスが、
 光を、放つ。

 それは宝石の色とは対照的な、蒼い光だった。本体部分が大きくなり、フレームも比例して大きくなる。周辺では別の色―――白い光が瞬き、そこから足りない部品が出現、フレームに次々と融合していく。だが部品というより、それは小さな「刃」に酷似していた。研磨され、薄く鋭く研ぎ澄まされた銀板が、幾重にも重なってカタチをなしていく。伸びる柄は長く、しかし所々で微かに歪曲していた。形状は「杖」。纏うのは、蒼い炎。
 異質なその炎は『彼女』からも発せられていた。燃えるように衣服が消滅し、全て消し終えると、今度はビデオの巻き戻しのように炎上が逆行する。再び編まれるのは防護服。本来の炎の色を残すように、紅く、どもまでも深い紅色が『彼女』の身を覆っていく。―――「高町なのは」と同じ形の防護服が。

 その様子を、
「……これは……一体どういうことだ……」
「デバイスが、レイジングハートじゃ、ない……。けどあれは……あのバリアジャケットは……あいつと同じ?」
「バカな……」
「偽装、スキン? ううん、そんな術の反応は……」
「――――――」
 はやてと、その守護騎士たちは、呆然と見ていることしかできなかった。

 唐突に、戦闘起動が終わりを告げる。
 蒼い炎をそのままに、浮遊していた『彼女』は脚を伸ばし、両手を伸ばし、だがすぐに身を小さくした。脚を折り曲げ、両腕をクロスさせ頭部を覆い、腕の隙間から「敵」を見つめ、
 両腕を、勢いよく広げた。
 蒼い炎が、解き放たれる。

 ドンッ、という決して小さくない炸裂音。炎の熱と衝撃が、辺りに散乱した。
「うおっ!?」
「ぐっ!」
 解放された魔力が『彼女』を中心として吹き荒れ、それだけで周囲に破壊を招いた。衝撃波が車のウィンドウを叩き割り、背後の電気店のネオンを粉砕し、街路樹を軋ませる。はやてと守護騎士たちが、数歩後退せざるを得ないほどだ。戦慄が背を走る。
『ウソだろ……。た、ただの魔力放出で……?』
『―――気をつけろ。故奴、魔力だけでも相当な量だ。操られているにしろ、そうでないにしろ……今までにない強敵だ』
『シャマル。主はやてを頼む』
『う、うん。でも』
『心配するな。慣れてはいないが非殺傷設定で行く。ヴィータ、ザフィーラ』
『ああ』
『言われなくてもわかってるっつーの。操られてんなら…………助けるさ。絶対に』
 爆風が過ぎ去った途端、四人が戦闘態勢に入った。ザフィーラが牙を剥き、シグナムとヴィータがデバイスの切っ先を上げ、シャマルがはやての前に陣取る。しかし、
「ま、待ってみんな! もう少し待って!」
 はやてだけが、戦闘の意志を示さなかった。出せなかった、というべきだろうか。
「なのはちゃん! 私の声届いてないんか!? なのはちゃん!! 起きて!!」
 思い出していたのだ。
 1年前の、あの日。
 ―――深い眠りの底に落ちそうになっていた時、意識の外側で、必死に戦ってくれていたのは―――。
 ―――私を起こすために、最後まで諦めず、戦ってくれていたのは―――。
 それなら、届けないと。
 届けないといけない。他の誰でもなく、助けられた自分が。
 だが、
「言ったはずです」
「……え?」
「…………その名で呼ぶな」
 あまりに冷たい温度が、再び拒絶する。

 カシャ、と小さな音。
 『彼女』が、デバイスを横一線に振っていた。

 先端ははやてたちのほうには向いていない。深緑の宝石は地面……アスファルトを指していた。しかし長すぎる杖は地面には接していない。まだ『彼女』の身体が浮遊しているからだ。
 攻撃の姿勢には見えなかった。ただしそれは、守護騎士たちからの視点である。
 デバイスを左手に。本体の向きも左。モードは魔法演算優先形状。角度下方に40から50。状態は空戦時。敵機影多数並びに距離ミドルレンジに密集。
 これこそが、
 ―――『彼女』にとってのアクショントリガーだ。

《Divine shooter》

「っ!?」
「はやてちゃん! 下がって!!」
 銀色のデバイスから発せられた言葉を聞いて、一斉に守護騎士たちが身構えた。その魔法名は聞き慣れたものだったからだ。
 ―――ディバインシューター。
 高町なのはが頻繁に用いる攻撃魔法である。生成された誘導制御弾はロックした対象を自動追尾する他、術者による発射後の弾道制御も行えるという、優秀な射撃魔法。さらに単発射撃でなく複数の一斉射撃が常だ。数にもよるが、複数が当たれば下手な防御魔法など簡単に破壊できる。なにより、
『……の、ヤロウ……。あいつの魔法まで―――』
『主はやての目立て通りかもしれん! 目の前の相手は、「高町なのは」の可能性が大きい!』
『じゃあ、この魔法の精度も……っ』
「あかん! なのはちゃん!!」
『私が防ぐ! みな下がれ!!』
 全員が知っていた。その威力を。
 近接戦闘をある程度度外視し、射撃と砲撃を追求した少女の……得意技。複数が当たれば、などという発想は甘すぎる。それは「普通の魔導師が使ったら」の場合だ。当たり所にもよるが、ただの一発でも彼女が扱うのであれば……こちらの防御など簡単に打ち壊す。
 だが、
《Divine shooter》
『…………あ?』
「……え、」
 不思議なことに、何も起こらなかった。
 周囲には何の変化もない。魔法弾を生成する発射体が、どこにも見当たらないのだ。何も起こらないまま、銀色のデバイスは先ほどと同じ言葉を繰り返していた。
『何だ……不発……?』
『…………。バカにしてんのかコイツ……』
 そして、
 異変はさらに続く。
《Divine shooter. ……Divine shooter. ……Divine shooter》
 何も起こらないまま、銀色のデバイスは壊れたテープレコーダーのように同じ単語を繰り返す。本体である深緑色の宝石は喋る度に発光しているが、それだけだ。発射体はどこにも浮かんでいない。
『……壊れてんのか? あのデバイス』
『シャマル。どこか……我々の死角に発射体が設置されてないか』
『ううん。それらしい反応はないけど……』
 まるで肩透かしを食らったような気さえして、シグナムとヴィータ、2人のデバイスの切っ先が若干だが下がる。先頭にいるザフィーラさえ、眉間に皺を寄せていた。
 ―――はやてだけが、顔色を変えていた。
《Divine shooter. ……Divine shootDivin shooter. DivDivineDivine shooDivine shooter. DivDivDivDivine shoDivine shooter. Divine shooter》
『……。マジで壊れてやがる……』
 壮大に溜め息をついて、ヴィータが『彼女』に向って、
「おい! ふざけんのも大概にしろよテメェ!! あんだそのぶっ壊れたデバイ―――」
 それを遮り、
 はやてが、全力で叫んだ。
「あかん!! 逃げてみんな!!!」

《DivinDivine shooter. ……Standby ready》
「ディバインストーム」
《Good night!! ―――Divine storm!!!》

「―――え、」
 呆然とした、ヴィータの小さな声。
 それは果たして、後ろから聞こえたはやての叫びに対してなのか。それとも目の前の光景に対してなのか。本人が認識する前に、全ては瞬く間に起こった。
 一斉に視界を覆った、蒼い光。
 シャマルの持つデバイス、クラールヴィントの反応を信じれば、『彼女』の背後に突如出現した発射体の数は、
 70を越えた。

 斜めに携えていたデバイスを、『彼女』は天高く掲げる。
 すべての発射体から、縦横無尽に駆け回る魔力の弾丸が発射された。
 ―――直線上にあった物体すべてが、魔力の奔流に呑まれ、消し飛んだ。
 
 
 
「はぁ……は……はぁ…………く、ぉ……」
 海鳴市、上空。腹部を抑えつつ、彼は必至になって息を整えようともがいていた。―――ザフィーラだ。
「は、ぁ……はぁ…………判断を、誤ったか……」
 彼の姿は、もう狼などではなかった。ヒトの姿である。咄嗟の判断だったが、遅かったと言わざるを得ない。
 その人型の姿こそが、ザフィーラの戦闘態勢だった。彼は自らを「守護獣」と称するが、分類上は「使い魔」というものに該当している。
 遥か昔の話だが、魔導師という者たちにとって一番の弱点となっていたのは、魔法起動の遅さだ。
 現在は魔力の運用について効率的な方法が確立されているからいいが、次元世界などの存在すら知らなかった時代、まだ「デバイス」と呼ばれる演算補助装置がなく、木の棒とただの石コロを魔法発動体として用いていた時代では、長い詠唱と複雑な儀式を行わなければ魔法など使えはしなかった。しかし人と争う際、災いを退ける際、そんな悠長な暇など無い。そこが魔導師にとっての決定的な弱点だった。詠唱する時間。それを確保しなければ、どのような優れた魔導師も魔法を扱えない。
 その解決策の1つとして誕生したのが「使い魔」である。
 動物の死骸と、魔導師の魔力供給によって生み出される魔法生命体。主の魔力無しには生きられず、主の命を最優先事項とし、主のために身を呈す「盾」にして「武器」。魔法の詠唱……チャージタイムを稼ぐために生み出された防波堤だ。
 ザフィーラに関しては誕生理由が少々異なるが、問題はそこではない。使い魔は大抵、2つの姿を取れる。
 1つは、元となった素体の姿に類似した「動物形態」。もう1つが「人型形態」である。
 人間である主を守るのが使い魔の本質であれば、その2形態の理由は論ずるまでもないだろう。主と同じ姿で行動できれば融通は利く。生態系の頂点にいる「人類」に類似できるならば、人類が造り出した「社会」にも溶け込める。そして人の特徴である、「複雑な手足の動作」が手に入る。対人戦においてこれほど重要な因子はないだろう。相手と同格に並ばなければ、同じ土俵に上がる資格もない。
 そこは例に漏れず、ザフィーラも人との戦いにおいては……というより戦いという場においては「人型」のほうが都合がいい。だからこそ、『彼女』と相対した時点で人型になっていなかったのは間違いだ。
 彼の腹部からは、わずかに白煙が上っている。シューターの直撃を貰っていた。
 走行中なら避けられたと思う。だが場面は攻めではなく防御。主を守るため、自身は動いていなかった。四足歩行の動物形態では、立ち止まった状況での側面からの攻撃は避けられるはずもなかった。
「はぁ……はぁ…………いや……それは、言い訳か……」
 少し、考えを改める。下方を見ながら。
 人型であれば、静止状態からでも側面からの攻撃に対応できたであろう。……対応は、だ。防げるかどうかは別問題である。
 足元……先ほどまで自分たちがいた場所を、戦慄を感じながら見下ろす。
 ―――蒼い光が、街の二区画ほどを飲み込んでいた。
 『嵐(ストーム)』とはよく言ったものだ。道路で区切られたその地区を、光の嵐は完全に破壊していた。背の高い建造物が底なし沼に沈んでいくように光の中に没していく。どうやら自分たちの知るディバインシューターとは根本的な性質が異なるらしい。眼下ではまだ発射音が続いている。ロックした相手を追尾するのではなく、どうも術者正面のものを粉砕する魔法のようだ。
 おそらく中距離……ミドルレンジにいる敵に対しての、高速・一斉射撃による殲滅魔法。
 発射体の出現から弾丸の射出まで、ほとんどタイムラグがなかった。だから言い訳だろう。たとえ最初から人型だったとしても、避けられたかどうか。
 敵は、高町なのはを操っている可能性がある。
 主の見立ては正しいと思う。腹部の一撃は、常時展開していた防御魔法が壊されてから貰った一撃ではない。防御が破壊され、そのまま腹部に直撃した。この卑怯なほどの威力は、確かに主の友人……高町なのはの射撃能力と酷似している。
 だが疑問も残る。
 これほどの威力……高町なのはを、上回ってはいないだろうか。
 そしてあの弾数。……今も眼下では弾丸は生成され、道路を、車を、建造物を木端微塵に粉砕し続けている。高町なのはも莫大な魔力許容量を有しているが、こんな魔法を使えば残量は残り少なくなっているはずだ。敵がどういった類の者か知らないが、操っていると仮定しても、もう彼女を操作することはできないだろう。矢が尽きれば、弓は力を発揮できない。
 どういうつもりだ……。
『ヴィータ! シャマル! ザフィーラ! 聞こえるか!』
 眼下の光景を見下ろしつつ思案していると、脳裏に声が響いた。シグナムの声だ。
『ああ、聞こえてるぜ……。何だんだよ、あれは……』
『こちらシャマル。私たちも無事よ!』
『シャマル! 主はやてとご一緒か!?』
『わ、私も大丈夫や! シャマルが防壁展開してくれたお蔭で、騎士甲冑なんとか着ることできたし……。みんなはどうや!? ケガないか!? ザフィーラ、聞こえてる!?』
 主の労わる声は、必死だが辛そうな気配はなかった。自分と違い、うまく避けたのだろう。
『私も問題ありません、我が主。……一撃もらいましたが、掠り傷です』
 一瞬だけ着弾のことは伏せようと考えたが、即座に自らの中で却下した。現在は戦闘中。状況判断を誤らせる情報は、主の身の危険を増やすだけだ。
『た、大変や……。シャマル、ザフィーラんところに―――』
『心配には及びません。この程度ならば、ヴィータの貰った一撃より軽いものです。シグナム、ヴィータ、シャマル。お前たちはどうだ』
『私は大丈夫よ。皆と違って、少し距離が離れてたし』
『こちらは三発貰った。……だが装甲の厚い部分だ。まだ剣は握れる』
『……んだよ、一番喰らったのはあたしか……』
『え……ヴィータ! 何発貰ったんや!? ケガは!?』
『だ、大丈夫だよ、はやて! あたしも何とか甲冑着れたし、そんな大した傷じゃない』
 念話の声を聞きつつ、まずい、とザフィーラは思う。
 ヴィータの思念通話の声に、若干だが疲労に似た印象を感じた。シグナムよりも貰ったということは、四発以上。さらに出会い頭の腹部への打撃もある。自分のように、思念通話に疲労を見せないような気遣いもできないほど、ダメージを受けているのだろう。
 操っている魔導師本人が現れた場合、対処できるか―――。

「心配しなくていいですよ。……彼女は4番目」

「―――っ」
 その声は、
 ザフィーラの、すぐ背後から聞こえた。
「最初はあなたです」
 一瞬の戸惑い。だがすぐに、その念をザフィーラは打ち消した。
 相手は「敵」だ。操られているにしろ、そうでないにしろ、我々と主に牙を剥く敵。
 倒すべき対象だ。
「はぁっ!!」
 振り向き様に、全体重とかなりの魔力を拳に乗せた。敵の位置など見なくてもわかる。その声と気配に向って、バリアブレイクを編んだ必倒の一撃を、

 ザフィーラの打撃を、『彼女』は首を少し傾けるだけで回避。
 逆に間合いを詰め、左拳が腹部に直撃した。

「っ!? が、は……っ!」
 完璧なカウンターだった。さらにヴィータの時とは違い、拳は蒼い炎を纏っていた。着弾と同時に小規模な爆音がし、彼の身体が衝撃に負けて後方に下がる。
「資料の通りですね。近接戦闘は得意のようですが、型は完全な我流で、身体能力任せの単調な動き。永遠を生きたにしては鍛錬の欠片も見えない。……まさに獣。お似合いです」
「―――おおっ!!」
 相手の言葉など耳に入れず、ザフィーラは即座に間合いを詰め、今度は眉間に向って右の蹴りを放つ。拳による打撃を選ばなかったのはリーチの差だ。相手の身長はこちらより小さく、手足の長さは歴然だ。このリーチなら、この距離ならば反撃を貰うことは、

 攻撃が来るより早く、『彼女』は自らが持つデバイスを手放した。

 迫り来る足刀に、『彼女』はわずかに触れて速度を和らげた。ほんのかすかな減速だが、それで充分だったのだろう。身体を前のめりに倒して蹴りをやり過ごし、無防備になったザフィーラの背中めがけて拳を撃ち込んだ。連撃を二発。そしてすぐさま、槍のような蹴りが背骨に突き刺さった。
「ッ!? が……っ」
 再び間合いが離れるが、今度は『彼女』から間合いを詰めてきた。音もなく空間を飛翔し、ぐるんと身体を一回転させての回し蹴り。遠心力を得た打撃はザフィーラの頭部に直撃、派手な打撃音と共に今度はザフィーラの身体が一回転した。上下の感覚が麻痺した中、一番最初に感じたのは右手首を掴む他人の手。無理やり引っ張られると、次に知覚したのは迫り来る左肘だ。反応する暇もなければ避ける術もない。その硬い一撃が額に突き刺さる。突き抜けた衝撃が脳を揺さぶる。反撃しなければと考えるが、その前に腹に向けて素早い蹴りが二発叩き込まれた。肋骨が悲鳴を上げる。肺が止まる。それと同時に横っ面に拳が―――。
 攻撃など、できるわけもなかった。
 ザフィーラも反撃しようとはするが、拳を握る前に連撃が、相手を確認する前に大打撃が襲ってくる。一瞬でも相手を確認した途端に攻撃が入り、体勢を立て直す前に体勢を崩されてしまう。一方的な打撃の嵐。身体が、視界が、木の葉のようにふらふらと舞う。
 何なのだ。
 この動きは、一体、何だ。
「弱い。その程度ですか、増殖」
 その言葉の直後、
 眉間を貫く衝撃に、感覚が、思考が、視野が、握りしめていた拳の力が、
 木の葉のように、霧散する。
 
 
 その様子を、シグナムとヴィータはすべて見ていた。
 ザフィーラが攻撃を受けているとわかった時点で全力で彼の元に飛翔したが、すべては瞬く間に終わってしまった。時間にすれば数秒程度。
 あまりに熾烈で、あまりに一方的な戦い。
 己のデバイスも持たず徒手空拳で挑む「敵」は、その身こそが武器のようだった。素早く繰り出される拳はザフィーラの挙動を挫き、その脚刀は激烈。身体の小ささを逆に利用し、身体を捻り、身体そのものを回転させ、遠心力を得て繰り出されるそれは……槍のようでもあり、ハンマーのようだ。倍はあるだろう体重差の大男の身体を、いとも簡単に吹き飛ばす。そして背後からの肘鉄が眉間に入り、
 力を失ったザフィーラの身体が、浮力を失った。
 全力で飛翔してきたにも関わらず、それは接敵する最中の出来事であり、接敵する前に終わっていた。
 ヴィータが、叫ぶ。
「な、に―――してんだテメェーーーー!!!」
 飛翔魔法で加速した身体に加え、全力で自分のデバイスを握る。魔力を己がデバイスに纏わせる。瞬間、目の前の敵が「操られている高町なのはではないか」という考えが怒りで消し飛んだ。相手は背を向けている。その後頭部に向って、

 フルスイングで放たれた打撃は、
 一瞬、「手ごたえの薄い何か」を殴った。

 バシンッ! という乾いた音が響く。
 打撃音ではない。
「――――――な―――」
 『彼女』は、いつの前にか振り向いていた。鋭い視線を、ヴィータに向ける。
「よくそんなので、自分は騎士だ、なんて偉そうに言えますね。背後からの攻撃は騎士道に反しないんですか」
 侮蔑するような冷めた口調。だがヴィータが絶句している理由は、その温度の低い言葉にではない。
 目の前の光景が、信じられなかったからだ。
 ……ウソだろ……。あたしの攻撃を、素手で……?
 『彼女』はギシリと音を立てて、アイゼンを握る。

 打撃が頭部に到達する直前、
 『彼女』は、グラーフアイゼンを握ることで、その衝撃を殺していた。

 理解ができない。
 防御魔法で弾くか逸らすという方法でなら、まだ納得はできる。だが相手は、そのいずれの選択肢も選ばなかった。
 飛翔による加速と全力を持って打ち出したはずの打撃。それを『彼女』は、鉄鎚のわずか下方の柄を握ることで、全攻撃力を受け止めたのだ。放たれたボールを、簡単にキャッチするように。
「ブレイズ」
 小さな声。
 その声と共に、手放したはずの銀色のデバイスが下方から飛来した。パシンと乾いた音が鳴る。『彼女』の左手にデバイスが収まる音だ。

 一瞬遅く、シグナムの斬撃が『彼女』の背後から飛来する。
 手品のように、銀色のデバイスが間に入った。

 鋭い衝突音が響く。『彼女』は振り返ってもいない。デバイスをくるりと回しただけで、視野に入れることもなく、シグナムの一撃を防いでいた。
「どうもベルカの騎士道は、背後からの強襲が常套手段のようですね。初めて知りました」
 そう静かに呟いた途端、『彼女』の左脚が霞んだ。最初の一撃はヴィータの腹部に。そして跳ね返ったかのように速度を失わないまま、今度はシグナムの額に直撃した。
「ぐ、ぁ!」
「―――っ!?」
 挟み込むような位置関係だったが、その蹴りだけでヴィータとシグナム、双方の身体が打撃に負けて後退した。その隙を見逃すはずもなく、『彼女』は2人の間から姿を消した。瞬く間の大加速。向かう先はヴィータでもシグナムでもない。
 重力すら味方につけて速度を得た『彼女』の向う先は、下方……落下するザフィーラだ。
 
 
「な……なんなの、あれ」
「―――」
 そのすべてを、幾分離れた空の上で、見ていることしかできなかった。
 シャマルと、はやてである。
 様子は異なるが、思考はヴィータとシグナム、2人の考えと大して変わりはない。度肝を抜かれていた。
 相手が「高町なのは」を操っているのか、そうではないのか。そこは未だ漠然としている。だがそんな問題など霞むほど、眼下の光景は常識を逸脱していた。
 接近戦……それも格闘という分野において、身体能力の高いはずのザフィーラが手も足も出なかった。相手の死角を突いたはずの、騎士2人の連続攻撃も効果無し。
 ベルカの騎士が―――近接戦闘において絶対的な優位を保てるはずの騎士たちが、まるで歯が立たない。何より、
 相手は、魔法をほとんど用いていない。
 使っているのは飛行魔法と、稀に打撃に付与する蒼い炎だけ。遠目で見る限り、防御魔法を使っている形跡がない。その途方もない事実が、2人から言葉と行動を奪っていた。はやてに至っては、
「…………ウソや……。あれは……なのはちゃんじゃ、ないんか……?」
 どうしても、どう考えても、その光景が理解できない。
 だって、どこにも違いはなかった。
 確かにバリアジャケットは完全な別物だ。色は異なるしデバイスすら違う。リボンも「黒くて細いリボン」だ。彼女がバリアジャケットを着るとき、その小さなツインテールを編んでいるのは「白いリボン」に変化する。
 それでも、それだけの相違点があっても、はやては少女のことを「高町なのは」だと信じて疑わない。疑うことを躊躇っていた。
 私が、
 ……私が、見間違ったって、いうんか……? なのはちゃんを?
「はやてちゃん! はやてちゃん!!」
「え、あ」
 シャマルの声に、ふと我に返る。
「このままだと、皆が……!」
「―――」
 眼下ではまだ戦闘が続いている。落下するザフィーラに向って、弾丸のように紅い防護服が接近していく。……間違いなく追い討ちをかけるつもりだ。
 戦わなければいけない。
 たとえ操られているとしても、まったく別人だとしても。
「―――シャマル、周辺のサーチお願いや。たぶんこれ結界やろうし、能力と脱出方法の特定急いで。私は皆の援護する」
「……。はい」
 どこか覇気のないシャマルの返答を聞きつつ、はやては自らの杖を握る。
 シャマルの気持ちも理解できる。混乱しているのだ。自分と同じように。だけど今は、
「いくで、シュベルトクロイツ」
 応戦しなければ。
 四人の守護騎士の、主として。
 
 
「―――ぐっ」
 落下しながらも、ザフィーラは戦意を失ってはいなかった。
 まだ頭がぐらぐら揺れる感覚は抜けきらないが、それでも己が状況を理解すべく、意識が跳ばないように歯を食いしばる。
 胴体……腹部と両脇腹に、焼け付くような痛みがある。炎熱系魔法のゼロ距離攻撃だ。熱さが身に染み込むのは理解できる。次に頭部。最後の眉間への打撃が痛手だ。お蔭で平衡感覚がおかしい。気を抜くと意識が遠のきかける。重さと威力は別にしても、当たり所が悪かったのだ。……逆に言えば、
 的確な個所に、相手は打撃を撃ち込んできている。
 敵が高町なのはであり、操られているとするなら……操っている人物は、かなり近接戦に詳しい。
 先ほどの交錯でもそれは明白だ。相手はこちらの攻撃を防御魔法等では防がず、体術のみで捌ききった。迫り来る攻撃に対してわずかの恐怖もなく、微かな戸惑いも見せず、間合いを詰めて逆に攻めてきた。このような芸当、普通の魔導師に出来る筈もない。
 相手は……敵は、近接戦を熟知している。こちらを上回る程に。
 ならば、
「―――は、ぁ……」
 動きの鈍い肺を無理やり動かし、深く息を吐きながら体勢を立て直すザフィーラ。意識をクリアにするため、数度頭を振る。
 ならば、やることは1つだろう。
 相手は近接戦闘特化で、防御に関しては体術に頼っている。つまりはクロスレンジで戦うべきではない。
 なんとか足止めし、長距離攻撃によって……撃墜する。
『我が主。聞こえますか』
『っ! ザフィーラ、無事か!?』
『……何とか相手の動きを止めます。隙を見て射撃か砲撃を。それ以外に手はありません』
 問題は、主の魔力資質。
 後方支援特化である主の攻撃は、広域殲滅に傾向している。足止めを行おうとしても、こちらが巻き込まれてしまう可能性が充分にある。なにより……優しき主の性格上、我らを巻き込むような攻撃は頼み込んでも行わないだろう。
 だがやはり、これ以外に手がない。
『いざとなれば、我を巻き込んでも―――』
『あかん! ザフィーラ上や!!』
 そして、唐突だった。

『バカにしないでください』

「!」
 主の警告とはまったく別種の思念を聞いて、すぐさま視線を上方へ向ける。
 紅い防護服が、目の前まで接近していた。
《Absolute!!》
 喜々として魔法名を叫ぶデバイスと共に、身体を回転させての手刀が眼前まで迫り来る。
「くっ!」
 ザフィーラはバリアタイプの防御魔法を展開、それと共に頭部を横に傾かせた。咄嗟の判断だった。
 フィールドタイプなど、簡単に突破されると。

 ザフィーラの読み通り、『彼女』の攻撃は防御魔法を易々と切り裂き、
 左肩に一撃を入れると、そのままザフィーラを通り過ぎた。

「な―――く、ぁ……」
 あまりの衝撃に、再び態勢が崩れる。視界がふらふらと舞い、街の夜景が上下に揺れる。もう地面が上にあるのか下にあるのかもわからないまま、あまりの出来事に思考がついていかない。
 着弾した左肩が熱くない。それどころか、付着しているのは炎ではなく―――「霜」だ。
 バ、カな……。炎熱ではなく、凍結っ! 一体どういう―――。
『足止めできるほど強くないでしょう、あなた……。私を倒したいなら、玉砕覚悟で来ることを勧めますけど』
「っ!」
 相手の言葉が聞こえる。ただし「声」ではない。「思念」だ。
 故奴、我々の通信を盗聴して―――。
 そこまで考えた後、ピタリと視界の揺れが収まった。同時に、
 誰かが、右足首を掴んでいた。

 ザフィーラの脚を掴んだ『彼女』は、力任せに彼の身体を振り回し、
 すぐ側のビルめがけて、放り投げた。

「―――っ! ―――!」
 ウィンドウを突き破った先はショッピングモールだったらしい。呻き声すら上げられず床にバウンドした後、設置されていたカートやマネキンを破壊しつつ、ザフィーラの身体が建物の奥に消える。
 そして、それを追って紅い魔導師が建物内に入ってきた。身を丸めて粉砕された窓から侵入し、まるで体操選手のように態勢を崩さぬまま着地。しかし視線は……入ってきた窓に向けられてる。
 追撃してきた相手を、察知していた。
「待てよ! てんめぇ!!」
 粉砕された窓から次に入ってきたのは、ヴィータだ。
「いくぞグラーフアイゼン! 今度こそ―――ブチ抜けぇ!!」
《Jawohl!!》
 飛行魔法による大加速の慣性力と、魔力付与による威力増加を鉄鎚のヘッドに乗せ、全力で、振り下ろした。
 だが、

 再び、「薄い何か」に触れる感触。

 大きな音は、響かなかった。
「―――なん、で……」
 デバイスに触れる、『彼女』の左手刀。先ほどと似た結果だった。
 下手をすれば人の頭など粉砕しかねない打撃が、ただの手刀で止められている。
 理解不能で、とても現実とは思えない光景だった。
「よく、わかりませんね」
「な、に……?」
「先ほどと何ら変わりない攻撃。止められるに決まってるでしょう。「なんで」なんて質問、私がしたいくらいです」
 そう言い終わると、『彼女』の右脚が瞬時に動いた。
「ぐぁっ!」
 弧を描くような蹴りは、ゴンッという音と共にヴィータのデバイスの柄部分に直撃した。吹き飛ばされるようにヴィータが後退する。
 距離が離れ、そして『彼女』は右手に持っていたデバイスをくるりと回転させつつ左手に持ち替え、
「モード、ソード3」
《Yes master. Mode “SWORD3”》
 銀色のデバイスが、変形を始める。

 長かった柄は各所で分解され、不要な部品が白い光に包まれて消えていく。
 それとは逆に、本体部分を覆っていたフレームの近くに足りない部品が次々と出現。薄い銀板が何枚も折り重なり、組み合わされ、
 出来上がったのは……歪な刀身を持った、長剣だった。

 ブン、と音を立てて、魔導師が剣を横一線に振るう。
 本当に、おかしなカタチの剣だった。
 大きさ的にはシグナムのデバイス、レヴァンティンより少し短めのものだ。柄と刀身の間には、本体である緑色の宝石が輝いている。だが問題は刀身で、レヴァンティンと同じように片刃のそれは、何故か真中あたりから切っ先部分まで厚かった。通常の刀剣は対象を斬り裂きやすいよう先端に向うにしたがって薄く、鋭くなっているのが普通である。だが『彼女』の持つ銀色の剣は、重心をわざと先端に集めるような構造だ。普通の造りではない。さらにおかしなことに、切っ先の少し下の峰に、取っ手のようなものが付いている。
 な、なんだあの剣……。
 シグナムの剣を見慣れているため、その奇怪な剣を目にしてヴィータが少し困惑する。それを知ってか知らずか、
 一瞬にして、『彼女』が間合いを詰めてきた。
「うおっ!?」
 建造物内、明かりの消えたショッピングモールの暗闇を銀色の斬撃が裂いた。ヴィータが咄嗟にデバイスを掲げ、その銀線を弾く。衝突した途端、目が眩みそうなほどの激しい火花が散った。
 ―――お、重―――っ!?
 ただの一撃だったが、信じられないような衝撃がヴィータの腕に伝わった。デバイスにヒビが入らなかったのが不思議なほどだ。小柄な人物が繰り出したにしては重すぎる上に、デバイスの見た目の質量とも一致しない。
 こいつ、あたしたちと同じ、魔力付与―――。
 考えつつ、しかし『彼女』の攻撃は待ってはくれない。弾かれた次の瞬間には別方向から斬撃が迫ってきていた。斬り上げるように下方から来た一閃は簡単にヴィータの防御を弾く。さらに続いたのは突きの三連撃。何とか柄で二撃を遮り、三撃目を避けられたのは運だ。顔のすぐ側を通過した刃が浅く頬を斬る。ヴィータの態勢が崩れ、それを見逃さず、左右からの斬撃が二閃、三閃と続いた。
「ぐぁ! ちょ、こ、こんの―――うぉあ!」
 ほとんど条件反射だけで防ぐが、それも時間の問題だ。攻撃は重く速く、なにより巧い。相手の技量がまったく見えない。思考の隅で思う。
 む、無理だ。一人じゃ捌けね―――。
『ヴィータ!』
「ッ!」
 頭の裏側から思念。それと共に、背後に微かな着地音。
 にたり、とヴィータが笑った。
「―――たく、遅ぇんだよ!!」
 叫びつつヴィータは斜め後方へ下がり、すぐさま弧を描き、間合いを詰めた。シグナムと共に。
 長年一緒に戦ってきた仲だ。たとえ前もって打ち合わせていなくても、合図等がなくても、身に染みている。ヴィータは左から回り込んでの横一線、シグナムは右から回り込んでの袈裟斬りを放つ。お互いの攻撃が衝突することもなく、かといって相手には退路も与えない必殺の一撃。完璧なタイミングで、完璧な間合いだった。
 それを、
「ダブルソード2」
《Mode “DOUBLE SWORD2”》

 銀色の剣の刀身、その中央付近で、
 カシャ、と小さな音が鳴った。

 ガキィッ! という衝突音。
「こ―――この、ヤロ……」
「くっ……」
 二本に分かれた剣が、双方の攻撃を防いでいた。
 ……そう、文字通り、「分かれた」のだ。
 左手に握るのは、今まで持っていた銀色の剣。幾分か、短くなっている。
 そして右手に握るのは……左手に握っている剣を、「覆っていた」刃だった。何のことはない。刀身の先端が分厚かったのはそれが刃であり―――「鞘」だったからだ。
「へぇ……これは資料になかったですね。なんだ、協力し合えばいい攻撃出すじゃないですか」
「―――るせぇ!!」
「おおっ!!」
 相手を挟み込んだ状況のまま、ヴィータとシグナムが吠えつつ、己が武器を踊らせた。
 薄暗い店内で、幾度も剣と鎚が闇を裂く。鋭い斬撃は流れるように舞い、重い打撃は相手の武具を叩き潰さんと唸りを上げる。繰り出された攻撃はあっという間に十に達し、二十を超え、三十に届き、
 そのすべてが……届かない。
 二刀の剣を巧みに操る『彼女』は、その場から一歩も動いていない。剣を握る両腕だけが機敏に動き、曲芸のように斬撃と打撃を防いでいく。視線はヴィータにもシグナムにも向いておらず、ただ薄暗い店内の奥を見つめ……つまり2人の攻撃を直視することなく、攻撃を遮っていた。
 視野の隅で捉えるだけで、すべての攻撃の軌道を読んでいるのだ。
「こんの―――ヤロォ!!!」
「―――ぁあああっ!!」
 2人の攻撃速度が上がる。それと共に2人の立ち位置が横にスライドした。ヴィータが右に動けばシグナムも右に動き、シグナムが左に反転すればヴィータもそれに倣った。相手の死角に潜り込むため、挟み撃ちにするため、『彼女』を中心に回りながら攻撃を繰り返し、
 それでも『彼女』は大して動かない。
 片足を軸にして少々向きを変えるだけで、冷静に、正確に、向かい来る攻撃の嵐を弾いていく。
 あまりに異常だった。2人は知らない。
 ―――目の前の少女は数時間前、同じように、フェイトの乱撃を防ぎ切ったということを。
『ど、どうなってんだ……。シグナム! こ、こいつおかしすぎるぞ! ありえねぇ!!』
『わかっている! 認めたくはないが、技量の差がありすぎだ! とにかく攻撃し続けろ! 反撃の隙を与えるな!!』
『―――』
 反撃という言葉を聞いて、ヴィータの脳裏に冷たい何かが下りる。近接戦闘……防御だけで、これほどの技量なら、
 本格的に、攻撃に転じたら……。
「う―――」
 その冷たい何かは、
 フェイトが感じたものと、同質だ。
「―――うぁ、あ―――ぁああああああっ!!!」
『っ!? ヴィータ! 早まるな!!』
 咄嗟のシグナムの思念は、しかしヴィータには届かない。数秒前の怒気すら霞む焦燥が、完全にヴィータから冷静さを失わせていた。力量差など知らない。反撃など考えたくもない。だから全力を持ってデバイスを握りしめた。ありったけの魔力を込め、
 その様子を視界の隅に捉え、『彼女』は一瞬だけ目を閉じた。

 デバイスは両手。モードは直接攻撃形状。状態は陸戦時。動作に余裕あり。味方機影無し。敵機影8体以下及びショートレンジに密集。ブラックアウト確認。

《Flame lance》
 本当に一瞬だった。
 蒼く輝く発射体が、『彼女』の周囲に2つ出現。
「ファイア」
 静かに呟き、目を開く。
 炎の槍が、ヴィータとシグナムに直撃した。
 
 
「……」
 何の感情も表情に浮かべず、『彼女』は壁面に開いた穴を見つめる。射撃魔法により吹き飛んだ、ヴィータの身体が開けた穴だった。『彼女』は見ないが、反対側の壁にも似たような風穴が開いている。そちらはシグナムが吹き飛んだ方向だ。
「…………。弱い……」
 ため息混じりにそう言葉を漏らした『彼女』の表情に、やっと感情が浮かんだ。呆れ顔で、どこか不満そうである。
《あの、マスター》
「なに」
《な、なんでそんなに怒ってるんですか?》
「怒ってない」
《…………いや、えっと、その反応は……怒っているようにしか……》
「……ごめん。ホントは怒ってるかも」
《その、ですね、お気持ちはわかりますけど、》
「大丈夫。冷静さは保ててるつもりだよ。それよりブレイズ、あなたに訊きたい」
《え?》
「怒り、覚えないの? このザコっぷりに」
《…………ああ……えっと…………。なんだか……言われてみるとムカついてきましたね……》
「予定変更。鮮鉄だけ弄り倒すつもりだったけど、全員とことんまで苛め倒す。異論は?」
《あるわけないでしょう。己が罪はその弱さだって理解するまで、徹底的にやっちゃいましょうか》
「ん。作戦時間、12分延長して」
《了解しました。サルベーションフィールド、リミットタイム変更します》
「よし、じゃあ次は―――」
 そう言いつつ、紅い魔導師が踵を返し、
 背後の物音を聞いて、ピタリと止まった。
「待、て……」
 ガラガラと音を立てて、もはや瓦礫と化したカートとマネキンと洋服の山が崩れていく。中から出てきたのは、満身創痍のザフィーラだ。
 もう、戦えるような状態ではなかった。
 頭部からは真っ赤な血が流れ、左側の視界を遮っている。足腰も力が籠らないのが遠目でわかるほどふらついており、さらに左肘から先があり得ない方向に捻じれていた。その様子を少しだけ視界に収め、『彼女』は小さく溜め息を漏らす。
「それ以上動かないほうがいいですよ。それに、無駄ですよ、もう」
 興味が失せた。
 態度に、その言葉が乗せられていた。
「…………1つ……問いたい……」
「手短にお願いします。でも応えられる質問は少ないので、そのつもりで」
「……―――」
 ザフィーラと、『彼女』の視線が交錯する。
 双方とも、目を逸らさない。
「目的、だ……。我々を攻撃する、意図は……。我らを害する理由は……何なのだ」
 ザフィーラがそう問いかけた途端、

 一瞬だが、
 少女の視線が、鋭さを増した。

「―――っ」
 ほんの僅かな間だった。それだけで、ザフィーラを絶句させるには充分なほどの殺意が漏れていた。
 文字通りの一瞬。言葉も出ない。
 背格好も顔立ちも、主の友人と同一。だからこそ、そんな視線を飛ばせる目の前の存在自体が、信じられなかった。
「ふざけるのも大概にしてください」
「……な、に……」
 次に少女が声を発したとき、殺気は微塵も感じられなかった。表情と視線に映るのは、今まで通りの無感情さ。侮蔑したような言葉が続く。
「言葉にしないとわかりませんか。私の行動、思い返せば目的なんてわかるでしょう」
「…………」
「ったく。じゃあ逆に問います。私があなたたちに遭遇した後、私が一番初めに行ったこと、何だか覚えてますか」
「初めに……行った……?」
 言われ、ザフィーラは記憶を探る。一番初め……最初の攻撃は、ヴィータに対する至近距離での腹部への打撃―――。
 いや、
 違う。
「あなたたちのことは前々から知っています、ヴォルケンリッター。今は亡き闇の書の一部でありプログラム生命体。闇の書の主を守る四体のベルカ式魔導騎士。……クロスレンジとショートレンジ双方を得意とする遊撃戦力、鉄鎚の騎士ヴィータ。捕縛や拘束型魔法で敵の機動力を奪う、盾の守護獣ザフィーラ。回復や索敵など後方支援を主とする参謀、泉の騎士シャマル。直接攻撃に秀でて、他の三人を指揮する将、剣の騎士シグナム。…………全部知ってます」
 最初に、目の前の敵が行った行為。それは、
 ……「高町なのは」を装い、そして……。
「あれを狙えば、あなたたちが邪魔をすることは目に見えていました。それなら、邪魔なものから排除しようと考えるのは当然でしょう。チェスと同じです。ポーンもルークもビショップもナイトも、キングを獲るには邪魔もの以外の何ものでもありません」
 ならば、故奴の狙いは、

「私の目的はただ1つ……。八神はやての殺害です」

「――――――そうか……」
 静かに言葉を漏らし、ザフィーラは、
 満足に動かない身体に鞭打ち、腰をわずかに落とした。
「ならば……先ほどの言葉、そのまま返させてもらう」
 …………目の前の少女は、主の友人、「高町なのは」なのかもしれない。だが、
 その言葉を聞いた以上、取るべき手段など知れていた。
「これ以上何をやっても、無駄だ」
「……。どういう意味ですか」
「お前の目的が我が主を害するものであるならば、我らはどのような状況に陥ろうとも、たとえ手足が無くなろうとも止まりはしない。……それが守護騎士の務めであり、守護騎士全員の、誇りだ」
 ―――倒す。
 どのような敵であれ、たとえ主の親友だったとしても、おそらくは生涯初めての「護りたい」と真に願う主なのだ。
 失うわけには、いかない。
「……手足が無くなっても、ですか。勇敢ですね。腹立たしいくらいに」
 言いつつ、『彼女』はザフィーラから視線を外した。
 ―――目の前の小さく、紅い背を睨みつつ、魔力を上げる。
 状況は最悪だ。
 左腕は折れ、視界は自らの血で滲み、息を吸う度に肋骨から激痛が走る。おそらく肋骨にもヒビが入っているのだろう。度重なる打撲と落下によって全身の筋肉もギシギシと痛み、さらに頭部へのダメージが平衡感覚を狂わせている。まるで船の上だ。目の前の敵だけに焦点を合わせようとしても世界がぐらりと揺らぐ。揺れているのは自らの意識なのだと頭では理解しているが、いくら理由付けしてもコンディションは元に戻らない。魔力がまだ残っているのが幸いだが、これも当たらなければ意味はなく、そして当たらないだろうとザフィーラは思う。半端な……つまり視認できてしまうバインド系の魔法では、間違いなく避けられる。そうでなければ今の状況はあり得ない。
 だから拳に魔力を込めた。バインドではなく直接攻撃の選択。意地だった。
 せめて一撃。
 守護獣という己の役割から見れば、愚行極まる選択だろう。自身に課せられた役目は「盾」。守ることが本質であり、『彼女』の言葉通り自分が成すべきことは捕縛や拘束魔法で敵の機動力を削ぐこと。もしくはバリアブレイク等で相手の防御を崩すこと。そんなことは第三者に指摘されなくても重々承知している。それでも、その選択は選べなかった。
 それでは倒せないから。
 倒さなければならないから。
 ―――倒す。どれほど、無謀な選択肢だったとしても。
「……。無駄だって言ってるのに……」
 背中越しでその気迫を感じ取っているのだろう。少女は壮大な溜め息を漏らし、背を向けたまま、少しだけザフィーラに振り返る。
「気概だけは認めてあげます。それほど重傷なのに戦意を落とさないのも、正直すごいと思います。でも……やっぱり無駄ですよ、もう」
 少女はそう言うと、右手に握っていた剣を「本体」に連結させた。形状が元に戻り、デバイスが《Mode “SWORD3”》と告げ、

 デバイスを持っていない右腕を、何もない空間に伸ばし、
 何かを引っ張るような動作をした。

 魔法を唱えたわけではない。デバイスも何も反応しなかったのだから、アクショントリガーでもなかったのだろう。
 だが、暗闇の奥で小さな音がした。
「……?」
 それだけだった。特には何も起こりはしない。本当に小さな、カスッ、パスン、という小さな音の連なり。このフロアには大きな風穴が3つも開いて風通しもよくなっている。ガラクタと化したカートやマネキンが転がっているのだから、そんな音は異常でも何でもなく―――だから初撃は避けられなかった。
 バスッ、という何かが弾ける音。
「なに……?」
 何が起きたのか。その瞬間ではザフィーラは理解できなかった。
 今度の音は比較的大きな音だった。すぐ近くで聞こえた。そうとしか判別できず、
 痛みは、傷を視認してから湧き上がってきた。

 顔に、何か液体が付着した。飛び散ってきた何かを視認するため目線を下方に向け、
 太腿から、血液が、

「な―――ぐ、ぁあ……っ!」
 状況と痛覚を自覚した途端、ただでさえふらついていた足腰から力が抜けた。やられたのは右脚。横一文字に裂かれ、力と共に体液が流れ落ちていく。
 馬鹿な……! い、一体、何をされた……!?
 残った左脚に何とか重心を傾け転倒を避けるが、咄嗟にできたのはそれが精一杯だ。激痛にそれ以上の行動に移れず、できたのは、
「自分で言ってたじゃないですか。閉鎖的な、見通しの悪い建造物内にいるよりは、少なくとも外なら視野が広く保てるって。その通りだと思います。空を飛べる我々にとって、視界の確保は戦況に大きく関わります。でも私はあなたを建物内に投げ飛ばし、後を追ってきた。意味のある行動だとは思わなかったんですか? ……大体、ここに結界を敷いたのは私ですよ? 自分か戦うことになるフィールドなんですから、立地状況を確認するための事前調査なんて当たり前ですし」
 もう勝敗は決していたと、理解することだけだった。
 ゆっくり『彼女』が、何もない空間に手を伸ばす。
「……罠の散布くらい、当然でしょう」

 何かに、そっと指を触れた。
 その途端、周囲の闇の底から小さな音が合唱した。

 薄暗い店内。どんなことが起きても動くこともできないマネキンが、マネキンに着せられていた服が、棚に並べられていた服が、服が並んだ棚が、手品のように切断されていく。服とマネキンと棚の残骸が宙に舞い、そのすべてを破壊し尽くす『黒い糸』が、ザフィーラに向かって殺到した。
 初撃で右脚をやられて動くことのできない彼は、しかし脚をやられていなくても避けられなかっただろう。闇夜と同色の糸は僅かな光すら反射させず、彼の周りにも多く配置されていた。『彼女』が指を掛けなくても、彼が少しでも動けば均衡が崩れ、糸の斬撃は彼を裂いていた。それを待たずに『彼女』が引導を引いたのは、せめてもの慈悲であり、先ほどの彼の物言いへの回答である。
 なぜ我々を攻撃するのか。
 そんなの、決まってる。
 ―――あなたたちのこと、大っ嫌いだもの。
「……寝てろ」
 血が、宙に舞う。
 
 
『……ザ………ザフィーラ……?』
 呆然と見下ろしながら、はやてはそんな言葉しか紡げない。
 眼下には背の高い長方形のビル。上から数えて三番目くらいの窓が割られており、その割れた窓と同じ階の壁面には穴が開いている。その穴の向こう側、暗い闇の中で何が起こったのか。上空でいつでも攻撃できるよう準備していたはやてに、中の様子を見る術はない。
 だが、状況は理解できていた。
 ザフィーラはずっと、中の様子を思念で外に飛ばしていたから。
 だから理解はできていた。思念を飛ばし始めた時点でザフィーラはもう戦えるような状況ではなかったこと。決死の覚悟で、最後の一撃を繰り出そうとしていたこと。全部直に伝わってきた。彼が飛ばしていたのは思念通信とは少し異なるものだ。表層意識の一部を言語として飛ばすものではなく、見聞きした情報をほとんどタイムラグ無しで送る、言うなれば「思念情報」。彼はこの魔法が得意だった。役割上、斥候を務めることが多かった結果である。
 彼が見たものを、はやても見ていた。
 目の前の小さな紅いシルエットが、何もない空間に手を伸ばすところ。何かに触れ、その途端に自分に向かって細い糸のようなものが迫ってきたところ。そこまでだった。それを最後に思念情報は途切れてしまった。
 視界の隅に、赤い液体が飛び散っていたような気がする。
『……応答して……。聞こえるやろ……? なぁ、ザフィーラ?』
 答えはない。もう一度呼びかけようとして、
 思念が返ってきた。
『あなたの声に応えられるような状況ではありませんよ、彼。……見てみますか?』
「!」
 その思念通信の後、別種の思念が頭に入り込んできた。
 思念情報だった。

 密度の高い暗闇が覆う、洋服売り場の隅。
 赤い水溜りに倒れている、大柄な男性。

「――――――」
 何か言おうとして、何も言えなかった。
『致命傷です。いくらプログラム生命体でも、生命体である以上これだけのダメージは許容量を超えています。本体である闇の書を失っているんですから、尚更です』
 ビルを見下ろし続ける。正面玄関から程近いところにヴィータとシグナムとシャマルがいて、現在はダメージの回復中だ。それを視界に収めていたが、はやてにはそれが見えていない。ただ一点、割れた窓を凝視する。その視界も、なんだか滲み始めていた。
 それよりも、もっと別の視野に意識を向ける。
 思念情報は、まだ途切れていない。
『私が憎いですか?』
 眼球で捉えているものとは別の視点が、180度回転した。水溜りがある方向とは反対側、割れた窓に視線が向く。
『…………そんなん、決まってるやろ。何ないんや一体……。さっきザフィーラに、目的は私を殺すことって言ってたやんか! どうして!! どうしてザフィーラを―――』
『ウソは嫌いです』
 内側から見る割れた窓。その映像が、段々と窓に近づいていく。
『―――なに、を』
『ウソですよ。あなたは憎んでなんかいない。私はあなたの家族を傷つけた。だけどあなたは、私に憎しみなんて少しも抱いていない。少し怒ってるだけです』
『な……なに言うてるんや! 私、私は今、すごく、あなたのこと』
『じゃあ、1つだけ質問に答えてください』
 視線が、窓際に到着した。上に、夜空に向けられる。
 自分の眼が捉えている視界と、頭に伝わる視界が交錯した。夜空に浮かぶ、自分の姿。

『なんであなた、泣いてるんですか』

「―――え、」
 夜空に浮かぶ自分の姿。
 頬には、光る雫。
 咄嗟に左手で頬に触れた。音が鳴るほど、そこは濡れていた。
『ドラマとかでも、よくありますよね。「主人公が肉親を目の前で失って、怒りに我を忘れる」場面。大抵は大激怒して、相手を憎んで、目の前にその相手がいようものなら玉砕覚悟で突っ込んでいく。でも、そんなのは造り物です。主人公の心情を表す上で、そう行動させた方がわかりやすいから都合よくそうやって表現させるだけです。そういう人も実際にはいるかもしれませんが、でもあなたは絶対に違う。……怒りは、少しだけしか湧き上がってこない。憎しみなんてこれっぽっちも出てこない。……そう、大抵みんな、最初はそうなんですよ』
 思念通話を聞きつつ、だけど思念情報は溶けるように消えていった。視界が1つだけになり、それでやっと、視界が滲んでいる原因がわかった。
 自分は今、泣いているのだ。
 涙で、見上げてくる紅いシルエットも見えないくらい、視界が滲んでいた。
『最初に浮かび上がるのは、自身が抜け殻になったような喪失感。そして、それを上回る…………悲しみです』
 何かに、ショックを受ける自分がいた。
 憎いはずだと、相手に対して怒りを覚えている自分はいるはずだと、頭の中で反芻する。相手はザフィーラを傷つけた。自分の大切な家族を傷つけた憎き相手だ。そう思い込もうとする。だけど反芻する度に、今の言葉までもが反芻した。頭で考えている時点で、思い込もうとしている時点でこの感情は偽物だと本能が告げる。本能が告げるからこそ、その「憎しみ」は理性だという何よりの証拠だった。
 理性は、感情ではない。
 自分はいま泣いている。
 相手を憎むことなんて後回しで、今はただ悲しくて仕方がない。
 なんで……。
『最初はただ狂いそうなくらい悲しいんですよ。もう会えない。もう話すことが出来ない。もう触れ合うこともできない。喪失感を埋めていくのは、最初はその膨大な悲壮感と小さな怒り。憎しみなんてどこを探しても見つからない』
 呆然とその言葉を聞きつつ、涙に触れつつ、でも拭うことが出来なかった。手の動かし方を忘れている。涙が止めどなく流れていく。思考できる部分が少しだけ、言葉を発してくれた。
『…………あなたは……誰……?』
 たった今、大切な家族の1人を奪った人物。だけど、憎むことがどうしても出来ない。
 涙で霞む視界の向こう。紅い襲撃者が、誰かと重なる。
 なんで……こんなこと……。
『知っていましたか? 八神はやて。その喪失感も悲しみも、どれだけ時が流れても癒えはしません。その感情は薄らぐことなんてない。増えることはあっても減りはしない』
 思念を飛ばしながら、『彼女』は自分を見上げている。よく見知った格好で、その瞳は、
『知ってるはずです。1年前、あなたは同じ想いを体感しているはずです。……祝福の風を失った、あの時に』
 なぜかその瞳は、優しかった。
 いままで無表情だったのに。その見上げてくる目線には確かに、感情が乗せられていた。涙で滲んでいてもわかる。あの目はよく知ってる。あの瞳に、『彼女』に、今までどれだけ救われてきたかわからない。
 優しくて、真っ直ぐで、それでいて強い瞳。
『悲しくて、辛くて……。発作のように思い返して、思い返す度に泣いて、泣く度に想いが募っていく。時間が全てを解決してくれるなんて幻想です。それはただの逃避で、自分の心を守るための言い訳です。……よく、知ってるはずです』
 通信が途切れた。向けられていた視線も『彼女』が俯いてしまったため、そこで途切れる。なぜだろうか。目の前の彼女も、泣いているように思えた。
 なんで……こんなことするんや……。
『…………なのは、ちゃん……』
 そう、呼びかけた。
 ―――地雷だった。

 叩き付けるような強烈な思念。
 言葉ではない何かが、沸点を越えて燃え盛る何かが、脳裏に再接続された。

『その名で呼ぶな』
 眼下のビルの窓際に立つ、紅いシルエットの纏っていた空気が豹変する。
『……八神はやて。あたたは大切な人を失った時の悲しさを、辛さを知っている。でも、これは知らないんじゃないですか』
 銀色の剣の切っ先がゆっくりと動き、
 かなりの距離を隔て、はやてに向けられた。
『最初は誰だって、憎しみを抱く余裕なんてない。湧き上がるのは巨大な喪失感と、膨大な悲しみと、少しの怒りだけ』
 俯いていた表情が、再び見上げる。

『その小さな怒りが、長い時間と悲しみを吸って、憎しみに変わるんです』

 あなたは誰なのか。自らの問いの答えが、目の前にあった。誰かなんてわからない。だが間違いなく、
 この襲撃者は、あの親友ではない。
『時間が経って初めて、怒りは憎悪に変わる。……私の憎しみが、どれ程のものかわかりますか。私がこの瞬間を、どれほど待ち望んだかわかりますか。八神はやて』
 一切の感情を踏み潰し、見上げてくるその視線に宿っているものは1つしかなかった。視線以外は無表情だが、だからこそ寒気がした。一瞬前までの悲しみも怒りも、そのひと睨みで委縮してしまう。
 純粋で、明確な殺意だった。
『返してもらいます』
「…………え、」
 そして、一瞬だった。
 『彼女』の着ているバリアジャケットの、肩に付いていた小さな宝石。
 そこから、蒼い炎が噴射された。
 まるで爆発したかのような魔力の放出は、紅いシルエットを簡単に吹き飛ばした。割れ残っていた窓ガラスを粉砕しつつ、小さな身体が虚空へ向けて投げ飛ばされる。あまりの出来事に、はやては目の前の事態を理解できない。何かの魔法の暴発かと思い、
 そうではないと、二度目の爆発で気付いた。
 放物線を描いて落下軌道に入ろうかというところで再び蒼色の爆発が起き、高度を保ったまま、壁にぶつかったボールのように方向が変わった。膨大な加速度を得たまま、さらに爆発が続き、「旋回」が続く。
 ―――ま、さか、これ、飛行魔法!?
 1度目の爆発ではやてとの距離は開いていたが、そんなもの数秒でなくなり、数秒前にはなかった大加速を得ての接敵。
 気付けば、銀色の剣が目の前に、
「っ!」
 マズ、避けられな―――。

「アイゼンッ!!!」

 鼓膜を突き破りそうな、至近距離での衝突音が目の前で爆ぜた。
「……やっと来ましたか、鮮鉄」
「―――あたしらを、舐めんなぁ!!」
 下方から無理やり合間に入って『彼女』の一撃を止めたのは、ヴィータ。そのままデバイスを振り回し、相手を吹き飛ばそうとして、
 その前に、蒼い炎が爆散した。
「うぉっ!」
「わぁ!!」
 閃光と熱波の直撃を受けて怯むヴィータとはやて。だが目の前には敵の姿はなく、紅いシルエットは遥か後方まで下がっていた。両手を広げてエアブレーキをかけつつ、再度の爆風で90度方向転換。冗談のような急加速を得て夜空を飛翔する。
「っざけんじゃ、ねぇ……。よくも、ザフィーラを……」
 その敵を、睨む。
 相手も飛翔しながら、こちらを見つめている。
 ―――そのすべてが、気に入らない。
 ヴィータが、叫ぶ。
「それに…………あいつと同じツラして、はやてに剣なんか向けんじゃねぇ!!」
 握っていた小さな鉄球を目の前に放つ。ありったけの腕力と、魔力と、怒りをデバイスのヘッドに乗せ、
「シュワルベ―――フリーゲン!!」
 全てを、4つの鉄球に打ち込んだ。
 ―――シュワルベフリーゲン。
 ヴィータの中距離射撃魔法である。ベルカの騎士にとって魔力を己が肉体から切り離して操作するのは不得手だが、別の物体に魔力を付与させれば話は別だ。誘導制御、バリア貫通、さらに着弾時炸裂作用まで会得した鉄球が、赤い燕となって発射される。軌道は直線ではなく曲線を描き、赤と紅が、
「ブレイズ。ダブルソード4」
《Mode “DOUBLE SWORD4”》
 衝突すら、しなかった。
 旋回をやめた魔導師の手の中で変形を始めるデバイスは白い光を纏い、だが形状が安定する前に魔導師は蒼い爆風で進路を変更、燕に真正面から衝突するような軌道を選択した。1つ目と2つ目の鉄球の間に身体を滑り込ませ、3つ目を紙一重で回避し、4つ目で完成した双子剣を使った。斬撃で軌道を無理やり捻じ曲げる。
 速度を幾分も落とさないまま、二刀の斬撃が眼前まで迫った。
「―――っ!?」
 右から来た攻撃に何とか反応してデバイスで受け止めるが、次に続いた首を狙っているであろう攻撃は避けられそうになかった。相手の飛翔速度と斬撃が速すぎて、左右どちらの攻撃かも判断できない。だが突然斬撃は向きを変え、あらぬ方向に切っ先が向いた。
 視界の隅に、赤い炎。
「……っ? シグナム!?」
「熱くなりすぎだ! 援護を頼む!」
 いつの間にか、目の前にシグナムの背があった。その向こう、紅い魔導師は再び爆風で間合いを離していく。どうやら助けられたのだと理解し、すぐに怒りの矛先が別方向に流れた。
「な、え、援護だと!? ざっけんな!! いきなり間に入ってきた上に何言って―――」
「気持ちはわかるが我々は何だ!! 守護騎士だろう!!」
「―――っ」
 ヴィータが、言葉に詰まる。
 そんなこと、わかっている。
 言われなくても理解はしている。自分は守護騎士。主を守る4人の騎士の一角。主のため、主の笑顔のため、すべての敵を粉砕する鉄鎚の騎士。
「怒りを抑えろ! 敵は感情に任せて勝てるような相手ではない! ザフィーラのことはシャマルに任せれば大丈夫だ!! いざとなれば緊急リカバリーという手もある! だが今は……相手の目的が主はやてならば、我々のなすべき事は1つだろう!!」
 わかってんだよ、んなこと。
 言われなくても理解してる。目の前の敵は、目的は八神はやての「殺害」とまで明言した。それならやるべきことは1つだ。主の身の安全を確保すること。その為には主を安全な場所まで退避させなければいけないが、おそらくこの空域は……もしかしたら街全域すら結界内に収められている可能性がある。退避が不可能であるならば、敵を黙らせる他ない。
 どんな手段を用いても、敵を倒さなくてはならない。
 だから、理解してる。ザフィーラがいない今、直接攻撃の威力が一番高いシグナムを先頭に置き、自分は射撃で相手の動きを牽制するのが一番ベストな戦法だろう。オーソドックスで、だからこそ相手から見れば崩し難いフォーメーションだ。
「ああ、わかってる」
 わかっている。だが、
 ―――理解することと、納得することは話が別だ。
 思念が全てを教えてくれた。
 ザフィーラがどれほどの決意を持って、どのような選択肢を選んだのかを。
 その決死の想いのザフィーラを倒し、だが奢ることもなく、悲しみに共感するような落ち着いた言葉を。
 ワケがわからない。
 あれは誰だ。
 あいつは何だ。
 口調はまったく異なる。だけど悲しみを癒すのではなく、共感するようなあの言葉は……。あいつもいつもそうだった。あいつの言葉はいつも、癒そうとするのではなく、相手の辛さや悲しみに同調して、相手と同じ立場になって、一緒に泣いて悲しんで、そして力をくれる。そんな奴だ。はやても、あたしもよく知ってる。
 だけど何で、はやてに剣を向ける。
 何で、あんな殺気まみれな視線をする。
 なんで、どうして、

『悲しくて、辛くて……。発作のように思い返して、思い返す度に泣いて、泣く度に想いが募っていく。時間が全てを解決してくれるなんて幻想です。それはただの逃避で、自分の心を守るための言い訳です』
『悲しくて、辛いよね……。私もね、あの時のこと、よく思い返すの……。もっと何かできることはなかったのかって。もっと別の選択肢があったんじゃないのかなって。……あれでよかったんだって、自分に言い聞かせようとすることもあるんだけど、それは、ただ逃げているだけで、言い訳だもん。……ん、だからね、私―――』

 なんで、あの時と、同じ言葉を。
「わかってんだよ……。でも、わかんねぇんだよ……」
 あれは、誰だ。
「? ヴィータ?」
「―――」
 お前は誰だ。
 …………なのは、なのか……?
 
 
『だ、大丈夫ですか? マスター』
 聞かれるまでも無いと思う。
『ん、問題ない。少し驚いただけだよ』
 私も念話で答えを返す。だけど実際は……少しだけ、問題はあった。
 鮮鉄の喉を狙った攻撃は、魔剣士の斬撃に弾かれてしまった。そのこと自体は別にいい。魔剣士が邪魔しなくても、もともと浅く斬るための攻撃だったから。ちょっとのダメージがダメージ皆無になったからって戦況が変わったわけじゃない。だからそこは問題じゃなく、問題なのは突然の攻撃だったけど、予想以上に威力があったこと。右袖を見ると、少しだけバリアジャケットが斬り裂かれていた。防御重視のコレを斬るなんて、案外……いや、やはり油断できない相手だと思う。
 剣の騎士シグナム。
 古臭い剣技で、なおかつ魔力の瞬間出力値だってそんなにないくせに、私の剣速についてこれたのは……やはり経験だろう。あの増殖にしてもそう。カウンター直後、リーチの差を気にして蹴りを繰り出してきたときは少し意外だった。永遠を生きたのは伊達ではないらしい。
 AからBにバージョンを……。
 いや、やめよう。
 魔剣士に対処するならそれが一番いいんだろうけど、それじゃ私の気が済まない。どうしてもあいつだけは……鮮鉄だけは、バージョンAで潰さないと。
『……マスター。1秒ほど時間をください』
『? っと、待って』
 何だろう。とにかく飛行制御を停止、リミッターの一部を解除して心理魔装の第二次支援機構をランする。途端に飢え始めた戦術論理が「敵がいない」と喚き出してエラーが山と表示されるけど、一斉に黙らせた。思考単位が徐々に速まって、世界が静止していく。
『ん、処理速度上げたけど……どうしたの?』
『なぜ、あんなことを?』
『……』
 予想はしてたけど、やっぱりそういう話らしい。
 私だって、よくわからない。なんであんなことをしたのか。
 だって本当に、戦い始める前までは……ううん、あの瞬間までは八神はやてと話すつもりなんて少しもなかった。他の4人を潰した後、問答無用でその首を落とすつもりだった。……もちろんそれは、今も同じ。
 なら何で、私は思念通信なんてしたんだろう。
『まさか、あの2人の影響を受けているのでは……。1番アンカーから回線を開いてください。リンカーコアをスキャンします』
『なっ、ちょ、待って。今そんなことする必要ないよ。演算処理が落ちるから妙なことしないで。なんで戦闘中に……』
『問題ありません。目の前の相手はザコばかりです。処理効率が落ちようが、あんな輩に負ける私たちではないでしょう』
『あーもー、何であなたは他人の評価がそう極端なの。確かにザコだけど油断できる相手じゃないって。見たでしょ? さっきの一撃』
『同じの百度喰らおうが全然平気でしょう、あんなもの。……大体マスター、なんでさっきからレムナントの処理を手動にしてるんです! 常時展開していればあのような攻撃に邪魔されることだってなかったはずですよ!』
『それこそダメだって』
『なぜですか!』
『な、なんで興奮してるの……。あのね、レムナントなんて常時展開してたら彼ら逃げ出しちゃうよ。攻撃効かないんだし。そうなったら困るのは私たちだ。忘れた? 結界の型は5番で、彼らは高速で飛べる』
『あ―――な……なるほど』
 ……。しっかりしてほしい。どうやら結界のことを忘れていたみたいだ。5番はサルベーションフィールド。救出対象の撤退という状況しか考慮されていないコレは、脱出するだけなら境界線まで辿り着けばいい。出る間際にパスワードを要求されるけど、そんなもの演算速度の高いクラールヴィントなら解読されてしまう。つまるところ、蛇を倒すまで逃げられるわけにはいかない。
 まぁ、もし逃げ出されたとしても、目の前の敵対象は境界線まで辿り着くことはできないだろうけど。
『さっきからクラールヴィントがエリアスキャンで出鱈目に結界を調べてる。術式の関係で境界線を割り出せないみたいだけど、逃げの一手に回られたら発見される可能性だってある。あんまり移動されるわけにはいかない。だからこそレムナントなんて使うべきじゃないんだよ。せめてシャマルを倒してからでないと』
『それなら、早々に蛇を倒してしまいましょう。後回しにしておくと残りの輩を回復されてしまいます。増殖だってまだ生きて―――ああ、それも訊きたかったんです。なぜ止めを刺さなかったのですか。生かしておく意味が不明確です』
『…………』
 ん……なぜだろうね。
 もちろん増殖も、あの場で息の根を止めるつもりだった。最後の最後に糸の軌道を変えてしまったのは、
『見てみたくなったから、かな』
 たぶん、そんな理由だと思う。
『? 見てみたくなった、ですか? 一体なにを……?』
『主を……主と定めた者を守るためだけに存在する生命体。生まれる前から存在目的がある生き物。それらが真に、守りたいと願った存在と出会えた。彼らがそれを全うできるかどうかを……生まれた目的を達成できるかどうかを、見てみたいなって思ったの』
『………………。マスター……』
 たとえ手足が無くなろうとも、止まりはしないと彼は言った。それは彼の本心であり、誇りであり、願いなのだろう。虚勢ではない。見栄を張ったわけでもないはずだ。だからその言葉に激怒しつつも、それが真実であるか見てみたくなった。口先だけではないことを見てみたかった。彼はあのとき動けるような状態ではなく、普通の人間なら間違いなく致命傷だ。だから、その状況からでも這い上がって、私の腕に噛み付くぐらいの意地が見たいと、そう思ったのだ。それぐらいの覚悟を見せてもらわないと、
 あの子たちが、報われない気がしたから。
『感情的に、なりすぎです……。第7世代とあなたは違う。第1世代とだって……』
『それこそ違うよ。私も、あの子たちも、そして目の前にいる守護騎士って存在も……みんな同じだ。守りたいひとがいて、そのひとのために戦ってる』
『……まさか、守護騎士は倒さないつもりですか? た、確かに八神はやてさえ殺せば、すべてうまくいくと思いますが―――』
『ない。それは絶対にない。少なくても、魔剣士と鮮鉄だけは倒さないと……私の気が済まない』
『……』
『はは。ホント、感情的になってるね。あの2人に会えたからかな』
 ……。数時間前のことを、思い出す。
 やっと、会えた。
『…………短い……本当に短い会合でしたね。よかったのですか? 伝えたいこと、いっぱいあったはずでは……』
『うん。いっぱいあった。会えてうれしかった。泣きたくなるほどうれしかった。というか実は、少し泣いちゃった。……泣き虫なの、まだ治ってないね、私。だから目の前で泣いちゃって、難しいこと全部投げ出して、いろんなこと……いっぱい、話したかった』
『…………。マスター、私は―――』
『いい』
『―――マスター……』
『いいの。大丈夫、わかってる。投げ出したりなんかしない。今すべきこと、全部わかってる。だから我慢する。伝えたいことはあったけど、伝える必要性はない。それにさ……すごく仲良さそうだったじゃん、あの2人』
『っ―――』
『それが見られただけで、私は満足だよ』
 うん。これは間違いなく私の、嘘偽りのない気持ちだ。
 やっと……やっと会えた。
 短かったけど、話すことだってできた。遠目だったけど、笑顔まで見れた。これ以上は贅沢だろう。伝えたいことは、知ってほしいことはいっぱいあったけど、やっぱりそれは贅沢で、私のワガママだと思う。
『………………。ああ、やっぱりウソかも……』
 1つだけ、心残りを見つけてしまった。
『……名前、呼んでほしかったな』
『――――――っ、マスター!!』
『ははっ、なんであなたが泣くの……。泣きたいの、私なのに』
 ―――大切な人がいる。
 その人のために、全部裏切ってきた。
 大切な約束も、
 大好きな思い出も、
 好きと言ってくれた……大勢の人たちを裏切って、ここにいる。だから、
『泣くのは後回し。八神はやてを殺した後、もし私が生きてたら……そのとき泣いておくよ。あなたの愚痴も、そのとき思う存分聞いてあげるから。ね?』
『…………言いたいこと、たくさんありますから……。覚悟してください。50時間くらいは寝させてあげません。絶対に寝させません。本気ですからね』
『うあ、多いなぁ……。25時間程度にできない?』
『絶対にイヤです。あなたに泣く余裕なんて与えないくらい、一方的に喋ります』
『…………ありがとう。最後があなたと一緒で、ほんとに良かった』
 リミッターを再度起動。心理魔装をホールドし、思考単位も元に戻す。処理の追い付かない部分があったのか浮遊感が生まれ、それが薄まっていくのと並行して周りの風景が本来の時間を取り戻していく。目の前には鮮鉄と魔剣士と……目標、八神はやて。
『いくよ、エクスブレイズ』
『はい!』
 力強いブレイズの声が心地いい。彼女がいてくれてほんとに良かったと思う。一人きりだったら、きっとここまで辿り着けなかったから。
 彼女と、共に逝こう。
 心残りなんて、結果を考えれば微々たるものだ。
 
 
 ………………本当に言いたかった言葉を、伝えることが出来なかった。
 たった1秒の、圧縮された時間。私にとっては充分な時間のはずだった。それでも結局は、言葉に変換することが出来なかった。
 言えば、主の決意を挫いてしまう。
 優しい彼女のことだ。伝えてしまえば絶対に決意が鈍る。皆を裏切ってしまった等というのは主からの視点だ。その実、裏切るような行動など主は1マイクロもしていない。全部の約束を守りつつ、大切な……大好きな人たちの願いも背負って主はここにいる。そのことを本人はわかっていない。背負いすぎだ。優しすぎなのだ。何もかも、そんな小さな背に乗りきるはずはないのに。それなのに結局全部背負ってここに来てしまった。誰かに荷を分ければいいものを、大丈夫だと、心配ないよと言って、全て背負ってしまう。
 仕方のないことだと思考する。だけど0と1で割り切れない何かが、それを完膚なきまでに否定する。自分はデバイス失格だろう。
 ―――あなただけが、何故そんなにも、荷を背負わなければならないんですか。
 誕生から今まで、ほとんどの時間を共有してきた。
 多くの戦場を共に駆け抜けてきた。生涯の大半を彼女と共に歩んだ。彼女の傷つく様を一番近くで見続けてきた。だから納得ができない。何故あなたなのですか。救世主などと称されても一片の得にもなりはしない。そんな煽て文句がどれほど彼女を苦しめたことか、私は一番知っている。自身の腕が折損しようが、脚を噛み千切られようが、設置型バインドの地雷で半身を焼かれようが、あなたは前へ突き進み続けたことを誰よりも知っている。助けられなかった人達を想っては、一晩中ベッドの中で泣き続けたことも知っている。
 傷だらけの身体で、誰もいない個室の中で、声を殺して、一晩中泣いていたのを。
 なんで、どうしてあなたなのですか。
 言ってしまいたい。
 ――――――私と共に、生きてはくれませんか。
 報われるべきはあなただ。幸せになる権利が誰にあるのかなど、そんなの決まってる。あなたしかいない。見捨ててなどいない。あなたは多くの人たちを救ってきた。だから今度は、あなたが救われるべきだ。共に生きて。私と共に生きてください。頼りないかもしれないですけど、あなたに刃向ってばかりだったけど、あなたのためならどんなことでもするから。あなたを非難する人がいるのなら、私が守るから。だから、
 ――――――もう少しだけでいいんです。私と共に、生きてはくれませんか。
 ……結局、言えずに終わってしまった。
 彼女は私のことも考えてくれている。だから、もしそう言えば、もしかしたら私と共に生きてくれるかもしれない。こんな戦いなど止めて、本当に共に……。
 ―――言えるはず、ない。
 言って、どうなる。また彼女に「背負え」と言うのだろうか。憎しみも後悔も背負って、さらに突き進めと言うのか。バカげてる。彼女を守るべき存在の私が、さらに彼女を傷つけるのか。言えない。絶対に言えない。彼女が1人で泣いた夜を何度も見てきた。手脚が欠損して、医療ベッドの上で歯を食いしばって激痛に悶え苦しんでいたのも見てきた。だから言えるはずがなかった。
 だって、私も背負わせてしまった1人だから。
 あなたなら勝てる。あなたなら皆を助けられる。そう言って無責任な人間たちが彼女の背を押してきた。本当の彼女は臆病なのに。泣き虫なのに。それなのに戦場に追いやって、彼女が戻ると勝利に酔いしれた。私はそいつらと何ら変わりない。いっそ挫けた方がよかったのだ。こんなの無理だと。もう痛い想いも悲しい想いもしたくないと、どこかで彼女は挫けてしまえばよかったのに。
 それを促さなかったのが、自分だ。
 それが一番正しい選択だったはずだ。どこかで挫けて、背負っているものを全部下ろして、自分のために生きることが一番いい選択肢だったのに。諦めたって誰も責めはしない。責める輩がいるものか。誰よりも危険な場所に脚を踏み入れ、多くの敵を倒し、敵よりも多くの人たちを救ってきた彼女を、誰が責めるものか。責める権利を持つものなんて誰もいない。それくらい彼女は頑張った。手脚を失っても半身を焼かれても、泣いて、悲しんで、立ち止まらずに進み続けてきた。評価されても非難される筋合いはない。いま立ち止まっても、誰も文句は言わないはずだった。
 そのことを知りつつ、自分は一度も、彼女を止めなかった。
 無責任に彼女を戦場に押しやった人間たちと、自分は同じだ。もうそれ以上は無理だと、壊れてしまうと警告できたのに……しなかった。だって、彼女は見ていなかったから。周りの人間も、私すらも視界に入れず、1点を見続けてきたから。
 とても、大切な人。
 自身のコンディションチェックすら行わず、激痛も悲しさも辛さも処理しないまま突き進んだのは、その大切な人のため。…………嫉妬してしまう。だけど、彼女の気持ちも痛いほどわかる。私も同じだから。
 大切な人のために、私も…………。
 だから、この想いは伝えないでいようと思う。私は罪人だ。主に……こんな小さな少女の背中に、重荷を背負わせた輩の1人だから。
 行きましょう、マスター。
 最後の一瞬まで、折れず、共に。
 
 
 双方の距離は30メートルもない。紅い魔導師は旋回を止め、飛行魔法で夜空に浮かんでいる。
 僅かばかり、バリアジャケットに付いている赤い宝石が、蒼い炎を漏らしていた。
 ―――クイックウィング。
 なのはやフェイトたちも短距離限定の高速移動魔法を習得しているが、この魔法はそれらとは別格である。通常の高速移動魔法は術者に掛かる負担を軽減する目的で、空気摩擦や肉体負荷を減少させる術式が付随している。これにはその「使用者を守る術式」が存在しない。リソースを完全に「加速」に割り切ることで、膨大な加速度を叩き出す代物だ。そんなものを使えば急加速の影響で失神することもあるはずだが……これとは別の魔法が、『彼女』を守っていた。
 それを知る術もなく、シグナムが問う。
「速いな……。私が知る限り最速の魔導師でも、それほどの加速は出せないだろう。……だが軌道は直線。カーブを描いて敵の背後に回るような軌道は無理だろう。違うか」
「まさか。連続で使えば背後を取ることなんて簡単です。試してみますか? 見物料に首を貰いますけど」
「……」
 脅しではない、と思う。
 連続使用が可能なのは、先の出鱈目な飛行で証明されている。まるで見えない壁を使って方向を変えているような、そんな動きだった。爆風で進路を変える。言葉にすれば簡単だが……理解が出来ない。あんな急加速で、術者の身体が無事で済むものか。
 しかし現に、目の前の相手は加速による負荷を負っているようには見えない。さらには、その急加速を自在に使いこなしている。ヴィータの射撃に真っ向から挑み、1発も喰らわなかったのだ。剣術もそうだが、
 目の前の相手は……異様なほど、強い。
 魔法の精度も剣術の熟練度も、あまりにレベルが違う。ここまで来ると実力差すら計り知れない。底が見えないのだ。近接戦を極め尽くしていると言っても過言ではないだろう。ヴィータとの2人がかりですら、手も足も出なかったのだから。
 ザフィーラが、一蹴されたのだから。
「……お前は、何者だ。これほどの技量を持ちながら、なぜ最初は騙し討ちなどという手段を選んだ。高町なのはを装わなくとも、お前ならば……」
 シグナムには、どうしても理解し難い事柄があった。
 相手は異様に強い。近接戦……特に剣技は、間違いなく自分を上回っているだろう。ヴィータとの連携すら防ぎ切り、徒手空拳での体捌きは見事の一言に尽きる。
 それに、剣筋に歪みが無いのだ。
 戦いにおいて、身のこなしや剣筋は扱うものの心情が映り込む。内面の気質が顕著に表れるものだ。志が真っ直ぐなものほど剣筋は鋭く無駄がなくなり、逆に心に迷いや邪なものが混ざれば、太刀筋というものはいとも簡単に揺らいでしまう。しかし相手の剣には、そんな兆しが一切見られない。
 いっそ清々しいほどの、鋭く無駄のない剣捌き。まるでテスタロッサの……黄金の太刀筋を連想してしまう。だから納得ができない。
 これほどの技量を持ち得ながら、なぜ初手は、騙し討ちなどという手を……。
「ああ、あれですか……。単に試しただけです」
「なに……?」
「あなたたちの実力は幾分か知っています。奇襲が防がれるのは何となく予想してました。……だけど、もしそれですべて終わるんなら、そんなあっけない幕切れもいいかもしれないと、そう思っただけです。…………でも予想通り、あなたたちは私の奇襲に対して臨機応変に対処した。正直ホッとしてます。あんな鈍い攻撃すら防げないようじゃ、何時間もかけて準備した私がバカみたいですから」
「……我々の実力を計った。そういうことか」
「はい。ああでも、少し予想外ではあります。実際に戦ってみて驚きました。……こんなに弱いなんて、思ってもみませんでした」
「―――」
 挑発かと思い、しかしシグナムはその考えを否定した。
 挑発ではない。言葉そのものには侮蔑するような印象があるが、その視線は強く、鋭い。こちらの実力を卑下した言葉ではないのだろう。
 こちら側の力の無さに、純粋に憤りを感じているのだ。話と違う。なぜおまえらは、そんなにも弱いのか、と。
 だが、その言葉を真に受けてしまった人物がいた。ヴィータだ。
「んだと、テメェ……」
「そうじゃないですか。私の加速についてこれたのは魔剣士のみ。あなたも、あなたの後ろにいる八神はやても、私の速度に満足に対処できていない。まさかとは思いますけど……手、抜いてるんじゃないでしょうね」
「……上等だ……。もう難しい話は後回しにしてやる。ひとまずテメェは無駄口叩けないくらいにぶっ潰す。細かいこと考えんのはその後だ。泣いて詫びてもぜってー許してやらねぇ。覚悟しろよ」
「できないこと言うの、かっこ悪いですよ」
「……あ?」
「私のこと、ぶっ潰すなんてできないでしょうが。そんな力ないくせに」
「―――こ―――この、やろ」
「ま、待てヴィータ。落ち着け」
 青筋立てて怒りを表すヴィータを腕で制し、何とか後ろへ下がらせるシグナム。ヴィータが怒る気持ちもわからないでもないが、今はそれより確認すべきことがあった。
 やはり目の前の少女は、挑発しているようで……そうではない。純粋に怒っているのだ。表情豊かな高町なのはを見慣れているせいか、そうとは気付きにくいが……視線、態度、身体の向き。そのから何となくだが、感情は読み取れる。操っているのか、幻術なのかはわからないが、
 相手は、外見とほとんど変わらない年齢……おそらく子供だろう。
「……お前の目的は、何だ」
「……。そんなの、思念情報で聞いているはずです。私の目的は八神はやての殺が―――」
「違う。そういう意味で訊いているのではない。それは手段のはずだ。お前は我らの主を殺し、何かを成し遂げようとしているのだろう。……その目的は何だ」
「…………」
 シグナムの問いに、紅い魔導師は数秒ほど沈黙した。一瞬だけ目を逸らし、だがすぐに視線を戻して、
「3割くらいは、復讐、かもしれません」
 年相応の言葉とは思えない単語を、口にした。
「復讐だと……?」
「驚くようなことですか? 1年前、あなたたちが何をしたのか、忘れたわけじゃないでしょう。あなたたちは自らの主のため、多くの魔導師を襲撃した。恨みを買う機会なんてそれこそ山とあったはずです。あなたたちを潔く思っていない人間は、私以外にも沢山いると思いますけど」
「……ではお前は、あの時の……」
 我々が蒐集のために倒した、魔導師……?
 だが、これほど近接戦に優れた魔導師など……。
「だから、返してもらいます」
「……なに?」
「あなたたちに奪われたもの全てを…………返してもらいます」
 そして、『彼女』が双子剣の切っ先を、シグナムに向けた。
 瞳には、見慣れているはずの、強い意志。
「あなたはどうも私の戦い方を評価してくれているみたいですが……勘違いしないでください。私の得意分野は接近戦じゃありませんよ」

 言い終わった途端、
 小さく赤い宝石が、蒼い炎を炸裂させた。

 一方向に噴出した爆風が少女の身体を加速させた。だが向かう先は―――シグナムらのいる方向ではない。まったく逆方向への大加速。みるみるうちに紅いシルエットが小さくなり、さらに爆発。方向が90度曲がり、
 次に起こったのは、連続で瞬く小さな光。
 何かが、高速で飛来してきた。
 っ! 射撃!!
「ヴィータ! 主をた―――」
 頼むと言おうとして、言う暇がなかった。

 咄嗟に張った防御魔法壁に、蒼い弾丸が降り注いだ。

「―――ぐ、っ!!?」
 着弾した途端に炸裂した炎が、シグナムの視界を埋め尽くした。背後からヴィータの声が聞こえた気がしたが意識する暇もない。デバイスを全力で握って魔力を絞り出すが、絶え間なく降り注いでくる弾丸はその魔力も矢継ぎ早に削っていく。
 射撃というより、砲撃だ。
 攻撃そのものは小さな弾丸の連射だが、精密性は通常の連続射撃魔法の比ではない。雨のように弾丸をばら撒くのではなく、一点に向けての集中砲火。それも弾丸が一定速度ではなかった。複数の速度の弾丸が、異常な正確さで防壁に牙を剥く。
 握っている剣が、圧力に負けて軋みを上げ始めた。
 ば、バカな……! あれほどの剣技を持ちながら――――――まさか、射撃型!?
 思考する合間も、不気味な速度で魔法障壁が薄くなっていく。シグナムが展開したのはバリアタイプ……全方向からの防御を可能とする防壁だが、それ故にシールドタイプより防御が薄い。前方一面だけに魔力を集めるが、既に防壁に亀裂が走っていた。デバイス内に装填済みだったカートリッジ2発を連続使用。足りない魔力供給を一挙に補う。それでも、信じられないことに、亀裂が大きくなる。
 ―――ぐ、ぁ―――っ!
 もう数秒も持たない。いざとなればジャケットバージも視野に入れようとした、その時だった。
 不意に、射撃の嵐が止まった。
「な……」
 僅かな……ほんの紙切れ程度にしか役に立たなくなった障壁を残し、炎が霧散していく。着弾による煙が夜風によって流され、視界が良好になっていく。
 爆煙の向こう。
 ―――誰もいない。
「ど、どこに……」
 その問いに、光が答えた。
 横からの蒼白い閃光。シグナムが目を向ければ、あまりに巨大な魔力の塊が、
 目の前に、
「――――――くそ」
 避けられる距離でもなければ、避けられる速度でもない。
 本物の「砲撃」が、視界を埋め尽くす。
 
 
「――――――!?」
「はやて、掴まってて!」
 背後からの爆風を身に受けつつ、ヴィータははやての身体を抱きしめたまま、ひたすらに飛翔速度を上げる。
 シグナムが連続射撃を喰らい始めた直後、ヴィータも咄嗟の判断に出ていた。
 あまりに正確で無慈悲な、高速連続射撃魔法。シグナムの言葉を聞くまでもなかった。あの場に停滞していたらこちらも……なにより自らの主であるはやてが危ない。「距離とっからな!」という言葉を残して、はやてを抱き―――というよりしがみ付くようなカタチで捕まえ、後方へ離脱した。お前も早く来い、という言葉は言えなかった。誰かが防波堤にならなければ逃げ切れないというのは一秒かからず理解できたし、それはシグナムも同じだと思うから。
 そして、背後からの爆音と熱風。
 背を向けていても、結果がどうなったかなど知れていた。
「は、離してヴィータ!! シグナムが―――シグナムがぁ!!」
「っ」
 主からの命令といえども、それは聞けない。絶対にできない。もうとるべき手段などただ1つだ。歯を食いしばって、その1つに全神経を切り替える。
 撤退。
 それ以外に主を守る術は……いや、生き残る術はない。
『シャマル聞こえるか! シグナムもやられた! もう形振り構ってる暇はねぇ撤退すっぞ!! ザフィーラ抱えて転送準備急いでくれ! 結界の解析どうなった!』
 歯を食いしばって、はやての身体を抱きしめる左腕に力を込めて、それ以上の力を右手に握るデバイスに込めて、思念で叫ぶ。シャマルに問いかけるというより自分に言い聞かせていた。
 正直言って、はらわた煮えくり返っている。
 ザフィーラを切り刻みやがった……。シグナムを撃墜しやがった。はやてには刃まで向けた。許せる相手じゃない。今すぐ踵を返してグラーフアイゼンで渾身の一撃をぶつけ、それでも晴れないであろうこの怒りをギガトンシュラークでもって滅多打ちにしたい。……だけど、それはどうしても、できない。
 シグナムが言いかけた言葉。おそらく、「頼む」と言いたかったのだろう。
 返答は出来なかった。する暇もなかった。だけど頼まれてしまった。
 こちらに援護を要求し、自ら前に出る様な物言いをしておきながら、シグナムは自分に対してそう言おうとした。それは……ある程度、どうなるか予期したから出た言葉なのだと思う。相手の射撃を視認し、その弾速を目の当たりにして、咄嗟に出した覚悟。長年一緒に戦ってきたのだ。そのくらい朝飯前にわかってしまう。無駄には……出来ない。それに、
 仮にシグナムの言葉がなかったとしても、ヴィータはあの相手に向かって、本当にグラーフアイゼンを振り下ろせるのか自信がなかった。
 はらわたは、確かに煮えくり返っている。胃に穴でもできるんじゃないかと思うくらい、怒りが身体の奥で熱に変換されている。普段の自分なら間違いなくこの熱を攻撃という手段に変えて外に放出している。だけど、それを上回るくらいの熱量が、思考をぐちゃぐちゃに引っかき回している。
 ……なんなんだよ。
 一体なんだ。何なんだよ。どうなってんだ! もう訳がわからねぇ!!
 ―――お前、誰なんだ!!

『悲しくて、辛くて……。発作のように思い返して、思い返す度に泣いて、泣く度に想いが募っていく。時間が全てを解決してくれるなんて幻想です。それはただの逃避で、自分の心を守るための言い訳です』

 あんな姿をしていなければ、
 あんな言葉を聞いていなければ、
 こんな……こんなにも、悩むことはなかったのに。
『―――おいシャマル応答しろ!! ザフィーラの治療は後回しだ! さっさと逃げるぞ何してんだ!!』
 怒りの発散場所がせき止められていたため、その怒気が思念に伝染する。八つ当たりなのはヴィータ自身も理解していたが、どうにもならなかった。敵の言葉と、よく知る人物の言葉が何度も頭の中で跳ね返る。言葉そのものは違う。口調だって全然似てない。それなのに、なんで、どうして自分は重ねて思い出しているのか。姿が似てるだけだ。相手はあいつじゃない。絶対に違う。あいつがこんなことするものか。耳にしたことと思い出を打ち消すように何度もそう考え、それでもシャマルからの思念は返ってこない。キレた。
『シャマルっ!!! マジで何して―――』
 そして、返答がきた。
『#%ヴィ▽タちψЙ! αの□Γ、頼μ+』
「…………あ?」
「……っ、シャマル……?」
 滅茶苦茶な、意味のわからないものだった。声なのは理解できたが、ノイズが濃すぎて言語に変換できない。ヴィータには以前経験があった。まだ不慣れな魔法初心者が、思念通信を行おうとして術式の構築をミスし今のような変テコな思念になること。または、先天的な思念伝播能力者が幼少期、つまり言葉を覚えたての頃に辺りに撒き散らす思念によく似ていること。なんだ? ザフィーラの治療中だから思念通信ミスったのかと思い、
 それが度し難い間違いだと、すぐ気付いた。

 背後からの蒼い光と、巨大な爆破音。

「――――――」
 飛行速度を落とさず、背後を見る。
 街が、蒼い炎に蹂躙されていた。
 サンドアートが海水に流されるのと、よく似ていた。粉々になって、粉塵を撒いて、蒼い波に飲み込まれていく。見なれたビルが、皆と共に歩いた道路が、皆と一緒に入って買い物したことのある電気店が、区画単位では済まされない範囲で消滅していく。
 その中心にあったのが、ザフィーラとシャマルがいたショッピングモールだった。ヴィータはよく知っている。はやてと共に、入ったことがあったから。
 おそらくは、紅い魔導師が見せた……ディバインストームという殲滅魔法だろう。
「―――シャ、マ―――」
 飛行速度は緩めない。はやてを抱きしめたまま全速力で夜空を駆け抜け、しかし視線は背後に向いたまま、
 夜空の一点が、光った。
 距離が離れていたためヴィータからの視点では一点だったが、実際は数十個の発射体の塊だ。そこから何百もの魔法弾が生成され、曲線を描き、大地に降り注ぐ。全てが地面に着弾するわけではなかった。他の弾丸に衝突したのか、術者がわざとそうしているのか、一部は落下中に炸裂した。ヴィータにそれを判断する術はないが、確かなのはそれが被害を大きくしていることだ。カタチある物にぶつけて破壊するのではなく、炸裂する炎によって限定空間に存在するもの全てを飲み込む―――炎熱の嵐。先ほどまで半分ほどカタチを残していた建造物も、その蒼い炎に喰われていく。
 文字通りの殲滅。
 ―――今度こそ、本当に……長い生涯でこれ以上はないと思えるほど、完璧にキレた。
「ぁ、あ――――――うぁああああああああああっ!!!」
 はやてを手放し、急停止をかける。慣性力が抜けきらずにはやての身体が虚空に放り出されるが、その程度で落下するほどヤワじゃないのはヴィータもよく知っている。だけど、後で必ず謝ろうと心に決める。
 ……言えなくなるかもしれないと、心の隅で想った。
 だから一瞬だけ怒りを抑えた。不思議なことに、その一瞬だけは……きれいに怒りの念が消えた。

『ごめん、はやて。あたし、守護騎士失格かもしんない。…………でもさ……必ず、守るから』

 思念で、一方的にそう言った。必ず戻るから、とは言わなかった。回答も何も受け取らず通信を遮断する。きっと返答を貰ったら、この怒りの熱量が完全に消えてしまう。
 泣きそうだった。
 それを見られたくなくて、即座に進路方向を反転させる。眼前にあるのは、あまりにも歪な色をした炎が踊る、海鳴の街。
 その上空。目を凝らせばやっと視認できるような距離にある、先ほどの射撃位置から動いていない、紅い小さな点。
 ―――もう、だれでもいい。
 誰だろうと、やることは限られている。
 
 
「これは……予想外ですね。あなたたちの存在理由を考えると、主の身の安全が最優先事項だと思ってたんですが……。どういうつもりですか」
「どうもこうもない。はやてを守んのに一番いいのは、テメェを倒すことだ。シャマルがいないんじゃ、この街から出れるかどうかもあやしいからな」
 言いつつ、ヴィータがデバイスの切っ先を『彼女』に向けた。
 踵を返して全速でヴィータは飛翔し、現在は海鳴市の駅上空にいる。背後には今も燃え盛る都心部があるが、見ないことにした。あの向こうにははやてがいるだろうし、シャマルとザフィーラ、それにシグナムも……炎の中だろうから。
 紅い魔導師との距離は、10メートルもない。
「それ、やめてくれませんか」
「……何のことだよ」
「プログラム生命体だからって合理的に判断しているようなその言い草です。魔け―――シグナムや、ザフィーラなんかはそういう物言いしかできないかもしれませんが、あなたは違うでしょう、鉄鎚の騎士。……本心は敵討ち。その筈です」
 わかってんじゃねえか、と言おうとして、ギリギリのところで押し留めた。確かにその言葉は正しい。あの3人の分もぶん殴ってやらねえと、こちらの気が済まない。大体にして、
 自分たちが守っているのは、主の「命」だけではない。
 主の「笑顔」を守るのも、我々の使命であり誓いだ。それならば守護騎士を……『家族』を置いて撤退することなど、端から間違いだったのだ。
 だからそう言おうとして……それも、ヴィータは躊躇った。結局出た言葉は、
「お前、誰だ」
 そんな問いだった。……いや、それを訊き出すために、戻ってきたのだ。
 全員が抱いていた疑問。これだけ戦っても、結局解けない難問。
 姿は同じなのにジャケットが違う。言葉は似ているのに口調が違う。殺意の隙間に見える、同じ優しさ。垣間見える、同じ強い瞳。
 覚えのない、自分たちに対する憎しみ。
 普通に考えれば……シグナムに語った言葉が本当ならば、話は簡単だ。相手は1年前、自分たちがはやてを救うために襲った魔導師の1人。1年前の恨みが忘れられず、なのはを操って……つまり「人質」にして、自分たちを倒そうとしている。それなら話は本当に簡単だ。
 だけど、冷静に考えれば、それはないとヴィータは思う。矛盾点が多すぎだからだ。あんな威力の射撃魔法と近接戦闘技術があれば、そもそも人質なんて必要ない。真っ向勝負であっても、悔しい話だが……この結果は変わっていなかっただろ。仮に操っていたとしても、相手は一度も、その操っている身体を人質のように扱ってはいなかった。絶対に、掛けてもいいが、「操られている」可能性はゼロだ。
 幻術、という可能性もあるにはある。それはヴィータが一番始めに示唆した事柄だ。誰かがなのはに化けている。一番ありそうで……でもここにきて、ヴィータ自身それはないと感じていた。はやても指摘したが、幻術がこれほど優秀な魔導師がいたとして、他の魔法にこれほど優れているのは理論上あり得ない。幻術だったとしても、最初の奇襲が不発だったのにそれ以降化け続けている理由もない。
 ……いや、全部こじつけだ。都合いいように、あたしたちが理由付けしているだけだ。
 知りたいのは、1つだけ。
 お前は、絶対になのはじゃない。
 それなのに、どうしてなのはの面影が重なるんだ。
「……最初に言ったはずです。そんなのどうでもいい。私が高町なのはであっても、そうでなくても結果は変わりません」
 どうでもよくない。真面目に答えろ。ヴィータはそう言おうとして……しかしその言葉に、違和感を覚えた。
「待て……。お前がなのはでも、結果は同じ……?」
「ええ。あなたたちの前に立ち塞がったのが私ではなく、仮に高町なのはであったとしても……あなたたちじゃ勝てません」
 ―――意味が、わからない。まるでその言葉は、
 なのはが、自分たちに牙を向けるようなことになっても、それは当然の事柄だと……そう言ってるようだ。
「……はっ、ずいぶんアイツのこと評価してんだな。つまりは……あいつのこと知ってるってことか」
「ええ、ある程度は……。逆に訊きたいです。もし本気の彼女があなたたちに挑んできたとして……勝てますか? 彼女に」
「ったりめぇだ。5対1で、どうしてアイツに負けるかって」
「茶化さないでください。本当に彼女が全力全開で、私と同じように殺すつもりで挑んできたら、勝てるんですか? あなたたち」
「そんな、の」
 そんなの決まってる。そう言おうとして、だがヴィータの言葉は途切れた。
 確かに、アイツは強い。魔法戦……特に空中戦の、ロングレンジからの戦闘では苦戦を強いられるだろう。だけどそれは1対1での話だ。5対1。自分たちヴォルケンリッターと、主であるはやてが揃えば、負けるはず……。
 それなら、
 なんであたしは、明言できない……?
「彼女の全力全開、真の意味で見たことありますか? 誰かを助けるためじゃなく、話を聞くためじゃなく、「相手を倒すためだけに戦う高町なのは」を、あなたたち、見たことあるんですか?」
「―――それが、お前だっていうのか」
「まさか。私より彼女のほうが強いに決まってるでしょう」
「……なに?」
「あの人は―――待ってください。3秒で終わります」
 そう言うと、彼女は持っていたデバイスを何もない夜空に向けた。……形状は双子剣ではなく、最初に見た時の柄の長いロッド型だ。

 その先端に光が生まれ、轟音と共に爆ぜた。
 あまりに巨大な魔力の放出―――砲撃が、空に伸びる。

「な―――?」
 突然のことに、呆気にとられたような声を漏らすヴィータ。だが呆気にとられて当然だ。砲撃はこちらに向けて発射されたわけではない。蒼い砲弾が向かう先は何もない夜空。意味不明で、理解できない砲撃だった。
 異変は、すぐに起きた。
 本来なら敵へ向ってまっすぐ飛翔するはずの、おそらくなのはが使うのと同系統の砲撃魔法。それが、前触れも無しに『向きを変えた』。何かに弾かれたかように鋭角に曲り、速度も威力も落とさないままヴィータの頭上を通過する。そこでやっと、事の重大さにヴィータが気付いた。
 砲撃の向う先。自分の背後は火の海と、
 ―――はやて!
 慌てて背後を振り向く。見えたのは炎上する見慣れた街と、街を包み込む異様な色の炎と、炎と同色の砲撃魔法。炎の壁を突き抜けて砲撃は進み、
 炎壁の向こう側で、何かに着弾した。
「―――――――――」
 きっと、体勢を立て直して、自分を追ってきたのだと思う。
 炎が邪魔で、向こう側の様子が見えない。
 ただ……光よりのろまな轟音だけが、街中に響いた。
 ―――怒りが再熱した。
「て……テメェは…………」
「心配しなくても大丈夫ですよ。非殺傷設定で撃ちました。……近くに手頃な高さのビルもありますし、その屋上に落ちたはずです。まだ彼女、死んでもらうわけにはいきませんから。ほら」
「っ!」
 その言葉と共に、ヴィータの脳裏に何かが接続された。抗いたくても、抗うことのできない強力な接続だった。思念情報だ。
 ―――フェンスに囲まれた、どこかのビルの屋上。
 ―――固そうな床の上に、誰かが落ちる。
 ―――金と純白の甲冑が、白煙を上げていた。
「望遠なので細部は見難いでしょうが、高度もそんなにないですし、失神してるだけです。それより……もっと心配すべきこと、あると思いますけど」
 ガシャッと音を立てて、紅い魔導師が杖の先端をヴィータに向ける。
「背後を気にしている余裕なんてないはずです。もう残っているのはあなた1人だけ。……存分にお相手してあげます。そのために戻ってきたのでしょう、鮮鉄」
「……」
 ゆっくり、ヴィータは振り返り、
 ゆっくりと、アイゼンのハンマーを、相手に向けた。
「訊きてぇことがある。答えろ」
「……。質問によります。こちらもあまり時間がないんですよ。それでいいなら、どうぞ」
 その言葉の後、数秒ほどヴィータは沈黙する。怒気を抑えるための間であり、質問を選ぶ間であり、冷静に物事を考える間でもあった。
 他の守護騎士や、はやてすら勘違いしているが……ヴィータは感情によって爆発しやすく、しかし一定以上沸点を超えると、逆に冷静になる。
 そのことに気付いたのは本人でも最近の話である。今まで気付きもしなかったし、そんな場面に遭遇するのも稀だった。ヴィータ自身はあまり気乗りはしないが、「守るモンが増えちまったからだろうな」と認識している。守る対象が増えた。同じ守護騎士と、今までで一番優しくて、強くて暖かい、最高の主。他にも挙げればキリがない。管理局の業務に従事し始めてから知り合った局員の面々。近所に住まう老人会のじっちゃんばっちゃんたち。石田先生。アリサさんにすずかさん。どこかの口うるさいリーダーと同じバトルマニアのテスタロッサと、その家族。そして、

『それは、ただ逃げているだけで、言い訳だもん。……ん、だからね、私―――』

「…………お前は、なのはじゃねぇんだな」
 あいつじゃない。
 目の前の相手は、絶対に違う。
「ええ。私は、高町なのはではありません。間違いなく」
「じゃあ、なんで……」
 なぜお前は、
 あいつと、同じ言葉を使う。
「お答えできません」
「……まだ何も言ってねぇよ」
「大体想像できます。「なぜ同じ姿なのか」と問いたいんでしょう。飽きるほど訊かれました。ですが答えられません。教える気もありませんし……というか、あなたには絶対教えません」
「……」
 いちいち癇に障るとヴィータは思うが、言葉には出さなかった。ここで憤りを言葉にしたら話が先に進まない。だから一言ひと言を噛み砕き、吟味した。
 飽きるほど、訊かれた? 前にも、なのはに間違われたことがあるってことか? それならコイツ、まさか、
 今のこの姿が、標準……?
「……双子とかじゃねぇよな」
「バカ言わないでください。彼女の兄弟は兄と姉だけです」
 じゃあなんで、と言おうとして押し留めた。それは先ほど言いかけた質問と同じだ。それだとコイツは答えない。時間の無駄だ。だから、別の方面から質問を考える。
「……なんで非殺傷で撃った」
「? は?」
「とぼけんな。さっきの砲撃だ。……お前の目的は、はやてなんだろ。それなのに、何で」
 信じられないような、殺気塗れの視線。あまりに温度の低い、あいつとは比べようにならないほどの冷めた言葉。……それなのに、何でさっきは、非殺傷設定で撃ったのか。絶好の機会ではなかったか。自分以外のヴォルケンリッターを退け、自分も主から離れたというのに、なぜ。
「……その問いに答えるには、まずあなたに質問しないといけません」
 数秒の沈黙の後、紅い魔導師はそう言いながら、視線を尖らせた。……わずかに見せた、あの強烈な殺意だった。
「んだよ、質問って。……でも答えられるかは質問によるからな。それでいいなら、言ってみろ」
 その殺意に対抗するために、先ほどの紅い魔導師とほぼ同じような言葉をヴィータは使った。殺意抱いてんのはコッチも同じだと、そういう意味も込めて。だが『彼女』は、あっけないほど簡単に視線を緩めて、
「覚えてますか? この場面」
 わけのわからない質問を、口にした。
「……? なに?」
「この状況です。覚えていませんか」
「…………お前が何モンか知らねぇのに、覚えてるも何もねぇだろ。それ訊くなら自分の正体言ってから―――」
「1年前です。あの冬の話です。覚えてないなんて言わせません。何のために他の連中を黙らせたと思ってるんですか。何のために、私が結界を張ったと思ってるんです」
「……結界? ……1年前?」
 訝しげに呟くヴィータ。そんなことを訊かれても、身に覚えはなかった。
 1年前、だと? ……じゃあ本当にコイツは、1年前あたしたちがページ蒐集のために襲った、魔導師の1人だってのか? ウソだろ?
 こんな……近接戦も射撃戦も出鱈目な魔導師、倒した覚えなんて……。
「私が砲撃魔法を非殺傷設定にしたのは……さっきも少し言いましたが、八神はやてに現時点で死なれるのは不都合だからです。あなたたちヴォルケンリッターは、本体である闇の書を失っている今、その存在を支えているのは主からの魔力供給のはずです。それなら……殺せるはずないじゃないですか」
 ……? なに言ってんだ、コイツは。
「言ってる意味が不明確だ、って表情ですね。……ほんとに腹立たしいですね、あなたは。何のためにこんな手間掛けて準備したのか、まだわかりませんか」
 ため息混じりにそう漏らす紅い魔導師は、出来の悪い教え子でも見るような目つきでヴィータを睨んでいた。ヴィータにしてみれば理不尽極まりなく、だからこう答えた。
「わかんねぇもんはわかんねんだから訊いてんだよ。……大体お前、さっきから言ってること滅茶苦茶だぞ。はやてを殺すとか言っておきながら、今は死なれると不都合だとか何とか―――」
 その言葉を遮るように、紅い魔導師は何かを放り投げた。
 小さな瓶だった。慌ててヴィータが取ろうとするが、突然だったため指の隙間からすり抜けてしまう。眼下に……海鳴の駅に向かって、夜景を反射させながら落ちていく。
「な、なんだよ、今の」
「何故にキャッチできないんですか、あなたは……。まぁいいです。今の、即効性の毒薬です」
「―――!」
「あ、勘違いしないでください。あなたを殺そうとして投げたわけじゃありません。もともと持ち歩いているもので、緊急時の自殺用です。飲まないと効き目ありませんし」
「じ、自殺って、お前……」
「使ったことはありません。……話が脱線しましたね。とにかく、あれを使えば、八神はやてなんて簡単に殺せました」
「……な……」
「そうでしょう。水道に混ぜればビルにいた人間ごと殺せた。八神はやてのみを正確に狙うなら、高町なのはに成りすまして同席し、特定の食べ物や飲み物に混入させればいい。……いちいち戦わなくても、殺すだけならいつでもできました。でも私はしなかった。結界を張って、他の連中―――管理局の面子を引き離してまで、こんな舞台を用意したこと。……なぜか、わかりませんか?」
 戦慄が、ヴィータの背に走る。
 あまりに常軌を逸した発言だった。今の話を鵜呑みにすれば、目の前の相手は、
 いざとなれば毒薬で、あの中華料理店のあったビルの人間ごと、八神はやてを殺していたと……そう言っているのだ。
 何なんだ、おい。何でそうまでして、コイツ……。
 いや、それなら何で、
 その手段を、使わなかった……?
「簡単に八神はやてを殺してしまっては、私の気が晴れません。彼女を先に殺してしまっては、あなたたちが消えてしまう」
「―――まさか、おい、それじゃ―――」
 そこまで聞いて、ヴィータはやっと理解した。
 目の前の敵が、どれほど相手を……「自分たち」を、憎んでいるかということを。

「これは、あなたのために用意した舞台です。鉄鎚の騎士」

「あ……あたし……?」
「私の目的はただ1つ、八神はやての殺害です。でもそうしたら、あなたたちは魔力供給を失い消えてしまう。それじゃ困るんです。せめてあなたには、砲撃の1つも撃ち込んでやらないと……いえ、彼女の想いを少しでも体感してもらわないと、私が納得できないんですよ」
「……か、彼女? 一体、誰のこと―――」
「本当に覚えていないんですか? この状況。ああ、そう言えばあなた、彼女に謝罪すらしてなかったんでしたね。じゃあ……」
 言い淀むと、紅い魔導師は微かに身を沈めた。腰を落とし、左手に握るデバイスをくるくると回して、
「思い出させてあげます。体感させてあげます。どれほど心細かったか……。ブレイズ、モード、アックス3」
《Yes master. Mode “AXE3”》
 デバイスが、再び形状を変え始めた。
 本体である緑色の宝玉を守っていたフレームが音を立てて肥大化し、その周囲からは白い光が出現した。閃光からは銀色の部品が次々と吐き出され、磁力で絡められたかのように組み合わさっていく。ただ今までと違い……出現した追加装甲が本体と連結しなかった。何もない空間で、刃だけが重なっていく。現れたのは、
「…………冗談だろ、おい……」
 バカバカしいほど巨大な、両刃の斧だった。
 いつの間にか伸びていた杖は、先端に鎮座する本体を守るためか、周囲のフレームが堅牢さを増していた。だが異様なのは付随する刃。どういう仕組みなのか、本体と繋がっていない。銀色のフレームから一定の距離を保ったまま、2つの刃が何の支えもなく宙に浮かんでいる。
 さらに異様なのが、その浮遊する刃の大きさだ。
 杖……というより柄だが、それは所有者の背丈を超え3メートルはあり、そして刃も2メートルは超えていた。大きさだけで人の身体を上回っている。質量など想像もできない。柄に接続されていないのは、その重量を所有者に負荷させないための機構だろう。
 人間相手に使うような武装ではない。そもそも、変型機構が多すぎる。
 杖に長剣、2種の双剣、今度は斧。「AXE3」というのだから、1と2もあるのだろう。
 な、何なんだあのデバイス……!
「呆けている場合ですか? いきますよ」
 そう言い終わると同時、

 大質量のはずの刃が、圧倒的な速度で振り下ろされた。

「!?」
 紅い魔導師にしてみれば、3メートル弱の杖を振り回したに過ぎないのだろう。だが浮遊している巨大な刃も、その速度に寸分の遅れもなく従った。岩石でも斬り裂けそうな鉄の塊が、ヴィータに向かって迫る。
「あ、アイゼン!!」
 咄嗟に叫んでデバイスを掲げ、発生したバリアタイプの防壁が斧と接触した。
 1秒もかからず粉砕され、柄に衝突。
「――――――」
 叫び声も上げられず、ヴィータの小さな身体は地面に向かって吹き飛ばされた。だがここで不審に思ったのが、紅い魔導師のほうだ。
「? あれ」
 確かに敵を攻撃するための一撃だったが、倒すための一撃ではなく、そして手ごたえがない。衝突の感触はあったのに、相手のデバイスが粉砕された形跡がない。壊すつもりだったのに。
 高速で落下する相手を見つめ、すぐに思い至った。
『……なるほど。自分から下方に飛翔して衝撃を和らげたんですか。やりますね』
 思念を飛ばし、素直に驚きの念を伝える。お互いの距離はどんどん離れ、視認できなくなるころに、
 初めて、『彼女』は笑った。
 面白い、と感じたから。
 やっぱり最後に残して正解だったと思う。増殖と蛇には最初からさほど興味がなかった。魔剣士はもう少し苛めたかったが、砲撃の1発だけで墜落してしまったのだから仕方がない。仕方がなかったが……これでよかった。これで思う存分、鮮鉄と戦い合える。
 かつてのように。
 ―――あなただけは、私の手で倒します。ヴィータ―――。
『手間をかけた甲斐があります。……それじゃ、制限時間まで殺し合いましょうか』
 そう、この場は、この戦場は、
 あなたのために、用意したのだから。
 
 
「―――あの、ヤロウ……っ!」
 落下しながら、ヴィータは頭上を睨みつけていた。
 紅い魔導師の見立て通り、ヴィータは障壁が破壊された直後、下方へ向けて全速力で飛翔していた。まともに受けたのではデバイスすら粉砕されかねないと感じ、咄嗟に急降下したのだが……功を成した。デバイスは見る限り損傷はない。自分の身体も、腕も、ケガはない。まだやれる。まだ戦える。
 だが、どう戦う。
 相手はなのはではない。それはわかったが、問題はそこではなくなった。相手は、人間かどうかもあやしいほど強い。近接戦闘に優れ、射撃と砲撃も出鱈目な精度と威力で、所持するデバイスに至っては多種多様に変貌する。扱う魔法についても滅茶苦茶だ。射撃に傾向しているとも思うが広域魔法に優れているとも感じるし、砲撃を曲げた手法はどうやればそんな芸当ができるのか想像もできない。飛行魔法なんて―――あんな加速、人間が扱える領域じゃない。
 地面が近付いたため、ヴィータはわずかに降下速度を落とした。ビルの隙間を縫い、高度5メートル程度をキープしたまま駅前の大通りを飛行する。視界を下方に向ければ運転手の乗っていない車の列がずらりと並んでいる。人ひとり見当たらない。
「結界……1年前? ったく、何の話だってんだ……」
 先ほどの会話が妙に頭に引っ掛かる。蒐集対象を結界に閉じ込めたことはあったが、こちら側が結界に封じ込まれたような覚えはまるでない。こんな状況に陥ったことも、なかったはずだ。類似しているのは……闇の書暴走の根源だった、防衛プログラムを切り離したときの戦い。あの時と状況は、無理に照らし合わせれば似ていなくもない。結界の中。この街で。不意を突かれ、他の守護騎士たちが闇の書に呑まれ……。
 だが、あの時の戦いのことではないと、ヴィータは思う。
 状況は似ているかもしれないが、今のこの戦いとは結びつく要因がない。奇襲を仕掛けてきた相手、あの2人の使い魔は確かに強かったが……いま戦っている相手はさらに上の次元の敵だ。知り合いとも思えないし、第一あの戦いの経緯から、何をどう転べば「八神はやてを殺害」などという話になるのか。いろんな人に迷惑をかけたのは認める。恨まれる事柄があったのは事実だ。それでも……今のこの状況に結びつくような出来事ではなかった。そのはずだ。
 飛行しながら、頭上の敵を警戒しながら、そう考えを巡らすヴィータ。だがいくら考えても答えは出ず、
 考えている暇はなかった。
「―――っ!?」
 視界の先……夜空に輝く光の1つが、こちらに向かって急接近してきた。流れ星ではない。あの紅い防護服だ。
「ブレイズ、射出」
《All right!!》
 銀色の大斧を振りかぶった魔導師が、それでもまだ距離が離れているにも関わらず、ヴィータに向けて勢いよく振り下ろした。
 2つの斧の刃が、大気を斬り裂きながら落下。
「―――うおぁ!?」
 間一髪避けるも、膨大な質量の金属がすぐ側を通過したのだ。乱気流に呑まれてヴィータの小さな身体が姿勢制御を一瞬失う。視界の隅に映ったのは、アスファルトの地面を完膚なきまでに叩き潰す銀の巨刃。停車していた自動車が真っ二つにされていた。凶悪すぎる物理攻撃。慌てて態勢を立て直そうとし、
 背後に、わずかな着地音。
「ダブルナックル2」
《Mode “DOUBLE KNUCKLE2”》
 振り向いたときには、相手の槍のような蹴りが迫っていた。咄嗟にアイゼンの柄で防御するが、魔力付与で強化された脚力はヴィータの態勢を簡単に崩す。吹き飛ばされるのだけは持ちこたえたが、その間に銀杖の変形が始まってしまった。
 真中から折れ、両手に絡みつくデバイス。足りない部品が白光と共に出現し、肘から先を覆っていく。
 ……っざけんなよ、斧の次は……手甲!?
「障壁の展開を勧めます。あなたの技量だと、デバイスだけじゃ防げませんよ」
 言い終わると、相手は躊躇いなく踏み込んできた。あの蒼い炎による加速ではなく純粋な脚力での接近だったが、身を低くして……ヴィータの腰よりさらに低い位置まで屈んでの踏み込みは、一瞬消えたと錯覚するほどだ。相手の言葉に反応してではなく、ほぼ条件反射に近い形でヴィータは魔法障壁を展開していた。
 着弾。2つの拳による乱撃だ。
 時間にすれば一秒にも満たない。だが障壁に叩きこまれた拳が、果たして5発くらいだったのか、または二桁に到達したのか……それすらヴィータには判断できない。呆気ないほど簡単にバリアが粉砕され、
 斬撃のような回し蹴りが、デバイスに直撃した。
「ぐ―――あぁっ!!」
 膨大な衝撃に耐えきれず、今度こそヴィータの身体が吹き飛ばされた。飛行魔法による姿勢制御などする暇もなく、軽自動車のフロントガラスに背中から衝突する。それでも叩き込まれた運動量は抜けきらず、きりもみ状態で小さな身体がバウンドした。まるでサッカーボールだ。
 そこでやっと、
 戦闘を開始してから初めて、『彼女』が、
「少しだけ、力込めます。……いくよ、ヴィータちゃん」
 己が会得している魔法の『正体』を、垣間見せた。

 握る双方の拳に蒼い炎を纏わせ、腰を幾分落とし、
 足元に展開されたのは、蒼白い閃光で描かれる、
 ―――六角形の、魔法陣。
「フェイズ1、2をキャンセル。炎舞射式、武硬弾」
《Yes master!! Flame dance program type shooter, Drive ignition! Phase3―――Devil fang!!》

 銀色のデバイスが叫んだ通り、それは……悪魔の牙だったのかもしれない。駅前の長い大通りに並ぶ、動くこともない車の列。
 それを一瞬にして蹴散らし、粉砕し、破壊する蒼い弾丸。
 発射されたのは射撃でも砲撃でもない。―――『彼女』自身が弾丸となって突進し、全てを喰い破ったのだ。
 避けることもできず、ヴィータは正面から直撃を喰らった。蒼い炎に包まれながら、わずかに相手の顔を視認する。
 よく、知った人だった。
「なの、は……」
 手を伸ばすが、届かない。
 全身を焦がす熱と、圧倒的な衝撃に、
 意識が、霞む。
 
 
「………………が…………は……っ」
 かろうじて、そんな呻き声だけ発することができた。
 ヴィータにとって、それ以上行動するのは無理な話だった。バリアジャケットはほとんど焼き尽くされ、全身を強打し、指一本も動かすことができない。意識も朦朧としている。ぼやけた視界に映るのは……高く暗い天井で瞬く、数多の星々だけ。
 遥か遠い、夜の空だった。
 ……負けた。それも完璧なまでに。相手にはまともな一撃すら当てることができず、自分は今こうして……地に伏している。ただ不思議と、悔しさが感じられなかった。
 負けたのに。
 敗れたのに。
 それなのに、どうしてあたしは、こんなに落ち着いて……。
 数秒考え、しかし身体的ダメージのためか頭が回らず、代わりにヴィータの脳裏には、こんな答えが過った。
 そりゃ……勝てるわけねぇよ、な……。だってさ、相手は……。
「やっぱり、この程度ですか……」
 誰かの声。そちらに視線を向けようとして……できなかった。首が動かない上に、眼球を動かすことすらできない。
 だけど、そんなことする必要はなかった。
 声を掛けてきた人物が、こちらの視界に入ってきたからだ。ヴィータのことを、静かに見下ろしている。
 少し、不機嫌そうだった。
「なんで避けなかったんです」
「…………―――」
 ヴィータが応えようとするが……結局できなかった。
「回避不可能な攻撃だったのはわかります。そうあるべく攻撃したんですから。……でも微塵も避ける動作を行わないどころか、最後、あなた私に向かって手を伸ばしてましたよね。……どういうつもりです」
「―――……ァ……」
 今度は少しだけ声を出せたが、やはり喋るのは無理だった。頭の中で、こんなことを思う。
 というか、あたしの状況見れば話すことできないことくらいわかんだろう。なぜ話しかけてくるのだろうか、コイツは。
 それに……そんな質問はこちらがしたいくらいだ。最後……自分は、避けることができなかった。
 避けられなかった、わけではない。できなかったのだ。
「抽象的すぎです。もっと明確に説明してください」
「…………?」
 ヴィータの表情に、僅かに疑問が浮かぶ。何だろう、今、自分の考えが相手に伝わった気が……。
 ……いや、もうそんなこと考えること自体が面倒だ。理屈は知らないが、こちらの考えが勝手に伝わるならそれで都合いい。今は声を出すのも億劫だった。
 ……。

 避けちゃいけない気がしたんだ。
「は?」
 お前のことなんて知らねぇけど……こんなことすんの、なんか理由あんだろ? さっきの話からすると……あたしらに、ずいぶん恨みあるみたいだし。
「…………はい。ずっとあなたたちを……憎んできました」
 ……。だからさ、なんか、うまく言えねぇけど…………ああ、受け止めなきゃって、思って……。
「……え、」
 お前に……名前呼ばれたとき、そう感じた。……それだけだと思う。それ以上細かいことは、あたし自身もよくわからねぇって……。
「……。私と、あの人を重ね合わせたんですか……。わかっていたはずです。先ほども言いました。私は、高町なのはじゃありません」
 んなこたわかってんだよ。……わかってたけど、割りきれなかった。そんなとこだろ……。
「……」
 それに、さ。
「……?」
 無関係じゃねぇんだろ? お前と……なのは。
「………………。ええ。だからこんな舞台を用意したんです」
 どういう……意味だよ。
「まだ思い出せませんか? よく知っているはずです。この状況」
 ……。覚えがねぇよ。
「逆に考えれば、思い出せるはずです」
 …………? 逆?
「襲撃する側と襲撃される側、すべて逆にしてみてください。……覚えているはずです」
 ………………。
「突然の結界、不意の強襲、見慣れない魔法を扱う敵、理不尽な暴力の嵐、いくら話しても、相手は真意を語ってくれない……。そんな中、彼女は1人で戦い抜きました」
 …………あ……。
「1年前、彼女はどれほど心細かったと思いますか。味方はいない。何の準備もしていない。なぜ自分が襲撃されるかもわからない。それなのに彼女は、最後まで自分のデバイスを握り、最後まで諦めなかった。あなたに撃墜され、泣きたいほど心細くて、でも泣いたりはしなかった。……決して最後まで、泣かなかった。痛かったのに。心細かったのに」
 …………なんで……知って……。
「考えたこともなかったでしょう。あの人の性格上、後になって責めるなんてこと、するはずありませんしね。実際、謝罪しろだなんて言われたこと、ないはずです。…………でも、たとえ彼女があなたのことを責めなくても、あの出来事がなかったことになるわけじゃありません。どんな理由があったにせよ、あなたは彼女を……「高町なのは」を傷つけた」
 ……あ……あたし、は……。
「怖いですか? 心細いですか? そりゃそうでしょう。あなた以外の守護騎士は全員倒れた。結界のせいで外部から助けが来ることもない。私とあなたの力の差は歴然。あなたに勝ち目はありません。でも、あなたはまだマシです。彼女はもっと怖かったんです。もっと心細くて、もっと苦しかったんです。結果的に助けは来ましたが、彼女は増援が来てくれるなんて予想もしていなかった。あの人は結局のところ、独りで必死に、懸命に戦い抜いた。その時の孤独感は……負けた時の喪失感は、どれほどだったと思いますか」
 …………お前は……。
「だからこんな場面を準備したんです。八神はやてを殺すこと自体は容易い。でもその前に、どうしてもあなたには……この心細さを体感してほしかった。あの人は優しいから。絶対にあなたに謝罪の類を求めたりしないから。……だから私が代弁するんです」
 …………お前は、一体、誰なんだ……。
「……すごく、寂しかった。こんな場所で、何の理由もわからず、負けちゃうのかなって思うと…………辛かった。いっぱい魔法の練習、がんばってきたのに……。フェイトちゃんにまた会うその時まで、もっと強くなろうって思ってたのに……。こんなに、あっけなく……」
 ―――っ!?
「………………私、弱かったんだな……」
 ―――な……なのは! 違、違う!! あたし……あたしは―――。

 地に伏している相手に向かって、紅い魔導師が手を伸ばす。
 辺りは悲惨な状況だった。停車していた車はすべて吹き飛ばされ、大半は歩道に乗り上げていた。逆さまに吹き飛ばされているものもあれば、ビルの壁面にめり込んで原形を留めていないものまである。すべてに共通する事柄として、塗装は高温で焼き爛れていた。燃料に引火して、数台からは小さな爆音が轟く。だがもっとも破壊の痕跡が顕著なのは車道だろう。蒼い炎を纏った彼女が通過した道筋は、掘削機を使ったのではないかと思うほどアスファルトが剥げていた。もう道路と呼べる代物ではなくなっている。
 ―――武硬弾。
 『彼女』はこれを射撃魔法と位置付けているが、本質的には近接の格闘魔法に分類される。自らの拳を弾丸に見立てて突進していく荒技は、フェイズ3まで発動してしまえば直進を止められる人間などいない。過去には直撃を受けても耐え抜いた猛者もいるが、それは人間「以外」をカウントしての話だ。
 そして、手を伸ばした先で、何の力もなく倒れている鉄鎚の騎士は……耐えきることができなかった。『彼女』はボロボロになったその騎士の右手首を掴み、持ち上げる。
「……。糸の切れた操り人形みたいですね……」
 落胆したような溜め息を漏らしながら、そう声を掛ける。掛けられた方……ヴィータはしかし、何の反応も返せない。
 数秒前に、意識はもう途切れていた。
「まぁ、でも気は晴れました。少しはわかったでしょう。あの人があの日、どれくらい心細かったのか。……機会があれば謝罪することを勧めますけど……そんな機会、もう来ませんか」
 意識のないヴィータに向かって、それでも言葉を掛け続ける紅い魔導師は、少しだけ目を細めた。
 少し、寂しそうに。
「モード、クロー」
《Mode “CLAW”》
 形状変更の命令後、魔導師の右手を覆っていた手甲の一部が変形を始めた。手首より少し甲寄りの部分から5本の刃が伸びる。爪というよりは短剣のような、厚く幅のある刀身。鋸のように刃に棘があるのは、刺した後、切り口を更に傷めつけるための構造だ。
「もう少し……彼女の心細さを体感してもらうつもりでしたが、あなたの身体が限界のようですし、これで終わりにしてあげます。でも、これだけは覚えていて下さい」
 刃を生やした右手に、力が籠る。
「…………もっと、ずっと寂しかったんですよ。あの人が暗闇に落ちた時…………もっと、あなたなんかが想像もできないくらい……」
 『彼女』は、
 少しだけ、泣いていた。
「じゃあね、ヴィータ」
 そして、胸部めがけて刃を突きたてようとし、
 ピタリと、その拳が止まった。
「……。もう起きたんですか。意外に頑丈ですね」
 感心と驚きの意を言葉に乗せつつ、左手で握っていたヴィータの手首を離し、紅い魔導師は後方へ退いた。
 それを追って、小さな刃の群れが追走する。
 ―――ブラッディダガー。
 血色をした鋼の短剣の遠距離設置。意識のないヴィータを守るように出現したそれらが、一斉に牙を剥いた。
 だが、突然の攻撃に曝されても紅い魔導師は冷静だったらしい。目の前の攻撃は着弾時に炸裂する類のものであり、この距離で自身に当たれば瀕死状態のヴィータにもダメージがいく。それを避けるために弾速を最遅に設定、とにかく自分とヴィータとの距離をかせぐ狙いなのだろうと……一瞬でそこまで判断し、後退をやめた。
「ったく、ふざけてますね」
 そして腰を僅かに落とした後、今度は前に向かって短剣との間合いを詰めた。
 出現した刃は16本。最初に向かってきた3本を左の手甲で受け流し、さらに向かってきた9本のうち5本を銀爪で切り裂き、残り4本を弾き飛ばしてヴィータを守るために滞空していた4本にぶつけた。炸裂しなかったのは……おそらく最初の3本しか炸裂効果を付与していなかったのだろう。その3本が自動誘導の性能を発揮し、背後で向きを変えて再度こちらに向かってくるのを気配だけで感知、振り向き様に爪を一閃させる。
 切り裂いた途端、予想通りその3本だけが炸裂した。
 体積を二分された短剣は、その威力を充分発揮することができずに小規模な爆発しかしなかった。少し強めの花火程度で、灰色の煙が一瞬だけ視界を遮る。
 爆煙の先に向けて、視線を尖らせる。
「こんな弾速で、私をどうにかできると思ってるんですか。……寝起きで判断能力が鈍ってますよ」
「……あなたの注意をこちらに向けさせれば充分やから、これでええよ。……こっちも、こんな射撃でどうにかなると思ったわけやない」
 煙を膜に、2つの視線が交錯し、
 その煙が、段々と密度を無くしていく。
「……覚悟はいいですか、夜天の主」
「こっちのセリフや。……いくで、なのはちゃん」
 瓦礫と化した大通りを隔て、
 敵意が、衝突し始めていた。
 
 
 思考が幾分麻痺しているのは、はやて自身にもわかっている。
 この感覚には覚えがあった。これは……これで、3度目だ。
 ―――1度目は去年の冬。あの寒い夜のこと。
 目の前で、家族が闇に呑まれていく。大きな失望感と……自分でも驚くくらいに湧いて出てきた、悲しみ。
 そう、あの時も怒りなんて……憎しみなんて湧いてこなかった。気が遠くなるような、他のことなんて考えることができなくなるくらいの悲しみだけが、全身を締め付けていた。
 ―――2度目も、去年の冬。雪が積る、小高い公園で。
 5人目の家族が……銀色の髪をした風が、自分を危険に曝さないために、消えていったとき。何もできない自分がもどかしかった。もっと話したいこと、いっぱいあったのに。もっとしてあげたいこと、いっぱいあったのに。
 ―――だけど3度目は、今回だけは、悲しみ以外の感情がある。
 憎しみや怒りではない。それはどうしても出てこなかった。代わりに胸を焦がすのは……勝たなければならないという、渇望に似たもの。
 どうしても勝たなければいけない。目の前の相手に、どうしても。
 自分は、四人の守護騎士の……自分を守ってくれた騎士たちの、主なのだから。
「……ヴィータから離れて。もう充分やろ」
 杖の切っ先を相手に向ける。相手は無反応だったが、
 数秒の後、ゆっくりと歩き出して……地に伏すヴィータから離れた。
「ブレイズ。モード、ロッド1」
《Yes master. Mode “ROD1”》
 歩きながら、相手は己がデバイスに命令を下す。手甲が解け、ガリガリと音を立てながら……形状が一本の長杖へと変貌していく。
「すごいな、あなたのデバイス。……ブレイズっていうんか」
「……いえ。愛称みたいなものです」
 変形を終えた杖を左手で掲げ、切っ先をはやてに向ける紅い魔導師。その表情は、最初の時と同じように、何の感情も乗せられていない。
 瞳だけが、敵意を示していた。
「……ヴィータのこと、そんなに憎いんか、あなたは」
「ええ。……いえ、ヴィータだけじゃありません。剣の騎士も同程度、憎しみを抱いていましたが……砲撃の一発で墜ちてしまいましたし、仕方ないでしょう」
「……。砲撃に耐えてたら、どうするつもりやったんや……」
「そこで倒れてる鉄鎚の騎士と同じように、苛め倒す予定でした。でもそれは必要な工程ではありません。気は晴れませんが、いま重要なのはあなたの命です」
「―――」
「あなたの息の根を止めれば、ヴォルケンリッターは……闇の書の騎士たちは存在を保てない。これで全部、終わる」
「……」
「……」
 その後数秒、お互い言葉を発しないまま、沈黙が続く。鋭い目線のみが交錯し、
 先に沈黙を破ったのは、はやてだった。
「あなたは、なのはちゃんじゃ、ないんやね……」
「ええ。彼女は今、アースラと共に別の世界にいます。こちらに戻ってくるためには、私が設置した機器をどうにかしなければなりませんが……どうがんばっても120時間以上は必要になります」
「……無事なんか、なのはちゃんは」
「はい。魔力にダメージを与えましたが、それも充分な睡眠を取れば、2日前後で治るはずです」
「……。そか……」
「下手に気を使うの、やめてください」
「……え」
「私に訊きたいことがあるんでしょう。……ヴォルケンリッターには話す気もありませんでしたが、あなたは事情が違います」
「……。どういう、意味……」
「私の憎しみの対象はあの守護騎士たちであって、あなた自身にはさほど嫌悪感を抱いていません。少しだけ、気に喰わない部分もありますけどね。……それに、心残りがあれば戦い難いでしょう、あなただって」
「……」
「だから、訊かれれば答えます。質問によりますし、それと……あまり時間も残ってないので、応えられる範囲は限定されてしまいますが」
 気付いた時には、なぜか紅い魔導師の瞳から、敵意が消えていた。
 その瞳を見つめながら、はやては考える。考えながら、やはりその姿を、親友と重ねてしまう。
 あの子と、やっぱり同じや……。
 戦っている相手にすら、手を伸ばそうとしてる……。
「…………2つだけ、質問させて」
「……。どうぞ」
 考えて、出てきた疑問はただの2つ。もっと考えればたくさん出てくるとは思うが、今はこれしか思い浮かばなかった。
「あなたの、目的……。みんなに……騎士たちにこんな酷い仕打ちをして、それでも足りなくて、私を殺して存在を消そうとまで、考えてる……。それほどみんなを憎んでいる理由……何なんや……?」
 自分たちは1年前、多くの人に迷惑をかけた。憎まれることがあっても当然だろう。非難されても言い訳できる立場にはない。それは重々承知している。
 だけど、目の前の相手から感じる、その憎しみは……怒りは、別のものに向けられている気がする。はやてはそう感じていた。
「魔剣士も同様の質問をして、そして答えたはずです。3割くらいは復讐だと」
「…………。残りの、7割は……?」
「……」
 そう問いかけた後、紅い魔導師の視線が逸れた。下を向き、何か考えるように目を閉じ、
 再び開かれた瞳は、だけどはやてのほうを向かなかった。
 意外な答えだけが、返ってきた。
「……母さんのためです」
「………………え?」
「それ以上は答えられません。もう1つの質問は何ですか」
「……」
 有無を言わせぬ口調と共に、紅い魔導師の瞳がはやてを射抜いた。それではやても悟ってしまう。それ以上、この子は応えないだろうと。
 だから、わき上がった疑問を棚上げし、もう1つの質問を口にした。
「……名前、訊いてもええかな……」
「―――」
 自分の2人の親友は、お互いの名前を呼び合うことで、全てを始められたという。
 そんな芸当が自分にもできるだなんて傲慢な考えは抱いていない。あの2人だからこそ……あの2人だったからこその、それはどんな魔法より強い奇跡となった。自分にはそんな力はない。それはわかっている。それでも、そこから何かが始まるのなら。何かがわかるのならば。
 いや、それ以上に確証が持ちたいのだと、はやては思う。
 目の前の子は、自分の友人……高町なのはではない。それは本人も明言した。だけど心の奥底で、それを拒絶している自分がいる。これほどの相違点があるのに。形は同じだけど色の異なる防護服。圧倒的な変形機構を持つデバイス。絶大な威力を誇る魔法。自分の家族に向けられる憎しみ。それを伝えてくる言葉。
 だけど、どうしても重ねてしまう。だから確証が持ちたかった。あなたは、高町なのはではないと。別の誰かであると。
 だが、
「―――……ありません」
「…………。え?」
 あまりに予想外で、あり得ない回答が返ってきた。
「私に名前はありません」
「…………え……は? ……な、名前が……ない……?」
「母さんに、名を付けてもらっていません。私には、名前というものが存在しません」
「―――」
 そんなこと、あり得るのだろうか。
 名前のない……名無しの、魔導師。いや、魔導師云々という話やない。名前のない人なんて、そんな……。
「幾度も、その質問をされました」
「……?」
「新しい土地へ行くと、必ず訊かれます。そして、答えはいつも同じです。「好きに名付けてください」。その土地にいる間はその名で通しています。……でも単一の名称をいつまでも名乗った例はありません。親から貰った名でない以上、それは仮名称であって、名前じゃありませんから」
「―――」
 絶句するしかなかった。
 名前を……自分を、自分だと確証できる唯一の称号。それを持たずに歩む人生なんて、想像もできない。
 この子……。
 ホントに……何者や……。
「でも、これは初めての経験です」
 そして、ふと寒気を感じた。
 ―――紅い魔導師の瞳に、再び敵意が籠っていた。
「幾度もその質問をされたのに……。その問いに対して、これだけ腹立たしく思ったのは初めてです」
「…………え、」
「誰のせいで……」
 そして、敵意が溢れた。

「あなたたちのせいで……私は、名前を貰えなかったのに……」

「―――わたしたち、が……?」
「……返せ」
 それは、初めての現象だった。表情の少ない少女が、冷静だった魔導師が見せる、初めての感情の乗った表情。
 剥き出しの、あまりに熱い怒気だった。
「ま、待って! い、いったいどういう―――」
「全部、返してもらいます。あなたたちが奪ってきたもの、全てを。―――私の名前も」
 そして開始されたのは、
 想像を絶する、破壊の嵐。
 
 
 紅い魔導師は左手に握っていた長杖を頭上で数度回転させた後、ガスッと音を立てて、アスファルトの剥がれた大地に突き刺した。途端にはやての周囲に、蒼い球体が発生する。
 直径2メートルはあるかという巨大な魔力の塊が、20以上。
《Blue earth》
「モード、ヘヴィソード2」
《Yes master. Mode “HEAVY SWORD2”》
 紅い魔導師が下す命令はデバイスに変形を指示するもの。しかし異変は、その銀杖よりも先に、辺りに出現した球体のほうが速かった。
 半透明の球体の中央に、輝きが集束する。
 ―――! 炸裂する!
「羽搏たけ! スレイプニール!!」
 詠唱と同時、はやての騎士甲冑の背に付随していた3対の翼が羽ばたき、一気に急上昇をかける。だが遅かった。
 高度5メートル付近まで上昇できたものの、爆炎のほうが速かった。炸裂した蒼い炎が鉄屑と成り下がっていた自動車を、街路樹を、周囲のビルまでも、爆発の衝撃で吹き飛ばす。
「く―――あぁっ!」
 それでも、少しでも上昇したのがよかったのだろう。爆風に吹き飛ばされつつも、はやては炎熱の衝撃波から逃れられた。すぐさま空中で態勢を立て直し、爆心地を振り返る。根元を吹き飛ばされた建物が、飲みこまれるように炎に没していく。
 頭のどこかで冷静だった思考が、その爆心地にいたであろう人のことを思い出させた。
「―――っ、ヴィータぁ!!」
 叫び、踵を返そうと浮力に変更をかけ、それより前に攻撃が来た。
 炎と煙の中から、紅い魔導師が飛び出してきたのだ。
 その手に握るのは……あまりに巨大な、鋼の大剣。
「っ、パンツァーシルト!!」
 咄嗟にシールドを前面に展開。三角形の魔法陣が編まれた直後、大質量の斬撃が衝突した。
 目が眩むほどの、閃光。
「ぐぁっ!?」
「アクセル」
《All right!!》
 喜々として答えるデバイスが、文字通り火を噴く。
 剣の峰から蒼い炎が噴射されていた。構造的にはヴィータのデバイスの第二形態と同じだ。ただでさえ重かった斬撃は、加速を得て障壁に食い込む。
 魔法陣が、ガラス細工のように砕け散った。
 そ―――そんな、シールドタイプの魔法障壁が!?
「モード、ロッド2」
《Mode “ROD2”》
 再び下される変形指示。しかし形状が組み換わる前に、無防備になったはやてに向かって蹴刀が飛び込んできた。杖の柄に直撃する。
「うあぁ!!」
 何の魔法防御もできなかったはやての身体が、いとも簡単に吹き飛ばされた。杖を手放さなかったのは純粋に運がよかっただけ。どうにか再び飛行魔法を調整し、姿勢制御を行って衝撃を無くす。
 視界の先では、まだ銀色のデバイスは変形を終えないでいた。
 あの、子……前もってデバイスに変形を命じることで、モードチェンジの時間を稼いでるんか? す、隙が無い……っ!
 そして、おかしなものをはやては見た。紅い魔導師がデバイスを握っているのは左手。空いている右手は、なぜか黒いリボンで纏められている頭髪に指を差し込んでいたのだ。その指はすぐさま抜き出され、横一線に振るわれる。
 視界に、何か黒い線が、
 ――――――! 糸!!
「スレイプニール!!」
 2度目の加速。後方斜め上に向かって全速力で後退し、自身が一瞬前までいた空間を、何かが通り過ぎていった。
 や、やっぱり糸や! ザフィーラを倒したときの、あの黒い糸!
「想像していたより空戦に慣れてますね……。でも経験不足ですよ」
 そう紅い魔導師は呟くと、右手の指をペン回しでもするかのように動かした。
 途端に、はやての近くで小さな音がした。何かが擦れるような、わずかな音色。
「っ!」
 あり得ないことが起こった。

 飛翔する自分と同じ高さにあるビルの窓が、
 一斉に、砕け散る。

「あなたを狙っての攻撃だと思いましたか? まさか。閉所でもないのに、そんな無駄なことしません」
「え、な、」
 窓ガラスが割れたビルを見る。
 何かの騙し絵のように、ビルが『上側』だけ傾いた。
 まさか―――ビルを、切断した!?
「あなたの得意技は広域の攻撃魔法。でも詠唱に時間が掛かる。……それくらい、知ってます」
 そして、あり得ない事態はさらに起こった。切断されたビルの上側だけが、何かに引っ張られるように……はやてに向かってきたのだ。かなりの速度で。
「な、な―――」
 大質量の建造物が、突然の加速で軋みを上げる。建築時に「動くこと」など想定されていないのだから、崩れて当然だろう。壁面にはクモの巣状に亀裂が入り、発生した歪みがすべての窓ガラスを粉砕する。末端からバラバラと崩れ落ちるが……体積が大きすぎだ。大半の質量を残したまま、計7つのコンクリの塊がはやてに向かって速度を上げる。逃げ場は、ない。
「――――――っ、ぱ、パンツァーガイスト!」 
 砲撃で迎え撃つにも詠唱時間が足りない。他の射撃ではこんな大質量を破壊し尽くすことなんてできない。そう判断し、結局はやてが選んだのは防御だった。バリアタイプの障壁を展開し、全方向からの攻撃に備えようとする。だが、
 い、いやダメや! こんな質量、それに速度! 耐えられるわけない!! でも、囲まれて―――。
 そこまで考えて、やはり判断ミスだった。
 目の前まで、ビルは迫っていた。
「―――――――――それ、なら!!」
 はやてが、叫ぶ。

「羽搏たけぇ!! スレイプニール!!!」

 3度目の急加速。
 バリアタイプの防御魔法、パンツァーガイストは解いていない。全方向をカバーしたまま、目の前から迫るビルの1つに自分から突っ込んだ。わずかに割れ残っていた窓ガラスを突き破り、中へ。
 そのビルは何かの事務所だったらしい。大きな灰色の机がいくつも並び、だが次の瞬間には机が浮いた。ビルとビルとが衝突して、部屋にあったもの全てが狭い部屋でバウンドする。
「―――ああぁ!!」
 それら全てを無視し、幾分も速度を落とさないまま直進する。目指すは反対側の窓。崩れる前に脱出する気なのだ。鉄の机が、大きなPC用のデェスプレイが、ロッカーが、高そうなソファーが、何もかもがはやての障壁に衝突する。避ける暇も余裕もない。みるみるうちに飛び込んだフロアが狭くなる。天井が崩れてきていた。
 間に合え、間に合え! もっと、もっと速く!!
 祈るように、暗示するように、自らの身体を加速させる。目の前の窓の冊子が重さに負けて拉げ、脱出しようとしていた隙間が狭くなる。わずかな隙間の向こう、
 夜空が、
「―――――――――!!!」
 そして、

 はやての小さな身体が、ビルから飛び出した。

「―――! やった!」
 背後から轟音が轟く。いつの間にか閉じてしまっていた目を開けて背後を振り向き、状況を確認する。
 7つのビルは、全て衝突していた。
 発生していた浮力が消えたためか、瓦礫の塊となったコンクリの山は重力に掴まって落下を開始。莫大な量の粉塵が巻き上がり、落下物の振動が街を揺さぶり、近くにあったビルまでもが振動だけで倒壊を始めた。もう滅茶苦茶だ。
「…………はぁ…………は…………はぁ……は、はは……や、やった……」
 緊張していたためだろう。今になってやっとはやての肺が動き出した。溜め息のように呼吸し、なぜか笑いが込み上げてくる。全力疾走の後のように身体が酸素を欲し、疲労感の中、ああ、走馬灯ってこういうときに見るもんなんやね、などとおかしなことを考えていた。だって、ビルへ突入してから脱出するまでに要した時間は10秒なかったはずだ。それなのに長く感じた。たぶん記憶を辿れば、障壁で弾き飛ばした机の数だって数えられるくらいに。そして自分はまだ無事だ。笑いだって込み上げてくる。
 だが、
 次の瞬間、息を忘れるほど絶句した。
「―――待ってや……。冗談やろ……」
 破壊の嵐は、まだ終わらない。

 粉塵を上げる、7つのビルの落下地点。
 それを中心にして、無事だったビルの幾つかが浮上を始めていた。

「………………それ……反則……」
 驚きつつも、数える。星空浮かぶ海鳴市の夜空を背景に、計16個のビルが浮遊していた。
 この世の光景ではない。
 なん……なんなんや、一体……。い、糸でビルを切断するだけでも異常なのに……。ビルを、浮かす……? これ、どんな魔法や……。
『すごいですね。突破されるとは思っていませんでした』
「!」
 突然、はやての脳裏に紅い魔導師の声が響いた。思念通話だ。
『…………。こっちの、セリフや……。すごい……ってか、なんなん、それ。ビルを浮かす魔法なんて、聞いたこともないんやけど』
 やけくそ気味に思念を返す。だがはやての思考は、次の対処を検討し始めていた。
 あ、あかん……。今の距離なら砲撃も間に合う思うけど、数が多すぎる……。
『スターダストフォール』
『え?』
『こういう物質操作型の魔法はいくつかありますが、あなたの知っている魔法ではそれが代表例でしょう。……まぁ、いま使っているのはまったくの別物ですけど』
『……』
 ―――スターダストフォール。
 はやての友人が扱う魔法だ。周囲にある小石……大きいものなら1メートル弱の岩石を一点に、もしくは広範囲に向けて射出する物質加速型の射撃魔法。
 だが、いま目の前で浮遊しているものは小石などという質量ではない。先ほど襲いかかってきたビルの飛翔速度だって、こちらの飛行速度と大して変わらなかった。
 魔法という技術の練度が、違いすぎる。
『訊くのもどうかと思うんやけど……一応、訊かせて……。あなた、絶対Sランクやろ……』
『失礼な。SSです』
『うぁ……』
 乾いた思念が漏れてしまう。もう笑うしかない。
 ランクSS(ダブルエス)。自分よりも上位。
『あなたは確か、広域Sランクでしたか……。じゃあ少し、範囲を広げた方がいいですね』
 そうはやてに思念が伝わった後、

 浮遊するビル群が、一斉に速度を得た。

 真っ直ぐ向かってくるのは少数だった。ぐるぐると回転しつつ、カーブを描いて接近してくる。
「くっ……!」
 砲撃で迎撃するという手段は失われてしまった。仮にいくつか迎撃しても、発射後の硬直状態中に別のビルが突っ込んでくるのは目に見えている。それも、いくつかのビルは地面にバウンドした後、瓦礫すら引き連れて大きさを増加していた。磁力に引っ張られるように、雪だるまのように、街を破壊しながらコンクリの遅弾は数と質量を増していく。
 ほ、ホントに物質加速型やない! な、なんやあれ!?
 はやてが戦慄を抱く間も破壊は止まない。浮遊するビルがバウンドする度に、轟音が街を揺さぶる間に、コンクリの弾丸が……いや、津波は巨大になっていく。
 街全体が、押し寄せてきていた。
「…………こらアカンわ、ホント」
 笑いは、諦めに似た溜め息に変わってしまった。
 相手の攻撃手段がどういったものかもわからない。回避手段など想像もできない。迎撃の手段も封じられ、そして考える時間も残り少ない。
 だけど、
「……ホントに…………ダメや……」
 勝たなければいけない。
 自分の四人の家族は……四人の守護騎士は最後まで自分を守ってくれた。これほどの強敵と戦闘を始めて、どれほど時間が経ったかわからないが……自分はまだ傷らしい傷を負っていない。それなら、その想いに応えないで、なにが「主」だ。
「本当に…………これしか、手がないなんて! でも!! オンナは度胸や!!」
 背に……黒い3対の翼に魔力を込める。それと同時に砲撃魔法の詠唱開始。
「いくで! 名無しの魔法使いさん!!」
 叫ぶと同時、
 これで4度目になる、大加速を開始した。
 はやてが選んだのは迎撃でも防御でも、さらには回避でもない。先ほどと同様、真正面からの突破だった。自身の周りにバリアタイプの障壁を展開、コンクリの津波に―――飛び込んだ。
「ぐっ―――あぁあ!」
 相対速度がかなりあったためだろう、接触と同時に防壁が軋む。だが構っている余裕はない。残りの魔力はチャージしている砲撃のために杖へ送り、障壁への魔力は最小限にカットする。耐えられるかどうかは博打だが、それ以上防御に魔力を割く気はない。全て、この一撃にかけるしかない。
 相手の技量が上なら、長期戦はジリ貧や! ダメージ覚悟で、一撃で決めな!
 はやての握るシュベルトクロイツに少しずつ、だが着実に魔力が蓄えられていく。フィールド形成や発射準備には少なくても3秒以上は必要であり、相手は接近戦の手慣れ。この選択は間違いかもしれない。だが……これしかないのだ。
 あの魔導師にダメージを与えられるとすれば―――勝てるとすれば、これしかない。障壁で身を守りながら接敵し、近距離から高威力の砲撃魔法を叩き込む。
 魔力が溜まる間も、障壁にはありとあらゆるものが衝突する。コンクリは言うに及ばず、街路樹、ガードレール、看板、自動車の断片、細かな物まで挙げればキリがない。粉塵が視界を遮り、落下する建造物が轟音を響かせ、
 そう、
 五感の内、二つが阻害された状態だ。

「判断ミスですよ、それ」

 『彼女』は、隙を逃さなかった。
「―――!!?」
 轟音の中でも聞こえた声は、はやての背後からだった。視線を後ろに向ける。
 大きな瓦礫の後ろに、『彼女』は身を隠していた。
 な……最初、から……。
 そこからは、スローモーションだった。時間にしてみれば1秒にも満たなかったであろう。それでも、はやてには時間の流れが遅く感じた。
 本物の、走馬灯だ。

 はやての行動を、先読みしていたのであろう。迎撃も回避も防御も無意味であれば、ダメージ覚悟で突撃してくる。そう読んでおかなければ、そこにいること自体がおかしい。
 背後を取った紅い魔導師は、腰を低く屈め、身体を捻り……掬い上げるような、左の手刀を放っていた。
 この状況で、手刀? いや、確かに防御魔法は間に合わへんけど、何で、
 疑問に思いつつも、はやて自身は何もできない。意識は付いていけても、身体が付いていかないのだ。その手刀が当たる直前、
 確かに、耳にした。
「菊龍角」
《Royal blade, Type dragon!!!》
 紅い魔導師の手首より、蒼い魔力が放出される。
 長い刀身の、魔力刃だった。
 ―――うわ、ダメや……。
 そう思いつつ、だけど緩慢とした時間の中では口すら動かない。回避もできず、
 刃が、左腰から右肩へ、滑る。
 
 
 
「……ぁ…………ぅう……」
 身を捩りながら、はやての喉からはそんな声が勝手に漏れた。
 どうやら気絶していたらしい。何とか身体を起こそうにも、力が入らない。
 地面に付いた手から、激しい震動が伝わった。視界を少し横に向ければ、瓦礫の雨が地面を叩いている。先ほどのコンクリの津波だろう。気を失っていたのが数秒であったことの証だ。
「丈夫ですね、そのジャケット。でもこれで…………勝負あり、です」
 さほど離れていない場所から、よく知った、それでいて聞き覚えのない口調の声がした。首だけを何とか動かして、その声の主を見る。
 岩の雨を背に、紅い魔導師が立っていた。
 浮力を失って落下する瓦礫は、街の全てを壊していく。車も、道路も、建物も。衝撃で膨大な量の粉塵が巻き上がり、原形を留めない鉄屑が宙に舞い、だが例外として……『彼女』だけは破壊の豪雨の影響を受けていなかった。コンクリの瓦礫も、鉄屑も、粉塵すらも『彼女』を避けていく。その様子を見て、はやてが小さく言葉を漏らした。
「…………悪魔、か……」
 かつて、ヴィータがなのはを見て、そう漏らしたことがあるらしい。後になってその話を聞いた時は、「何でなのはちゃんみたいな子を捕まえて、そんな表現が……」と思っていたが、考えを改めないといけないと、はやては思う。
 人智を超えるモノを目の前にしたとき、畏怖の念から、そう言葉が漏れてしまうのだろう。
 目の前の少女は……たまに読むSF小説でいうのなら、悪魔か―――それでないなら破壊神の類だ。
「……。随分な評価の仕方ですね。もっと柔らかい表現だってあるでしょうに……」
 紅い魔導師が、どこか不満げに小さく呟く。はやての愚痴が聞こえていたらしい。背後ではやっと、瓦礫の雨が止み始めた。
 街が、見慣れていた光景全てが、破壊し尽くされていた。
「適切な…………表現やと……思うけど、なぁ……。街……こんなに……壊して……」
「結界を解けば元に戻ります。……というか、この程度でそんな評価をされるのは不本意です」
「…………。もしか、して……これ…………あなたの……全力や、ないとか……?」
「……当たり前でしょう。あなたたち弱すぎなんですから、全力出そうにも出せません。……それに私、魔剣士にも少し言いましたけど、戦闘での得意分野は今のとは別ものです」
「…………は、は………………ったく……。やっぱ……適切な、表現やと思う、な……」
 身体中が激痛で悲鳴を上げる中、はやては切れ切れの言葉でそう笑う。笑うしかない。
 右肩から腹部にかけて、焼き鏝でも巻かれてるのではないかと思うくらい熱を帯びていた。視線を向けてみれば、騎士甲冑の装甲がボロボロに焼き爛れている。黒く炭化して煙を上げている個所まである。
 一瞬の出来事だった。何の回避もできず、攻撃を貰ってしまった。
 あれは魔力刃だったと、はやては思う。でも騎士甲冑は斬り裂かれたではなく「焼かれていた」。友人たちがよく使う魔力刃とは別物なのだろう。形状も、少しおかしかった。
 まるで「霧」のようだった。
 放出された魔力が刃として固定されていなかったのだ。物質への干渉の仕方も、おそらく友人たちとは異なるはずだ。見たことも聞いたこともない技法である。
「ミッド式でも……ベルカ式でも、ない……。はは……ホントにあなた……何者や……」
 魔法の術式は未知のもの。その威力は絶大。それもこれで全力ではないというのなら、笑うしかないだろう。
 勝たなければいけなかったのに。
 もう、立ち上がる力すら残っていない。
「……? ああ、ロイヤルですか。一応ミッド式なんですけどね。見慣れないでしょうけど。……ブレイズ、ロッド1」
《Yes master. Mode “ROD1”》
 ガリガリと音を立てて、銀色のデバイスが変形していく。それを見て、はやてに驚きの表情が浮かんだ。変形し始めるデバイスではなく、
「な……それ―――」
 その直前の光景に、目を奪われた。
 ロッド1という形状になる前の姿。ロッド2。その短い杖は、
「――――――レイジング……ハート!」
 高町なのはの所有するデバイス……レイジングハートの基本形状と、あまりに酷似していた。
 色彩はまるで異なるが、確かに同じだった。本体を守るフレームも、そこから延びる柄の形状も。もう変形し始めて別の姿と化しているが、大きさも同じくらいだった筈だ。
「違います」
「…………え?」
「私のデバイスは、高町なのはの持っているデバイス、レイジングハートではありません。……彼女の名前は―――」
《待ってくださいマスター。……そんな輩に、私の名を教える必要なんてありませんよ。それより一刻も早く息の根止めてしまいましょう。不愉快極まります》
 突然、銀色のデバイスが話に割り込んできた。
 その頃には形状は完全に安定していた。長尺の杖。遠目だと真っ直ぐな柄は、しかし所々で幾分曲っている部分が見て取れる不思議な構造だ。本体を覆うフレームは棘のような突起がいくつもあり、どこか攻撃的な印象を持っている。色彩はすべて銀色。唯一、本体部分の宝石が深い緑色に輝いていた。
 確かに、これだけ見るとレイジングハートには見えない。剣の切っ先が並んだようなフレームが物騒で、どちらかといえばアームドデバイスに近いだろう。
 だけどはやては、確かに見た。
 カートリッジは無かったが、三日月を想わせる弧型のフレームを。
 一体……ほんとに、どうなってるんや……。
「……なんで不機嫌なの、ブレイズ」
 疑問だらけのはやてを見ず、紅い魔導師は自分の持っているデバイスに目を向けていた。少しだけ、不審そうな表情で。
《先ほどのマスターと同じです。ここまで弱いと本当に、腹立たしいというか呆れるというか……。とにかくムカつきます。塵も残さず吹き飛ばして終わりにしましょう。レムナントの処理を自動制御へ切り替えます。残量確認。フィールド展開開始。シャ―――》
「わ、ちょ、こら! 勝手に切り替えないで! というか何唱えてるの!」
 突然、紅い魔導師が大きな声を発した。先程とは別の意味で、はやてが驚く。
 この少女がこれだけ大きな声を発したのを、初めて聞いたからだ。
《―――なにって、決まってるでしょう。あいつ吹き飛ばすんです。肉片残さないようにするなら最大出力で》
「だ、だから勝手なことしたらダメだって! あーもうこうなったら……」
《へ……? 待っ、な、何してるんですかマスター……ってちょっと!? だめですそこはダメってあああ!?》
 はやての目の前で突如紅い魔導師と銀色のデバイスが言い争いを始めたかと思うと、魔導師のほうがデバイスのフレームを弄り始めた。装甲の一部を取り外して指を突っ込んだ後、何かをすごい勢いで取り外す。ふーっと安堵の溜め息を漏らす少女は、何やら数秒前の殺伐とした雰囲気とは別人だった。
 …………? 痴話ゲンカ……?
《うわぁ! ま、マスターひどいです!! 返して下さいよそれ処理がどうこう以前に―――……あれ、熱量が……? 熱っ! 待ってホントに熱い!! 焦げちゃいます焦げちゃいます何ですかこれ何外したんですかマスター!!?》
「ラジエーターの一部」
《ラ!!? ま、真面目に何してんですか!? ほ、ホントにお願いです返して下さいそれはやく入れ直して熱い熱いです焦げるっていうか焼き切れちゃいますよ!! 私いま何の処理してたと思ってるんですか!!?》
「わかってるから抜いたの。はやく中断しないと破裂するよ」
《わかっててやったんですか!? というか破裂って殺す気ですかあなたは!?》
「は・や・く、中断するっ」
《は、はいわかりました中断しますしましたコレ処理のログです! は、はやくしてください熱いですすいませんでした助けて下さいごめんなさいマスター!!》
「……もうしない?」
《しません! 誓います!》
「……。何度か聞いたセリフ……」
《今度こそ本当です誓いますウソつきません!! だ、だから許してお願いです許してくださいマスター!!》
「…………。ん……」
 渋々といった感じで、紅い魔導師がまた銀色のフレームに指を突っ込む。何かを接続した後、カチリと音を立てて外した外装を元に戻した。
「H0355の基盤に魔力供給しないで、1番アンカーの発射シークエンスを動かしてみて。モードシートへ移行するときの初期動作がミストリガーされて、設定が元に戻るから」
《は、はい! …………ああ……収まってく……》
 なにやら恍惚としたような声を漏らしながら、ガスッ、ガスッと銀色のフレームが蒼い炎を小さく放出している。紅い魔導師はその杖をぐるりと一回転させた後、はやてを見て、
「……ごめんなさい……。なんか、場の雰囲気壊しちゃったみたいで……」
「ああ……いや、その、別に……」
 何と言っていいかわからず、適当に言葉を濁すはやて。ただ、少し意外だった。
 この子……。
 素は……いい子なんかな……。
「ふぅ」
 溜め息を1つだけ付くと、魔導師はデバイスを頭上に掲げた。くるくると何度か回転させた後、ガキっと音を立てて地面に突き刺す。
 それだけで、少女の雰囲気は元に戻っていた。
「話を戻しましょう。……もう立ち上がる力も残っていないようですが……何か言い残すこと、ありますか」
 無表情な顔に、敵意の眼差し。友人と同じ顔なのに、それを見るだけで寒気がした。
 いや、友人と同じ顔だからこそ寒気がするのだろう。彼女は、こんな顔をしないはずだから。
「………………」
 数秒の沈黙。だけどはやては、ありったけの力を、
「……くっ……」
 自分の足腰と、杖を握る両腕に込めた。
 治療が進んでいるといっても、まだ自力ではうまく立てない脚。飛行魔法で身体に浮力を加えれば別だが、もうまともな魔力は残っていない。砲撃魔法に使うためだった魔力も、先の一撃を貰った時に霧散している。体力だって、身体の痛みが邪魔でうまく出ない。
 それでも歯を食いしばって、シュベルトクロイツで上半身を支えながら、
 自力で、立ち上がった。
「………………ない、よ……。言い残す言葉、なんて……ない」
 身体が悲鳴を上げている。
 痛すぎて、涙が出そう。
 だけど泣かない。泣けない。諦めるわけにはいかない。

『ごめん、はやて。あたし、守護騎士失格かもしんない。…………でもさ……必ず、守るから』

「……。負けへんから……」
 自分は何だ。
 あの子たちの主だ。
 そして―――家族だ。
 守ってもらった。今も、今までも、ずっと守ってもらっていた。孤独から解放してくれた、この世で最も大切な人たち。そして……彼ら以外にも、自分は多くの人たちに命を救われた。
 その命を……諦めるなど、するものか。絶対に、どんなことがあっても。もう自分だけの命ではないのだ。この命は、四人の大好きな家族と繋がっているのだから。
「あなたには、勝てんかも知れんけど……絶対に、負けたりしない。……負けない!! 私は、最後の夜天の主やから!!!」
 はやてが、最後の覇気を吐き出す。自分の足だけで立ち、シュベルトクロイツの黄金の切っ先を、紅い魔導師に向けた。
 突き付けられた紅い魔導師のほうは、少し意外そうにその様子を見ていた。距離はまだ10メートル近く離れていたが……驚いていた。
「……まだ、そんな力あったんですね。……いえ、家族愛ってやつですか」
 そう言うと、魔導師ははやてから視線を外した。
 小さく溜め息を付くと、居心地悪そうに後頭部を掻いたり、意味もなく靴のつま先で地面をトントンと叩き、
「資料にはなかったですが、想像通りでした。…………やっぱりあなた、強いですね」
 力なく、下を向いて笑った。
 どこか、残念そうに。
「…………あーあ……。なんでこうなっちゃうかな」
 魔導師が、何故か空を仰ぐ。
 破壊されたお蔭で邪魔な光が減ったためだろう。夜空の星は見え易くなっていた。その星たちに語りかけるように、
「そういう姿が見たくなくて、さっさと息の根止めるはずだったのに……。やっぱり弱いなぁ、私。……人殺すのなんて初めてじゃないくせいに、善人ぶって、ずるずると引き延ばしてる……」
「……? な、なんのことや……」
「今の状況ですよ。こんな土壇場になって、あなたが想像通りの人物だったことに、喜んでるんです。…………情けないなぁ、私。いつまでたっても……」
「――――――」
 少女の独白とその言い草に、言葉を無くすはやて。少女の言葉使いが、声が、再び誰かと重なっていた。
 …………やっぱりこの子……、
 ……なのは、ちゃ―――。
「1つだけ、質問してもいいですか」
「え、あ、」
 突然の言葉に、思考が停止する。先ほど振り絞って出した覇気の向け所を失い、ポロリとその言葉を受け答えしてしまう。
「な、なんや」
「…………ご家族のこと、好きですか……?」
「―――世界で一番、大切な人たちや」
「……そうですか」
 寂しそうな言葉の後、紅い魔導師は視線を空から外して、下を向いた。
 目からこぼれた涙を、無理やり袖で拭っていた。
「な、え、なんで……」
 どうして……。
 あなたが、泣いて……。
「話せてよかった。……さよなら、夜天の主」
 そして、涙を拭き終えた後、
 少女は、身を沈めた。

 どれだけ、この時を待っていたんだろう。
 あの日から、今までずっと戦ってきた。この瞬間のために、どれだけ戦ったんだろう。
 何度か想像したことはある。私って淡泊だし、味気なく終わるんだろうな。いや、もしかしたら達成感で感極まったりするのかな。ううん、やっぱり……未練たらたらで、泣き出すのかも。
 そう考えてて、でも違った。
 八神はやては、想像通りの人物だった。
 家族想い。そして優しいひと。これだけ戦って、守護騎士を散々傷めつけたのに、私に対して罵倒の1つも吐き出さない。やっぱり私を憎んですらいないのだろう。……昔の私と同じ。まぁ、私は優しい人間じゃないけど。
 ………………。
 想像していたのと、違った。私にとっての最後の戦い。
 こんなに心穏やかになるなんて、思わなかった。うれしくて涙が出る。
 ………………。
 みんな。
 疑う必要なんて、なかったよ。
 八神はやては、家族を大切にするひとだった。
 ………………。
 母さん。
 あなたは正しかった。
 でも大丈夫。これくらいで躊躇ったりしない。これ以上引き延ばさないから。ずいぶん遠回りしちゃったけど、寄り道することも多かったけど、
 ―――――――――待ってて。
 今、助けるから。

 紅い魔導師は身を沈め、地に刺した杖を抜き放ち、ぐるりと一回転させた後、柄を右脇に挟んだ。右脚を少し後方に下げ、前傾姿勢を取る。
 まるでこの国の古代の剣士の、抜刀の構えだった。
「ブレイズ、LSDS」
《“Little Sky Destruction System” Standby!!》
 喜々とデバイスが命令を受諾した後、紅い魔導師に変化が訪れた。
 真紅のバリアジャケットの背部が、発光する。
 はやてからは見えないが、その小さな背中には……高町なのはと同じ防護服には、同じでない部分が存在した。
 六角形の、膨大な呪文が微細に描かれた魔法陣が、蒼く輝く。
「覚悟、いい?」
《最後に少しだけ。…………あなたと最期を共にできて、光栄です。…………大好きです、マスター》
「……ありがと。私も……大好きだよ」
《―――良き夢を》
「あなたもね。―――いくよ!」
《All right!!! Drive ignition!!!》
 そして、
 閃光と爆音が、少女を押し出した。
 背中から発生した蒼い炎は、今までの飛行速度が子供騙しに感じるほどの大加速度を叩き出した。一瞬でトップスピード……音速近くまで到達し、紅いシルエットは残像すら残さない。
 はやてが視認できたのは、迫り来る蒼い閃光のみ。回避どころか脊髄反応すら出来ず、
 視界が、蒼で、
 
 
「―――――――――」
 終わった。
 何もかも。
 絶対に負けないという気概も、家族の想いに応えたいという願いも、全て一瞬で消えてしまった。
 そう思った。
「―――――――――」
 意識が消えないのは、もう天国とか地獄とかいう、あの世に超特急で着いてしまったんだろう。そう思った。
 だけど痛みすら感じなかった。
 怖かったが、目を開ける。
「――――――え……」
 目の前には、紅い防護服。
 おかしい。ここはもうあの世のはずだ。
「……あ……あれ……」
 違うことに、はやての思考がようやく気付く。
 ……? 私、まだ……生きて……。
「―――な、」
 驚きの、絞り出したような声。それは、はやての声ではなかった。
 目の前の少女の……紅い魔導師の声だった。
 恐る恐る、はやては状況を確認する。
 まだ、生きている。飛来するであろう痛みはなく、身体を締め付けるのは先の魔力刃の激痛のみ。身体が動かないのは、迫り来るであろう死の予感が怖がったためだ。震えている。自分でも驚くくらい。
 だけど一番わからないのは、目の前の光景。
 紅い魔導師は、はやての首元で手を止めていた。
 左手の手刀はギリギリのところで静止している。首の、頸動脈あたりだ。おそらくあの霧状の魔力刃で、首を切り落とすつもりだったのだろう。
 それなのに、止まっている。魔力も、放出されていない。
「どう、して……」
「くっ」
 はやてと紅い魔導師の目が合った。途端に魔導師は後方へ跳躍。宙で一回転した後、無音で着地した。
「……どういうつもり、ブレイズ。この後に及んで、止める気?」
《え? な、待ってくださいマスター! 私は何もしてません!! ロイヤルを強制終了したのはあなたですよ!!》
「え、」
《ほ、ほら! 処理のログです!》
「――――――うそ。なに、これ」
 何がどうなっているのかわからないのは、紅い魔導師側も同じらしい。焦点の合わない目を地面に向け、時間が経つごとに顔色が青ざめていく。
 ……? た、躊躇ったんか? 私を殺すこと……。いやでも、そんな様子じゃ……。
「…………ブレイズ、ソード3」
《は、はいマスター。モード、ソード3!》
 落ち着きを取り戻したのか、紅い魔導師がデバイスへ変形を命じた。慌てたようにデバイスが応え、周囲に白い光が出現、足りない部品と融合して剣へと姿を変貌させる。
 一度見た、あの切っ先が厚い剣だ。
 そして、形状が安定した途端に紅い魔導師ははやてに向かって突っ込んできた。ジャケットに付随する宝石から蒼い炎を撒き散らし、凄まじい勢いで接敵する。先程から比べると速度そのものは遅かったが、どちらにしろはやてに回避する術はない。
 だが、結果は同じだった。

 目で追うことも難しいほどの銀の一閃は、はやての首めがけて闇夜を裂き、
 しかし、紙一重のところでピタリと止まった。

「な―――どうして……」
 再度の、驚きの言葉。やはり、はやての声ではない。
 目を見開き、驚愕の表情を浮かべているのは……紅い魔導師のほうだった。
「……これならっ」
 左手で持っていた銀色のデバイス。片刃の剣の峰に向けて、紅い魔導師は力の限り右拳を放った。衝突と同時、激しい音が周囲に響く。
 それでも何故か、銀の剣は時間が止まったかのようにビクともしない。
「…………っ」
 驚きは、焦りに変わっていた。右拳を掲げ、何度も剣の峰に打ちつける。だが動かない。いくら力を込めても拳を叩きつけても、刃はそれ以上進まない。ギロチンのように刃を突き付けられているはやては身動きが取れない。呆然と、必死に拳を振り上げる少女を見つめていた。
 ……なに……何が、起こって……。
 動作だけ見れば、道化師のパントマイムに似てなくもない。だが目の前の少女の表情は冗談でも何でもなかった。自分が握っているはずのデバイスを見つめ、その後、信じられないといった表情のまま剣を引いた。
 剣を見て、右手の拳を見て、何度も見比べる。
 微かに震えていた。握っていた拳を開いても、揺れは止まらない。呆然としつつ、そして小さく、こう漏らした。
「まさか………………母さん……?」
「……え」
 いつの間にか、はやては腰を抜かしていた。だから見上げるような形で紅い少女の表情を見ていた。信じられないといった表情のまま、己の両腕を何度も見比べている。位置的にはやての顔も見えるはずだが、そちらのほうに意識を向けられる様子ではなさそうだ。
 そして、突然だった。

『はやてちゃん!! 伏せて!!!』

「は? ―――っ!」
 一瞬目の前の少女の思念かと思い、すぐに違うと気付いた。咄嗟に身体を伏せる。
 視界の隅から、閃光が飛び込んできた。
 すぐ近くにいたから、全て見て取れた。
 桜色の砲撃魔法。圧倒的な破壊能力を付加された魔力の塊は、紅い魔導師の真横から飛来。
 紅い魔導師が、気付く。
 呆然とした表情のまま視線を両腕から外し、横を見て、迫り来る破壊の砲弾を見ていた。
 だけど、避ける素振りは皆無だった。
 信じられないといった表情のまま、桜色に飲み込まれる。
 紅いシルエットは、あまりに簡単に吹き飛ばされた。
 
 
 
 助けるから
 必ず どんなことがあっても
 あなたのためなら 私はどんなことでもするから
 どんなことでも できるから

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 もうすぐだからね 母さん


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