大丈夫だよ 怖いことなんてないよ
どんな出来事からも 私が絶対 守ってみせるから
ずっと 側にいるから
……遠い日の約束
それは寝静まる町の片隅で 不安を優しく取り除いてくれた
それは底知れぬ闇の奥底で 恐怖を優しく取り除いてくれた
約束したから だから
―――フェイトちゃんは 私が守る
第3話 Trap
一年前、彼女たちが住む街で……つまり第九七管理外世界、現地惑星名称『地球』、都市名「海鳴市」という場所で、とある事件が発生した。
後に『闇の書事件』と呼称される騒動である。
事の始まりは見方によって様々だが、海鳴市に住んでいた魔導師、高町なのはが突然の襲撃を受けた事を「始まり」とするのがわかりやすいだろう。
襲撃者の名はヴィータ。
外見的にはなのはより幼く、パッと見だと6〜7歳程度の女の子であったが……彼女も魔導師であった。「ベルカ式」と呼ばれる珍しい魔法体系を扱い、その独特の魔法行使に対応することができず、なのはは戦闘不能に陥る。彼女も善戦はしたが、相手が用いる攻撃手段は初めて目にするものであり、対応できなくて当然な話だった。
それに前提として……戦う前の段階から、両者には大きな違いが存在した。
心構えだ。
この事件、始まりは見方によって本当に様々な解釈ができる。時空管理局が関与し始めたのがこの「高町なのはに対しての襲撃」からなので、ここを出発点とする方が確かにわかり易くはある。だが少し見方を変えれば、それ以前から事件そのものは動き出していた。後の調査で判明したことだが、この襲撃者……魔導師ヴィータは、なのは襲撃以前にも別の魔導師を襲っているのだ。
目的は、リンカーコアの回収。
魔導師と呼ばれる者たちは、大気中に散在する『魔力素』を吸収し、体内で『魔力』に変換することで初めて魔法を行使できる。この変換作業を行っているのがリンカーコアと呼ばれるもので、魔導師にとっては心臓に等しい存在だ。
それの強奪が、彼女の目的だった。……ただ、殺害が目的ではない。心臓に等しいと称したが、リンカーコアは充分な処置を施せば元通りに回復するし、事件の被害者の中には後遺症を患う者もいたが、それだって数年後には完治する。だから殺害が目的ではなく、彼女はリンカーコアに蓄積されていた魔力と、リンカーコアの所有者が扱っていた魔法様式の蒐集が目的だった。
それこそ、決定的な差だった。
元通りに回復する。ちゃんと治療すれば後遺症もほとんど残らない。……が、それは結果論だ。どんなに表現をやさしくしても強奪に変わりはなく、要するに最初から「相手を傷つける」ことが前提となっている。
それに対しなのはは、相手を傷つける意思など少しもなかった。襲撃直後……つまり戦闘直後に彼女が行ったのは「相手の目的の確認」である。どうして攻撃するの。どうしてそんなことをするの。彼女も応戦はしたし攻撃魔法も使用したが、最後までなのはは、相手を積極的に傷つけようとはしなかった。
傷つけることを前提として戦いに挑む者と、そうでない者との戦い。勝敗など明らかだろう。なのはの魔法に関する技能がヴィータのそれより大きく上回っていなければ、勝てる状況ではない。
―――だからこそ、仮定してほしい。
もし仮にだが、なのはが初めから相手を傷つける……相手を倒す気構えで戦いに望んでいた場合、勝敗はどうなっていただろうか。
確かに相手はベルカ式、見慣れぬ特異な魔法体系を扱う未知の存在である。が、それで彼女が負けるだろうか。
魔法の力を手に入れて数日で飛行魔法を習得し、ジュエルシードと呼ばれる遺失物によって未知の存在と化した動植物と連戦し、魔導師として既に完成されていたフェイトと戦い続けた彼女が……未知の魔法体系、『その程度』の問題に苦しむだろうか。
圧倒的な防御力を誇るバリアジャケットと、全てを粉砕する砲撃魔法。敵を追尾する射撃魔法に、フェイトとの連戦で培ってきた対魔導師用の戦闘技術。さらに……収束魔法。
初めから戦う意志を持っていたならば、
初めから相手を傷つける覚悟の下で戦いの場にいたならば、
……―――さらに仮定する。
仮に、もし仮に、
なのはの魔法に関する技能が、ヴィータのそれより大きく上回っていた場合、どうだろう。
意思とか前提とか、そんな問題など霞むほど彼女がヴィータより強かった場合、どうだろう。ヴィータの立場は襲撃者で、なのはの立場が被害者。だがなのはが……ヴィータの能力を遥かに凌駕していたら。突然の攻撃など簡単に防ぎ、圧倒的な空戦能力で場を支配し……ヴィータの覚悟など簡単に押し潰せるほど、強かったならば、
事件など……。
……―――さらに、仮定を加えよう。
仮に……もし、万が一、仮に、
逆の立場だったなら、どうだろう。
すべての過程を踏まえ、さらに仮にだが、もし、すべてが逆ならば、
相手を倒すことを前提とし、未知の魔法を振るいつつ、圧倒的な力で襲撃してきたとしたら、ヴィータは……いや、
4人の守護騎士は、『彼女』に勝てるだろうか。
ぼんやりと、夢を見てる。
夢だとわかるのは、その内容に見覚えがあったから。
不思議だなぁ、なんて思う。夢って、大抵は夢だと思い至ると、すぐ覚めちゃうのに。今は全然、覚める様子がない。
目の前にいるのは、フェイトちゃん。
真っ黒な防護服と、金色に輝く長い髪。悲しそうな表情と、寂しそうな瞳。初めて会った時のフェイトちゃんだった。いま思い出すと、なんだか辛い。
だけどすぐに、別の場面に様子が様変わりする。「友達だ」と言って、動けない私を守ろうとしてくれる、フェイトちゃんのかっこいい後姿。
また場面が変わる。黒板の前で、恥ずかしそうに自己紹介をするフェイトちゃん。少し顔が赤いのが、なんだか可愛い。
場面が変わる。私の部屋で雑談するフェイトちゃん。笑顔が眩しくて、嬉しそうで、見ている私まで嬉しくなる。
場面が変わる。……フェイトちゃんがいない。代わりに、
目の前に、自分がいた。
驚く。目の前にいる自分は、なんだか雰囲気が自分と違った。どう違うかはうまく言葉にできないけど……とにかく、纏っている空気が違う。なんだか冷たそうで、だけど奥底は炎みたいに熱そうで……根拠とかはないけど、そんな感じがした。
唐突に、目の前の自分が膝を付く。傍らに、誰かが倒れていた。
倒れている誰かの手に優しく触れて、小さな声で何かを言った。
聞き取れなかった。だけど不思議と、その『自分』が何を囁いたのか、理解できてしまった。
―――急に、怖くなった。
「――――――――――――ッ!?」
白いシーツを突き放つようにして、なのはが飛び起きた。
「―――……あ……あれ……?」
真っ青な表情のまま、周囲を見渡す彼女。激しく鼓動する心臓を抑え込むように胸を抑え、焦点の定まらない視線を、ふらふらと揺らす。
見覚えがなさそうな部屋で、だけど見覚えがあった。
……ここ……アースラの、医務室……?
「はぁ……は…………はぁ……」
ベッドの上で息を切らしつつ、どこかホッとしたように息を吐く。知っている場所だとわかった途端、激しく動揺していた気分が少しだけ落ち着いた。勝手に息を取り込もうとする身体も、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「……はぁ……はぁ……あれ…………なんで……私……」
そこで、なのはの頭に疑問が浮かぶ。
なんで、こんなに……息、切らせてるんだろ……。
考えつつも、肺はまだ活動を止めてくれない。熱した身体を冷ますため、貪欲に酸素を欲している。自分の身体なのに全然言うことを聞いてくれない。
まだ身体の半分を覆っていたシーツを退ける。暑かったからだ。布団の中の自分は普段着で、だけど寝汗ですごく重く感じた。夏でもないのに異常なほど水分を失っている。まるで全力疾走した後みたいだと、心のどこかでそんなことを思う。
額に触れると、信じられないほど汗をかいていた。心臓も、まだバクバク暴れている。
なんで…………あ……そっか……。なんだか、夢を見てて……
ふと、何かを思い出す。だけど全体像が浮かばない。夢を見たこと自体は覚えているのに、肝心の内容が思い出せなかった。誰かに会った気がする。誰かの声を聞いた気がする。それに……怖がってた自分がいた、気がする。
怖い夢、だったの……かな。…………あれ、そういえば私、なんでこんなところで寝てるんだろ……?
額から噴き出している汗を拭いつつ、もう1度辺りを見渡す。なんだか不思議な感覚だった。彼女にとって医務室に来るのは初めてではなかったが、ベッドで寝るのは初めてだった。いつもは訓練中に少しスリ傷を負ったり、打撲した時などに利用している場所。ベッドに腰掛けることはあっても完全に身を任せたことはなく、いつもとは違う視線から眺める部屋は、少し落ち着かない。
そこで、ふと視界に何かが映る。
部屋にはベッドが2つ。1つは自分が今現在使っていて、もう1つに、
―――金色の髪をした女の子が、静かに眠っていた。
「……フェイト……ちゃん……」
それで、呆気ないくらい簡単に、全部思い出した。
真っ黒な床と、真っ黒な天井と、真っ黒な椅子と机が並ぶ、明るくて異質な空間。
蒼い炎から現れた、紅い防護服の女の子。
フェイトちゃんを襲う、蒼い炎の拳。
変形する銀色のデバイス。
そこから伸びる炎の触手。
凍えるような異様な寒さ。
女の子の―――最後の言葉。
「…………わた、し……」
知らず、貫かれたはずの胸元に手が伸びる。
別に痛くはなかった。痒くもないし違和感もない。冷たくもない。
だけどあの時、その場所から、なにか大切なものが吸い取られていたのは……記憶している。
……。私、負けちゃったんだ……。
心の奥で、そんなことを考える。
別に今まで負けたことがないわけではない。魔法を手にして間もない頃には、目の前で眠っている少女……フェイトと戦い、初戦は惨敗だった。1年前には「闇の書」事件で、負けもしたし、苦い想いもした。だけど今回は……それと比較すればするほど、酷い結果だったとなのはは思う。
振り返れば、戦いにすらならなかった。
得意だったはずの砲撃魔法は簡単に捌かれ、相手の攻撃は防ぐこともできず……そして、一撃で終わった。防御結界を壊されるのではなく『無視された』という理解不能な攻撃だったけど、だからといって妥協できるものじゃない。そういう次元の話じゃなかった。
本当に、あっという間だった。
見慣れない戦い方をする相手との戦闘は、今回が初めてではない。それは闇の書事件の時で痛感している。「ベルカ式」という、聞いたこともなかった魔法体系。「カートリッジ」と呼ばれる魔力を込めた弾丸を炸裂させることにより、一時的に自身や術の魔力を底上げする魔力運用法。……だが、そのベルカ式にだって対抗策はあった。
しかし今回は、そういう問題でもなかった。勝ち負けの話ではない。優劣の話でもない。
負けてはいけない場面で……負けてしまった。
ベッドから降りる。置いてあった靴を履いて、なんだか力の入らない身体に無理やり力を入れて、もう1つのベッドの側に寄り添う。
フェイトは、まだ寝ていた。
「……」
そっと手を伸ばして、起こさないように、彼女の髪に触れる。
「フェイト、ちゃん……」
綺麗で、サラサラときめ細かい金色の糸が、なのはの指を擽る。
負けたことには、大して悔しさを覚えていない。心の中に堆積している悔しさは、そんな類のものじゃなかった。あの子……自分にソックリな、あの紅い魔導師に対しての悔しさじゃない。
自分が弱かったというのが、すごく悔しい。
「…………約束、したのにな……」
なのはが固執しているのは、勝敗の行方なのではなかった。負けてはいけない場面で負けたことであり……守りたかったものを守れなかった事実が、涙が出そうなほど悔しかった。
守ると……約束した。寝静まる住宅地の片隅、夜の帰り道で、どんな事柄からも絶対、守ってみせると約束した。
それなのに、この結果は―――戦闘に敗れてフェイトが医務室で横になっているという事実自体が、あまりに悔しい。勝てなかったことはどうでもいい。自分自身が負けたのも気にしない。
彼女を……目の前で眠る彼女を、守れなかったこと。
どんな事柄より、その事実だけが悔しくて、悲しくて、仕方がなかった。
「……」
髪を撫でる手を止めて、シーツを握り、フェイトの肩がちゃんと隠れるように引っ張る。その間もずっとなのははフェイトの様子を見ていたが、安らかに眠っていることに……少しだけ、安堵の溜息が洩れる。呼吸も穏やかだし、顔色もいい。自分みたいに、悪い夢でも見ているような様子もなかった。
「……守れなかった、けど……無事でよかった……」
なのはの身体から完全に力が抜け、その拍子に、気付く。自分の身体にどれだけ力が入っていたかを。
悔しさの一種かなのかと思ったが、違った。力が抜けた途端、少しだけ……寒気がした。
…………私……怖がってる……。
思い出してしまう。あの時受けた不可解な攻撃。その時感じた、絶望的なほどの恐怖。本当に怖かった。
身体が凍えそうな、突然の寒気。
強制的に奪われていく、自分の力。
燃えるように消えていくバリアジャケット。
そして……完全に残量が切れた、魔力。
「……ん……」
不安になって、胸の前の何もない空間を、両腕の手の平で挟み込む。そして……そこに、魔力を集中させてみる。
「……っ、くぅっ……」
数秒の後、なのはの手の平の間に光輝く球体が現れた。桜色に輝くそれは、間違いなくなのはの純粋魔力だったが……あまりに小さく、魔力光も微弱だ。少しの間浮遊し続けると、空気に溶けるように消えてしまった。
「やっぱり……魔力が、残ってない……」
落ち込んだようにそう言葉を漏らす。実際、普段の彼女の力と比べれば……脆弱にも程があった。
寝ていたために回復したような印象があるが、それでも消耗の度合いはなのは自身が一番よくわかる。状況はどうだと訊かれたら、コンディションは最悪です、と答えるしかないくらいに。
「あの子の……攻撃のせい、だよね……」
再び、あの記憶が脳裏を過ぎる。
主の言葉を受けて変貌した、銀色のデバイス。
そこから伸びる蒼い炎の触手。
力尽き、倒されてしまった自分とフェイト。
そして、
「…………誰、なんだろう……」
誰に訊くでもなく言葉を発して、だけど自分の中に答があることに……やっぱり何か怖さを感じる。
そんなはず、ない。
私は―――高町なのはは、今ここにいる。眠っているフェイトの側に、ちゃんといる。それなのに、あの時の言葉が耳から離れない。
『心配しなくても大丈夫です。初撃は手を抜きましたし、3番アンカーによる攻撃は対人用じゃありません。……少し、気を失っているだけです』
その言葉は、自分に向けての言葉だった。少し意識は朦朧としていたが、それでも覚えている。何だか優しそうな言葉で、声だけなら自分に似ていた印象があったが、口調が自分とは全然違う。だけど問題はそこじゃない。
次の言葉。
自分ではなくフェイトに向けられた言葉。
心配そうな表情で、寂しそうな表情で、フェイトの手の甲をそっと握り、小さく紡いだ謝罪の言葉。
聞いた途端、思考が真っ白になったのを覚えている。
あの口調は、
『……ごめんね、フェイトちゃん』
あの……口調は……。
彼女を「フェイトちゃん」と呼ぶ、あの声は、
「…………わたし……なの……?」
デバイスが違う。
防護服の色も違う。防護服を着ているときの、髪を纏めているリボンも違う。
少ししか話はしなかった。話したとき、あの女の子の声は自分に似てたけど、口調は自分とはなんだか随分違った。だから……自分とは関係ない。何かの偶然で、見た目だけがソックリなんだと……あの一言がなければ割り切れるのに。
その一言が、どうしても頭の奥から消えてくれない。
フェイトのことを心配していた。優しい言葉だった。攻撃してきたのは向こうなのに、攻撃する度に、逆に傷ついているような様子だった。彼女を……「フェイトちゃん」と呼んだ。
自分と全く、同じ顔で。同じ声で。
「……一体、なにが……起こって……」
不安だけが堆積する。静かで、照明を抑えられている薄暗い医務室の中、
フェイトの寝息だけが、なのはを支えていた。
……ここは、どこだろう。
気がついたら、見知らぬ場所にいた。薄暗くて、だけど暖かい……。正面に小さな光があるけれど、なんだか視界がぼやけていて、よく見えなかった。暖かいのは、その光のお蔭なんだろうと……根拠もないのにそう思った。
少しだけ、目を擦る。
そしたら、あっという間に視界が晴れた。
目の前にあったのは、パチパチと小さな音を鳴らしながら、燻っている炎だった。薪を赤く染めながら、でも決して強く燃え盛ったりしない、静かで優しい、暖かい炎。
……? 暖炉……?
「え…………な、何で私、こんなところに……」
慌てて周囲を見渡す。
そこは、どこかの家の一室だった。光源は暖炉から漏れる赤い光だけで、その他から光は発せられていない。天井には豪華な照明があったが、今はその役目を果たしていなかった。それどころか少し、金具の部分が錆びていた。何年も手入れされていないことが窺える。
決して小さな部屋じゃない……けど、どこか狭く感じた。原因は大きな家具だろう。年季が入って色あせたソファが2つあり、暖炉を囲むように置いてある。私はその一方に座って寝ていたらしい。立ち上がって、さらに部屋を見渡す。
やっぱり、狭い。
壁際には大きな本棚がいくつも並んでいた。棚には、いかにも古そうで分厚い本がぎっしりと収納されている。だけど……収まりきらなかったのだろうか。本棚のすぐ側の床に、やはり古そうな本が積み上げられている。その本のタワーが崩れないように、両サイドに少し小さな本のタワーがあって、その横にも本が……という感じで、小さな本の山ができている。それも1つじゃない。見渡せば、山は5つもあった。この部屋の主は本が好きらしい。
どことなくアリサやすずかの家に、雰囲気は似ている。だけど見覚えはない。大体にして2人のお屋敷にはメイドさんとかがいるから、こんなに散らかった部屋はないだろう。つまりは、アリサやすすがの家じゃ……ない。
どこだろう、ここ……。
突然のことに思考が追い付かない。よく思い出せないけど、私は今まで、全然別の場所にいたはずだ。ソファで眠っていた経緯もよくわからない。……それ以前に、なんで寝てたんだ、私……。
「…………あ、れ……」
おかしい。…………何か、すごく、おかしい気がする。
寝ていた自分。気付いたら見知らぬ場所。理解不能なこの状況。本当なら……こんな状況なら、慌てるのが普通な反応なのに、
なんで私は、こんなに、落ち着いているんだろう……。
「…………おかしいな……。私……」
知らない。
こんな場所、知らない。見たこともない部屋だし、ここに来た経緯もわからない。それなのに、すごく、
…………懐かしく、感じている。
「……。暖かい……」
暖炉のせいだけじゃない。この部屋の雰囲気そのものが、すごく暖かかった。散らかっているのに、全然ホコリっぽい感じがしない。逆に古紙特有のやわらかな香りが、心を穏やかにさせてくれる。パチパチと鳴る暖炉の薪以外、音がなくて、静かで、揺れる炎の光が……部屋の時間をゆっくりさせているようで。
まるで小さな図書館みたいだと、そんなことを考えてしまう。
その時、パタンと、小さな音が足元からした。
「?」
音のした方、足元に目線を向ける。いつの間にか、一冊の本が落ちていた。
「……これ、魔法書……?」
もともと足元に落ちていたのだろうか。茶色くて、でも年代物なんだろう。端が少しだけ色落ちている分厚い本。表紙には古いミッド語でタイトルが刻まれている。踏んではいけないと思って手を伸ば―――
「あれ、眠ちゃってたか……」
「っ!?」
―――お、驚いた。すぐ近くで声がした。
視線を向けると……私が寝ていたであろうソファとは別のソファに、私と同い年くらいの女の子がいた。眠たそうな目を擦りながら、私が取りかけた本に手を伸ばして、私が何かを反応する前に拾ってしまった。
「ふぅ……。おっかしいなぁ、昨日は早めに寝たのに……。疲れてるのかな」
右手で目を擦りつつ、左手で本を持ったまま、グッと伸びをする女の子。そ、側にいる私のことに、気付いていない、のかな……?
と、とにかく声をかけようとして、
―――さらに、驚いた。
「な…………なの、は……?」
目の前にいたのは……私の親友の、なのはだった。
恰好が違うから、す、すぐには気付かなかったけど……たしかに、なのはだった。
いつも付けているリボンは今はしていなかった。無造作にされている茶色の髪は、起きた直後だからだろうか、少し寝癖が付いてる。小さなツインテールが印象的な彼女を見慣れているから、なんだか新鮮だ……。それに、今まで見たことのない服装だった。男性用みたいな紺色の長袖ワイシャツと、少し大きめなズボン。……す、スカートじゃない……。
「ど、どうしたの、なのは? なのはがスカートじゃないなんて、珍しい……」
私がそう訊くと、眠そうだった目をパチッと開いて、
「え? ……いや、ここ最近、スカートなんて……というかスカートなんて持ってないよ、私」
―――よくわからないことを、言葉にした。
「…………? え? な、だ、だっていつも……え? 持って、ない……?」
「うん。私がそんなの着てるの、バリアジャケット以外は見たことないでしょ?」
「? ……ぇえ??」
な、なに言って……。だってなのはは、普段着は、外出するとき、いつもスカートで―――
「ま、待って。もしかして02、体調悪い?」
―――……え、
「あ、そっか。私が寝てたから、魔力の流れが……もう、そういうときは私のこと起こしてくれても平気だよ。怒ったりとかしないから」
も、もうなのはが何を言っているのか、全然わからない。ぜ、ゼロツー? 魔力の流れ? 一体なんのこと?
「ほら、ちょっとこっち来て」
そう言うと、なのはは混乱状態の私なんかお構いなしに立ち上がって、私の肩に手を乗せて、
グイッと、自分のほうに引っ張った。
「―――!! な、なな、なのは!?」
い、いきなりなのはの顔が、目の前数センチのとこまで近付いてきた。わ、わ、わっ、く、くち、唇が……!
「ちょ、な、なんで嫌がるの? いつもしてるじゃない」
……!? い、いつも!? な、何のこと!? なにを!!?
「いいから身体の力を抜いて。私のことちゃんと見て、ほら」
ほ、ほらとかそんな、こんな近くから、なのはの顔なんて、恥ずかしくて見れないっ!
「な、なんで目線を下げるの? ねぇちょ……ホントにどうしたの? 真っ赤だよ、顔」
「―――っ!」
し、視線を下げたのに、今度は覗き込むようにしてなのはが私を見上げてくる。心配そうに、真っ直ぐに見つめてくる。う、嬉しいけど、ち、ちち、近すぎるし、困る! 顔だって赤くなって当然だ! ななな、なんで、どうしてこんなことに!?
「なんで、ちょっ、どうして視線を逸らすの? ほら、私こっち…………もう、なんだかよくわからないけど、しょうがないなぁ……。じゃあ目は閉じてていいから、身体だけ力抜いて」
そう言い終わった途端、肩に置かれていた手に少し力が入るのがわかった。くいっと、さらに近付いて……そ、そんな、わ、わぁっ!?
こつんと、
おでこに、何かが当たった。
「――――――……っ、?」
……いつの間にか、全力で瞳を閉じていた。す、少し怖かったけど、ゆっくり……目を開ける。
なのはの顔が、すぐ目の前……吐息がかかるくらい近くにあった。
お、おでこを、私のと合わせている。
「ん、魔力波動は安定してるね。私からの供給量も問題なさそうだし、リンカーコアも全然……。この前覚えた魔法の反作用じゃないみたい。……ふぅ、少し焦ったよー……。でも体温が少しだけ高い気が……風邪でも引いた?」
「っ、い、いや、た、体温が高いのは、風邪とか、そういうのじゃないと思うから、だ、大丈夫……」
「そう? もう、いつも言ってるけど、無理しちゃダメだからね? 身体がおかしいなぁって思ったら遠慮なく私に言うこと。約束してね」
「あ、あの、なのは…………私、実はさっきから、何のことだが、さっぱり……」
「……はぁ……」
な、なんだかすごく深いため息を溢すなのは。少し呆れたような表情を見せた後、やっと私から離れてくれた。……あ、あぶなかった……。これ以上こんな近距離にいたら、私の心臓が破裂してしまう。
だけど、今度は私の肩に置いていた手の平を、私の頬に……っ、え、え?
突然、
ぎゅうっと、引っ張られた。
「っ!? い、いっ、いたたた!? な、なのは、痛っ、いたっ!?」
「痛くて当然だよ。お仕置きだもん」
むすっとした表情で、少し拗ねたような目つきで私のことを睨みながら、ぐい、ぐいっと頬を左右に引っ張る。ほ、ホントにちょ、待って、痛い!
「な、なんれお仕置きらの、なの……いた、いひゃいよ、なのふぁ……!」
「何言ってるかわかりません」
「ら、らって、ひっふぁられふぇ、こんらの、しゃべれふぁい……ま、まっふぇ、なのふぁ!」
こ、今度は左右だけじゃなくて上下にまで引っ張られて、全然まともに喋れない。痛くなくなってきたから力は弱めてくれたみたいだけど……あ、遊ばれてる!
「ちょっと、なの……ふぐっ、待っ……ふぇ? な、なのふぁ、たのふぃんでるで……あぅ!」
「楽しんでますよー。やめてほしかったら、約束するのっ」
「や、やくそ……んむ? ちょ、な、なにふぉ……やくひょくすれば……」
「……絶対に無理はしないこと。私に気を使わないこと。そして…………私にちゃんと、心配させること」
そして、ピタリと、私の頬を弄るのを止めてくれた。
無茶ばっかり、するんだから……。
私のこと、守ってくれるのはうれしいよ。それに私のこと、いつも支えてくれて……。感謝してる。本当に。
でもね…………ううん、こんなこと言っても、やっぱり無茶するんだよね……。
だからさ、約束して。
無茶するのは、百歩譲って……うん、認める。
だけど絶対に無理はしないで。隠さないでよ。弱いところ、ちゃんと私に見せてよ。
必要以上に気を使わないで……。私にだって支えさせてよ……。
辛かったら、隠さないで言って。私に……心配くらい、させて……。
「……。なの、は……」
「……」
いつの間にか、なのはの手は私の頬から離れていて、いつの間にか……なのはは、俯いていた。
初めて聞く言葉だった。
心配させて、だなんて……。
「約束して……お願いだから……」
小さな、泣いているような、声。
―――心臓が締め付けられるような想いがした。
「約束する」
気付けば、自分の意思など関係なしに、そう言葉を発していた。
「約束するよ。……無理なんてしないから。辛かったら……ちゃんとなのはに言うから」
この状況は、未だによくわからない。
気付けば見知らぬ部屋にいて、自分は寝てて、起きたらなのはがいて……でもなのはが話すことは、よく、わからなくて……。
でも、今の言葉くらいは理解できる。理解できないほうがおかしい。
私はいつの間にか、なのはを守っている気でいたけど、でも……違うんだ。
一緒に歩むこと。それが、なのはの望みだったはずだ。
『一緒に強くなろう、フェイトちゃん』
その言葉を……忘れていた。
「だから……一緒に強くなろう、なのは」
なのはの手を握る。暖炉の光に暖められた手の平は、本当に暖かかった。
「……うん」
小さく、なのはは頷いてくれた。……よかった。元気を出してくれたみたい。
その証拠に、顔を上げてくれたなのはの表情は、眩しいような、それでいて優しい笑顔を見せてくれた。
……うん。なのはは、怒った顔とか、悲しい顔とかより、全然、今の表情が似合って―――
「ふぅ……あはは、これじゃあどっちがマスターかわかんないね」
―――…………。
え?
「でも、久しぶりに聞くね、その言葉。闇の書の一件の時だよね」
「……あ、えっと、う、うん……。なのはが、言ってくれたんだよ?」
「うん。実際に見てみたなぁ」
……? え、な、なに?
実際に、見てみた、い……?
「ああでも、それは無理っぽいね。少し残念だけど、仕方ないか……。それより、なんだか寝たらお腹空いちゃった。何か食べよ?」
「え、あ」
そう言うと、なのはは私に背を向けて歩き出してしまった。部屋の出口に向って。
……おかし、い……。や、やっぱり、おかしすぎる。
こんな場所知らない。ここに私がいる経緯がわからない。なのはの話す内容がわからない。なのはの言葉がわからない。
なのはが、わからない。そのことが、何故かすごく、怖かった。
「―――な、なのは!」
「ん? なに?」
思わず声を荒げてしまう。立ち止まったなのはが振り返って、私を見てくれた。
なのは。……なのは。
――――――本当に…………なのは、なの……?
「どうしたの? やっぱり体調悪い?」
「いや……その、身体は、全然、別に……。それより……なのは……」
「はい?」
首を傾げる様は、間違いなく、なのはだ。私のよく知る……。
でも、でも、なのは……いつものなのはと違う。
リボンをしてない。
スカートじゃなくズボンを穿いてる。
髪を下ろしている。
……い、いや、そうだ。私のほうがおかしいんだ。これは何ていうか、少し寝惚けているだけだ。少し前まで眠っていたわけだし、そう……ご、ご飯。ご飯食べて、少し落ち着けば、ここがどこかも、なんで私がここにいるかも思い出し―――
「あ、でも、そろそろ『なのは』は止めてほしいかも……」
――――――。今……。
今、『彼女』は、なんて……。
「な……なにを、言って……」
「? 何って、わかってるでしょ? その名前はもう、私の名じゃないんだから」
……っ!?
「その名前で呼んでもらう資格、もう私にはないしね。いや、確かに「他の人がいないところでは『なのは』って呼んでもいいよ」って言ったけど、なんだかさ……」
…………うそ……。いや、えっと、そうじゃない。嘘とか、そんなんじゃない。
意味が、わからない。
「やっぱり、マスターってのは呼び難いかな?」
「―――ま……マス、ター……?」
「にゃはは……やっぱり呼び難いよね? うーん、となると、いつもみたいに別の呼び名考えた方がいいのかなぁ……」
「いつも、みたい、に……?」
「うん。ということで、久しぶりにマスター権限行使の命令!」
「02、私の名前考えておいて! ……ああでも、なのははダメだからね?」
――――――っ!?
ぜ、ゼロ、ツー……? まさか、まさかそれが、
私の……名前?
《たまには自分で考えたらどうですか? マスター》
っ!?
「あのね……。どこの世界に、自分で自分に名付ける人かいるの」
《いや、いると思いますが……。ほら、通り名を自分で考えて、広めようとする人とか》
目の前の……『なのは』の胸元から声がする。女性の声。でも、
レイジングハートじゃ……ない。
「それは通り名であって名前じゃないよ。大体、その場合だとブレイズになっちゃうんだよ? 私の名前」
《いいじゃないですか。かっこいいと思いますけど》
「……。あなたの名前と少しかぶってる……」
《む……。私とかぶるのはお気に召さない、と言うんですか》
「ちょっ、なんでそこで拗ねるの……。そうじゃなくて、それはあなたの名前なんだから、似たような名前になったらいろいろこんがらがる可能性があるって言ってるの。今でさえ02が「なのは」って呼ぶとき、私のことなのか迷うのに」
《ですから、この際あなたが考えたほうが手っ取り早いのではと言ってるんです》
「う〜ん……。ダメ、ぜったい無理。私センスないし」
《……。さすがです、マスター》
「…………もしかして、貶してる?」
《まさか。それより夕食の準備はどうするのですか》
「うぅ、誤魔化したな……。それより何で簡易言語なの? 何かプログラムの処理中?」
《いつもの周辺警戒です。プロデウォーニの思念に類似した信号をキャッチしたのですが……連合の偽装信号ですね。ずいぶん迷彩がうまくなっています》
「そうでないと困るよ。じゃあ今は解読中なんだ」
《はい。ですがこれ、海から陸への、いつもの頭の悪いメールみたいです》
「またか……。暇人というか、相変わらずというか。まぁいいや、02、早く行こ。お腹すいちゃった」
そう言って、彼女が私に向って手を差し伸べる。その拍子に、シャツの首元から何かが見えた。
暖炉からの光を反射するそれは、
―――銀色のフレームに守られた、深い緑色の、
「ん……」
ふと、目が覚めた。
「……あ、れ……」
まだフワフワした意識の中で、ぼんやりと考える。……あの暖かい部屋じゃなかった。古紙の匂いも、暖炉の温かさも、どこにも感じない。
寝たままで辺りを見渡す。見覚えがある部屋だった。アースラの医務室だ。私はベッドに横になっている。……どうやら、寝ていたらしい。
「今の……」
夢……だったのだろうか。いや、夢だったんだろう。こちらが現実だ。
その証拠に、胸のあたりが少しだけ痛んだ。あの……紅い防護服を着た、なのはにそっくりの亡霊にやられたところ―――そうだ。
なのは。
「―――!」
急いで身体を起こす。寝てる場合じゃない。あのとき……あの亡霊にやられた後、意識を少しだけ取り戻したら、なのはが亡霊に攻撃を受けていた。すごく苦しそうで、叫んで、そして私も攻撃を貰ってしまった。その後の記憶がない。まさかあの後、なのはは連れていかれたんじゃ―――
「う……ん〜……」
―――あ、あれ……。
すぐこの部屋を出て、なのはを探しに行こうと思ったら……いた。
ベッドの側で、私の手を握ったまま、眠っていた。
「…………よ、よかった……」
途端に身体から力が抜ける。私が飛び起きたせいか、なのはは寝相を調整するため、モソモソと動いている。
……私の手は、握ったままだ。
「看病……していてくれたのかな……」
なんとなく、そう思った。優しいなのはのことだ。心配して、私の手を握ってくれて、そのまま寝てしまったのだろう。
「心配、かけっちゃたな……」
そう言葉にした途端、
『私に……心配くらい、させて……』
「―――」
夢の中の、あの言葉を思い出した。
「―――夢だよね……」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いてしまう。でも夢だとは思えないくらい、はっきりと覚えていた。
暖炉の温かさと、優しい光。散らかってて、でも居心地のよかった狭い部屋。心を落ち着かせる、不思議な本の香り。……全部覚えている。
私を『02』と呼んでいた、女の子のことも。
「……。痛くない……」
自分の手で頬を撫でる。彼女に引っ張られたはずの頬は、全然痛くなかった。
でも、痛さは覚えている。両肩を握られた時の感触も、あの子の手の温かさも、胸を締め付けられる想いも、全部。
夢の中は、痛みは感じないんじゃなかったろうか。……ただの迷信だったんだろうか。
「…………誰、だったんだろう……」
あの子は、誰だったんだろう。
なのはにそっくりだった。私が「なのは」って呼びかけたら、普通に反応してくれた。でも、その名で呼ばないでと言われた。
亡霊と……あの紅い亡霊と、関係しているのだろうか……。
「ん……ぅん……」
なのはが私の手を握ったまま、またモソモソと動く。
突然怖くなった。
―――私の手を握ってくれているのは、本当に……なのは、だよね……?
それとも、夢の中の、あの子?
それとも……あの亡霊……?
「…………な……なのは……」
小さく声をかける。起こす勇気はなかった。握られている右手が、自分でも驚くくらい緊張で固まっているのがわかる。そして、
「んぅ…………フェイト、ちゃん……」
小さな声だったけど、確かに私の名前を呼んでくれた。
むにゃむにゃとした、完全な寝言のようだったけど……間違いなくあの子じゃない。あの亡霊でもない。あの子は私のことを02と呼んでいたし、あの亡霊は……声はなのはと同じだったけど、口調がなのはと違ったし、なのはより……温度の低い声だったと思う。
冷たい声だった。
今みたいに、優しい声じゃなかった。
だからここにいるのは……私の手を握ってくれているのは、間違いなく私の知ってるなのはだ。
「……ん…………あれ……私……」
と、私が呼びかけたせいか、起こしてしまったみたいだ。ベッドに沈んでいた頭を上げて、眠たそうに目を擦って、
「あ……ふぇ、フェイトちゃん! 目が覚めたの!?」
私を見た途端に、眠気はどこかに飛んで行ってしまったらしい。がばっと上半身を起こして、私のほうに……って、わ、
「だ、大丈夫!? 痛いところとかない!? ケガしてない!? 寒くない!?」
い、いきなり急接近された。心配そうな表情で、顔を覗きこまれる。な、なんだかまた夢の中に逆戻りしたような錯覚を覚えてしまう。あの時みたいに、心臓が跳ね上がっているのが自分でもわかる。
「う、うん。だ、大丈夫だよ、なのは。痛くないし、ケガもしてないと思うし、寒くも、ないけど」
私がそう言うと、安心したのか、「はぁ〜……よ、よかったよ……」なんて言いつつ、距離を元に戻してくれる。……び、びっくりした。
だけど、離れてはくれたけど……なのはは、まだ私の手、握ったままだ。
「……あの、なのは……」
「っ! や、やっぱりどこか痛いの!? フェイトちゃん!!」
「い、いや、そうじゃなくて…………その……手……」
「え、手?」
私が指摘すると、なのはの視線が手元に移動した。……意識してなかったみたいだ。
「あ……あはは、ゴメン。ずっと握ったままだったよ」
そう言うと、ぱっと手を離してくれた。……なんだか、なのはの温度が離れてしまったことに、切なく感じている自分がいる。
……し、しっかりしろ私。
「な、なのは。ずっと私のこと、看病してくれてたの?」
自分の気持ちを切り替えるために、そんなことを訊いた。訊くまでもないことだとは思うけど。
「ああその、えっと……うん……。にゃはは、でも眠っちゃった」
照れ隠しなのか、恥ずかしそうに笑うなのは。……本当に心配かけたみたいだ。
ふと、また夢の中の女の子の言葉を思い出してしまう。
―――あの子も私の身体のことを、ずっと心配してくれていた。
「……フェイトちゃん。その、ホントに寒くない? 無理してない?」
目の前のなのはと、夢の中の女の子が、交錯する。
……。約束……。
「? フェイトちゃん?」
「寒くはないよ。ぜんぜん平気。……無理もしてない。辛かったら、ちゃんとなのはに言うから」
わかっている。
あれは、なのはとの約束じゃ、ない。
だけど……気付いたら、そう言っていた。
「……? う、うん」
私の態度に違和感を感じているのだろう。不思議そうに、なのはが頷いている。
不思議なのは、私も同じだ。
なのはとの約束じゃない。なのはではない、夢の中にいた女の子との約束だ。……夢の中なんだから、存在もしていない女の子との、存在しない約束だ。
だけどそれを、大切なもののように感じている自分がいる。夢なんだからと割り切ることを拒絶している、確かな何かが、私の中に。
『約束して……お願いだから……』
夢だとは思えないほど、よく覚えているから。
……なのはという名は捨てたと、女の子は言っていた。
名前を付けて、とも言われた。
…………。
名前、か……。
なのはとそっくりで、笑顔も同じで、ずっと私の身体を心配してくれた、女の子……。
「……あ、あの、フェイトちゃん?」
「え? あ」
なのはの呼ぶ声に、はっと意識を戻す。ちょっと考え込んでいたらしい。
「ご、ごめん、なのは。少し、考え事してたから」
「……あの女の子のこと?」
「っ!?」
―――驚きに、言葉を忘れる。なのは、なんで……あの子のこと……。
あ、あれはまさか、やっぱり、夢じゃなくて―――
「考えちゃうよね……。何であの、紅い防護服の子は……私と、ソックリだったのかな……」
―――あ、な、なんだ、そっちか。
それもそうだ。なのははレッドファントムのことを知らない。私だってエイミィから聞くまで知らなかったんだから、ミッド出身じゃないなのはが知るはずもない。
「私、知ってる。レッドファントムっていうの」
「え? れ、レッド……ファントム?」
「うん。エイミィが教えてくれた」
でも、どうやってなのはに話そう。わ、私が怖くて眠れなかったほど、本当に怖い話だ。なのはだって聞いたら、怖がってしまうかも……あ、でもなのはは、怖い話とか平気なんだっけ。
……ううん、私が話すより、エイミィに直接聞いた方がいいと思う。もしかしたら、私に話していない何かがあるかもしれない。私はあの時、怖くてすぐに部屋に戻ってしまったから。
「……エイミィのところに行こう。私ももう少し、詳しい話を聞きたい」
聞いてない事柄がある。わからない事柄がある。
ファントムは窓のある部屋に現れる。あの時、あの不思議な建物の中には、確かに窓があった。そしてこうも聞いた。カーテンで閉め切れば出てこない、と。
出会わない対処法があるのだ。それなら……出会った場合の対処法だって……あるはずだ。
そして、エイミィの話にもおかしな点がある。ファントムは月の光で窓から押し出されるはずだ。でも私たちが出会ったとき、第九二管理外世界は夜じゃなかった。太陽が出ていて、月なんてなかった。エイミィの聞いた話が間違っているのか、エイミィ自身が勘違いしているのか、それとも……別の要因なのか。
それにもう1つ。
ファントムに出会うと、連れていかれる。でも……なのははまだ無事だ。ファントムの攻撃で意識を失ってしまったから、あの後なにが起きたのか、私にはわからない。
無事なのはいい。……でも出会ってしまった。
また……来るかもしれない。
連れていかれるわけにはいかない。だから、守らないといけない。守らないと。
……私が、守らないと。
「行こう、なのは」
「え、う、うん」
とにかくブリッジだ。そこに行けばエイミィがいるはずだし、クロノも力を……ううん、アースラの皆、力を貸してくれるはずだ。そう思ってベッドを出て、
「―――あ、れ……」
「わっ、ふぇ、フェイトちゃん!」
立ち眩みがした。身体がぐらりと傾いて、側にいたなのはに寄りかかってしまう。
「おか、しいな……力、入んない……」
「だ、大丈夫!? ほら、私につかまって!」
倒れないように、なのはが私の身体を支えてくれる。……でもしばらくすると、すぐに眩暈は消えてしまった。軽い貧血だったらしい。
「ん……ごめんね、なのは。もう大丈夫、自分で立てるから」
「ほ、ホントに大丈夫? やっぱり、まだ寒いんじゃないの?」
心配そうな様子のなのはから離れる。でも、本当にもう大丈夫だった。立ち眩みは一瞬で、今は何ともない。
そこで、ふと疑問が浮かぶ。
なのはが心配してくれるのは、うれしい、けど……。
何でなのはは、それを「寒くない?」と訊くのだろう。
「……なのは、あの、何でそんなに、寒くないって訊くの?」
「え?」
「ほら、私が起きてから、ずっと寒くないかって……」
「…………。だって、すごく、凍えそうなくらいに寒くなかったかな。あの女の子に……攻撃、受けた時……」
「あ」
そういえば、そうだった。
一瞬のことだったから忘れかけていたけど、私が受けた、2度目の攻撃。
蒼い炎が突き刺さった途端、何かが吸われて、代わりに何かが入ってくるような、そんな奇妙な攻撃だった。
あ……だから、寒くないって……。私が起きた時、なのはが手を握っていてくれていたのは、
温めるため、だったんだ……。
ずっと……私が寝ている間、ずっと温めてくれてたんだ……。
「…………。なのは」
「……っな、なに? フェイトちゃん」
私が呼びかけると、なのはは少し驚くような態度を見せた。たぶん、あの時の攻撃を思い出していたんだろう。
怖かったのだろう。私も……怖かった。自分の身体から何かが抜けていく感覚。代わりに何かが入り込んでくる感覚。攻撃を受けているときは……本当に怖かった。
いつかの、なのはからの言葉を思い出した。
「大丈夫。怖いことなんてない」
「……え?」
「次は、私が絶対、なのはを守ってみせるから」
薄暗い帰り道での、なのはからの言葉。それを、そのまま使った。
怖い想いなんて、もうさせない。私だって、もう怖くない。
なのはが……側にいるんだから。
「行こう、なのは」
「え、わわっ、フェイトちゃん?」
さっきと同じ言葉を口にしながら、今度はなのはの手を握って、医務室を出る。
なのはの手は……夢の中のあの子みたいに暖かかった。だけど、さらに暖めるように強く握る。
眠っていた私を暖めようとしてくれた、なのはへの……せめてものお礼だった。
怖くて震えているだろう、彼女の心が暖まるように。
この時点で、フェイトは幾つのも勘違い……間違いをしている。
まず、亡霊の話を完全に信じていることが大きな間違いだ。エイミィのどうしようもない怪談話が真実であるはずもなく、だが仕方のない側面もある。フェイトにとってエイミィの存在は家族に近く、大切な身内の言葉をフェイトが疑うはずもない。ホラーな話に免疫がないのも原因だろう。実はアリサから聞いた『ト○レの花子さん』だって信じているフェイトだ。この手の話に抗体ができるまで、しばらく時間を要することだろう。
もう1つは、夢のこと。
不可解な夢の内容は置いておくにしても、夢自体を余すところなく記憶していることに、本来は疑問を持つべきなのだ。夢とは今までの経験や本人の願望、空想、不安、幼い頃の記憶などが無秩序に結びついて生まれる幻想であり、幻であるからこそ薄れてしまう。程度の差はあるにしても、その幻が消えないなど異常な出来事だ。……つまりは、「夢ではない」。
勘違いしてはいけない。いくら現実離れしていても、あれはただの夢ではないのだ。
そして……最大の間違いは、確認を怠ったこと。
同じ攻撃を受けたからといっても、それが「同じダメージ」だということはあり得ない。自身の身体が無事だったからと……なのはが無事だったと、安心してはいけなかったのだ。
相手からの攻撃は同じ。だが違いが生まれたのは攻撃という事柄ではなく、防御だ。
なのはの戦闘スタイルは遠距離からの射撃が前提となっている。相手の間合いには入らずロングレンジ、もしくはアウトレンジから一方的に攻撃することで優勢を保つ。もし接近されても堅牢なバリアジャケットがあるのですぐに落とされることもなく、慌てずまた離れればいい。
それに対し、フェイトは近距離攻撃が前提となっている。近接戦闘に向いたデバイスと、高速機動を実現するために重量を省いた防護服。それはなのはの戦闘法とは正反対だ。相手の攻撃を避け、間合いを詰め、研ぎ澄まされた刃で一閃する。それが彼女の戦闘スタイルであり、
逆であるからこそ、代償としたものも逆だった。
攻撃力と防御力に特化するため、なのはが度外視したものは「機動力」。
高い回避力と機動性を確保するため、フェイトが度外視したものは―――「防御力」。
だからこそ、確認を怠ったのは度し難い間違いだ。眩暈を起こしたのは貧血などではない。確認するべきだったのだ。
なのはも、フェイトも、同じように何かを「吸い取られる」のを体感している。しかしなのはは、何かが「侵入してくる」感覚など味わっていない。
―――想いが、全てを越えていく。
夢の中の少女に警戒心がないのは、そのためだった。
「……なんだか、騒がしいね……」
「うん……。この声って、クロノ君と、エイミィさんだよね……?」
「た、たぶん」
なんだか家に帰ってきたみたいだと、フェイトは心の中で溜め息を漏らしていた。
医務室を出てから、なのはとフェイトはブリッジに顔を出した。だがそこにあったのは自動制御で動いている機器の駆動音だけで、人ひとりいなかったのである。不審に思いながらもブリッジに入ったフェイトが見つけたのは、艦長席のモニタの隅で点滅している「会議中」の文字。そして今ここ……第一ミーティングルーム前に来ている。
ドア越しでも声が漏れているのだから、この奥にクロノやエイミィがいるのは間違いない。だが2人とも、入れずにいた。
気密漏れにさえ対応する厚い扉。……それすら貫通する、騒がしい声。躊躇うのが普通の反応だ。ただし戸惑いの度合いはなのはのほうが上であり、フェイトは少々呆れている部分があった。
実は、ハラオウン家ではたまにあるのだ。クロノとエイミィの大ゲンカは。
ケンカする理由は場合によって様々だが、大抵は些細な意見の違いであることが多い。2人とも自分の意見を曲げないので、言い合っているうちに声がどんどん大きくなり……というのがいつものパターンである。しかし言い争いが大きい分、仲直りも早い。要はケンカするほど仲がいいという話であり、ちなみに勝つのは大抵エイミィだったりする。
ただ、職場で言い争いなんて珍しい、とフェイトは思う。
艦内でも言い争いをすること自体は、たまにはある。たがそれは仕事上での意見の不一致であり、つまりは少々白熱した意見交換、という程度だ。家でのケンカより、5割以上落ち着いているのが常である。
しかし目の前の扉の向こう側から漏れてくる声は、フェイトでも聞いたことがないほど激しい言い争いだった。会話の詳細までは聞き取れないが、お互いの意見を頑なに拒んでいるような、それほどに激しい声である。どちらかと言えば、言い争いというより怒号に近い。
「どうしたのかな、2人とも……」
「…………。は、入っても、大丈夫かな……?」
「……。えっと……」
遠慮気味に訊いてくるなのはに、どう言葉を返していいか少々悩むフェイト。会話の中に少しだけ自分たちの名前が聞こえるので、入った方がいいだろうとは思うのだが……目の前の扉を、本当に開けていいものなのかどうか。
……でもエイミィには、すぐにでも聞きたい話があるし……。
数秒ほど考えた後、フェイトは意を決して扉の側のタッチパネルに手を伸ばした。機器はフェイトの指紋を認証して、小さな電子音を洩らす。
少し間をおいて、厚い扉が横にスライドした。途端、
「どうしてわかんないのクロノ君のバカ! 朴念仁! わからずや!!! それ以外にあの敵をどう説明しろっていうのよ! もう一度解析結果見直してみて!! これ以外に説明のしようがないでしょう!!?」
「見直したさ! もう5度目だ! それでもそんな説明に納得がいくはずないだろう!! あんなもの何かの幻術に決まっている! 大体にしてお前の言ってることだって無茶苦茶だぞ!! 都合のいいように解釈しすぎだ!」
「都合のいいようにって……な、何よそれ!? 私はちゃんと画像解析の数値だって考慮して説明してる! 何度言わせれば気が済むのよ! 解析結果じゃ身長も体格も、髪の色素まで合致してる! どこが都合のいい解釈よ!!」
「どこもかしこもだろう!! 合致はしているが誤差が大きすぎだ! こんな数値じゃ断定などできるはずがない! それにここまで誤差である範囲が広いのならやはりあれは幻術だ! この数値こそが何より証明してるだろ!!」
「だからそれは幻術による細部のズレじゃなくてノイズだって何度言わせるのよ!! 幻術だったらここまで誤差がある方が不自然じゃない! こんな数値たたき出すなんでどんな素人幻術使いよ!!」
「だから―――何度言わせる! あの映像を見る限り敵は戦いに特化した戦闘魔導師だ! 攻撃魔法重視型で! 補助である幻術魔法は精度が悪いと解釈すれば!! この数値にも納得はいくだろう!!」
「いくわけないでしょ無理に解釈してるのはそっちじゃない!! どうしてこの数値を幻術だなんて言えるのよ! それにほら! こっちの画像の解析結果と誤差の数値は一緒! 明らかにこの数値は画像の乱れが原因であって、幻術なんかじゃ絶対ない!!!」
「じゃあお前の話を全部鵜呑みにしろって言うのか!? それこそ馬鹿げてる! そんなものただの作り話だ!! 真面目に考えろ!!」
「ば―――ば、バカぁ!!? なによそれもーーあったまきた! バカはそっちでしょクロノ君のバカバカバカ!! 頭固すぎるにもほどがある! ほんとはお化けが怖いだけでしょ!!」
「な、なんでそういう話になる!! いいから少し冷静に物事を考えろ! そんな話が実際にあってたまるか!!」
「やっぱり怖がってるじゃない!!」
「違う!!!」
それはもう、凄まじい爆音だった。
会議室にいたのはエイミィとクロノだけではなく、ブリッジに常駐するオペレーターや各配置の代表者がいたわけだが、2人以外は口を閉ざしたままだ。若干身を引いているのは身の危険を感じているからだろう。誰だって自分の身はかわいい。
そして気が立っているせいか、会議室の扉を開けたフェイトと呆然としているなのはに気が付いていない。お互いの目には言い争いの相手しか見えていないらしく、机を叩き相手を睨み、そして論争は刻々と激化していく。
「いい加減に非現実的な話はやめてくれ! いいか、敵魔導師は艦のデータベースに記録されていなかった魔法体系を用いている! これは要するに、早急な対応策が必要だということだ! 次にまたこの魔導師が何らかの理由で接触してきたとき、この未知の魔法を用いられたら僕らには対抗策がない! だからこそ今、解析できる範囲で、対抗策を練らなければならないんだ! 緊急なんだ!! さっきみたいな空想めいた事柄には議論している時間も惜しい! もっと納得いく―――」
「ちょ、空想めいた話ってどういうことよ!!? さっき言ったでしょ私の同期の知り合いが管理外世界で見たっていうメールくれたって! アレは他の世界でも現れてる! 現実離れしてるとかしてないとかは置いておくとしても! 目撃証言があるんだから事実として認めるのが筋ってもんでしょーが!!」
「だからその目撃証言だって信憑性を欠くだろう! 公式な物的証拠もなければ噂話の域すら出ていない! そんな信頼性の低い事柄で今後の方針を決めろって言うのか!? 冗談にも程がある!!」
「こ―――こんの石頭!! 冗談て何よ冗談って!! こっちが真剣に話してんのに何もかも全部否定するってわけ!? じゃあ他に納得いく説明があるっていうのクロノ君には!! あるって言うなら提示してみなさいよ出来ないクセにぃ!!」
「だ、だから何度も言っているだろうあれは幻術だって! それ以外の理由が―――」
「そんなの完全に論外! 幻術ですって!? それこそ冗談にも程があるわ第一意味不明だし非現実的だし! なのはちゃんの姿に化けて何か悪さするなら本人の前に現れたってしょうがない! それにバリアジャケットの色はどう説明するのよあんなんじゃ本人じゃないってバレバレじゃない!! それも幻術魔法が不慣れだから〜なんて理由で片付けるつもり!? 不慣れにも程があるってもんでしょうが!!」
「そ、それはだから……」
「ほーら言えないじゃない否定できないじゃない!! 否定できないってことはそれ以外に正解がないってことよ! いい加減認めなさい自分でも言ってたじゃない時間が惜しいって!! 子供みたいに怖がってないで現実見つめて!!」
「だ―――だから僕は別に怖がってないと何度言ったらわかる!! 大体にして子供じみてるのはそっちだろエイミィ! 否定できない事柄だから正解だなんて子供の屁理屈だ!!」
「な、なによそれ!!? どこが子供の屁理屈よ物事の心理でしょうが!! 現実見てないクロノ君のほうこそ子供の反応よ! 昔っからいつもそうなんだから変なところでいっつも見栄っ張りで!! 訓練生の時と全然変わってない!!」
「な―――な、何の話をしてるんだエイミィ!! 冗談でも怒るぞ!」
「冗談じゃないもの! 理屈っぽ過ぎるのは今も昔も変わってない!!」
「エイミィ……お前なぁ!」
「何よ!」
その後、一瞬だけ場が静まる。が、もちろん鎮静化したということではない。エイミィとクロノの目線からは何やら火花めいたものが見えるような、そんな絶対零度な睨み合いが場を支配してしまった。どこの部署かは知らないが、会議に参加している女性局員が今にも泣きそうだ。エイミィの隣に座ってしまったのが運の尽きだろう。
5秒経ち、10秒経過し、20秒近く時間が過ぎてから、エイミィとクロノと、あと泣きそうな女性局員を見るに見かねて、
「あのー……」
なのはが心底気まずそうに、相当小さく声を発した。
その声に過敏に反応したのは、やはりというか何というか、エイミィとクロノだった。ただ相当険しい眼光で、エイミィは「何よ文句あんの話に割り込みするなんていい度胸じゃない!」と顔に書いてあるような敵意丸出しの様子で、クロノも似たようなもんで、だが相手が誰であるか視覚で確認した途端、
さらに10秒、会議室の時間が静止した。
『あ、あれ……? 私、なんか……マズった、かな?』
『えっと……ど、どうだろう……』
ビクビクしながらお互い思念で話すなのはとフェイト。どうしたものかと悩んでいると、それは突然に来た。
「――――――なのはちゃん!! フェイトちゃん!!!」
エイミィの、凄まじいまでの速度の抱き付きだった。
「にゃあ!!? え、ええ、エイミィさん!?」
「わ、わぁ!? エイミィ!?」
「目が覚めたんだね!! よかった……よかったよぅ!! なのはちゃん!! フェイトちゃ―――…………うぇ……ふえぇぇ……」
椅子まで蹴散らして2人を抱きしめたエイミィは、抱きしめながら、泣き出してしまった。「よかった」と「ゴメンね」と、あと2人の名前を嗚咽混じりに呟きながら、一層強く。だが、
少々、問題点があったようで、
「あ、あの、エイミィさん、泣かないで…………ってちょ、待っ、え、エイミィさん、あ、だ、いたたたたた!?」
「ぐっ……エ、イミィ…………く、苦し……」
……。強すぎだ。
「ふぇぇぇ……っ。ご、ゴメンね2人とも、私、私、あの時……なにも出来なく、て…………う……うぅぅ〜……」
「わ、わかりましたからエイミィさ―――ちょっ、お、折れちゃう……っ!」
「――――――! ――――――っ!(声が出ない)」
嬉しいのか悲しんでいるのかわからない抱擁の仕方だが、たぶん、その両方なのだろう。
そう考えて少しだけ、クロノは3人を傍観してしまった。激論を交わしていた時の厳しい表情は、今はもうない。
安心したのは、クロノも同じだったから。
「意識が戻ったのはいいが……2人とも、無理はしなくていいんだぞ? まだ身体が本調子じゃないのなら、もう少し医務室で休んでいた方が……」
「ううん、大丈夫だよクロノ君。私はもう平気だから!」
「私も、体調は問題ないよ。それより、私たちも話し合いに参加させてくれると、嬉しいんだけど……。迷惑、かな?」
「い、いやそんなことはない。というか、2人から直接話を聞けるのなら、正直こちらとしても助かる」
数分後、会議室のテーブルには2つの椅子が追加された。もちろんなのはとフェイトの席だ。位置はエイミィの隣になのは、その隣にフェイトという形となる。泣きそうだった女性局員は心底ホッとしている。
ちなみにエイミィはというと、少々へこんでいた。反省と表現してもいい。感情が高ぶったにしても自分よりずっと年下の女の子に抱きついて号泣し、泣き顔をもろに見られてしまい、さらには強く抱きしめ過ぎて窒息死寸前まで持っていってしまったのだ。反省しないほうがおかしいわけで、恥ずかしそうに顔を伏せながら、まだ瞳に残っている涙をゴシゴシと擦っている。
「さて……。じゃあ会議を再開するが……しつこいかもしれないが、フェイト、なのは。気分が優れなくなったらすぐに言ってくれ。いいな」
「うん、ありがとう、クロノ君」
「ありがと、クロノ。でも心配ないよ。目が覚めて少しの間は眩暈とかあったけど、今は全然平気だし」
「そうか……。なら、会議を再開する。議題は言わなくてもわかると思うが、僕たちも煮詰まっていたところだし、考えを整理する意味も込めて……最初からもう一度やろう。エイミィ」
「う、うん」
言われて、エイミィが目の前いにあるキーボードを操作する。すると会議室の長い机の上、何もない空間に、幾つものウィンドウが表示された。数値データ数種と作戦マップ、そして……あの黒い部屋での記録映像だった。
「議題はなのはとフェイトに接触してきた、あの紅い魔導師についてだ。……作戦目標だったロストロギアの回収については一旦放置とする。本来は棚上げすべき事柄ではないんだが、現状、優先度はこの魔導師についてのほうが上だ」
「映像記録によれば、回収目標だったロストロギアは壊されちゃったみたいだしね。……2人のうちどっちかは、壊されたの、見てた?」
補足するようにエイミィが話す。まだ若干目は赤かったが、幾分か落ち着いたのだろう。
「あ、はい。私が見てました。踏み潰されて、簡単に折られちゃって……」
「そうか……。2人を救助しに行った武装隊の話では、現場にロストロギアはなかったそうだ。破壊されて消滅した、というところだろう。ノイズだらけの記録映像では漠然としていて不安だったが、持ち去られていないとわかっただけでも収穫だろう。……謎は、残るがな」
そこで一旦、クロノがウィンドウから目線を外して両手を組んだ。その表情は、何やら悩んでいるようにも見える。
「? クロノ、謎って、どういうこと?」
「……。あの紅い魔導師についてだ。正体もそうだが、目的がよくわからない」
言いながらクロノは組んでいた両手を解いて、自分の席にあったキーボードを器用に片手で操作し始めた。途端にいくつかのウィンドウが新しく現れ、複数の視点からの……あの戦いの映像が流れ始めた。
「当初はロストロギア狙いの次元犯罪者か、その協力者なのではないかと僕らの誰もが思ったわけだが……どうもそうは見えない。記録映像を見る限りでは、この魔導師、ロストロギアに関心を持っていない。なのはが手放した後にも拾う素振りすら見せず、さらに踏み潰したとなれば尚更だ。……皆目見当がつかない。あの魔導師、目的はどういう……」
「?」
と、そこでなのはの表情に疑問が浮かぶ。そんなの、だってあの時、
あの子、私たちに会うために来たって……。
「さらには正体も不明だ。実は今2人に見せている記録映像は、2人が武装隊に救助された後、アレックスとランディが僅かに受信できたデータを解析して見られるレベルまで調整した映像なんだ。2人が戦っていた時は…………申し訳ない話だが、現状を把握することすら出来なかった。唯一リアルタイムで見ることができたのは、あの魔導師が建物から出ていく瞬間だけ。だから僕らも驚いた。まさか、なのはとそっくりだったとはな……。何者だ、一体……」
「……え?」
なのはだけではなく、フェイトの表情にも疑問が浮かんだ。あれ? さっき言い争っていたのって、
レッドファントムのことじゃ、ないの?
「ま、待った待った! クロノ君!」
「ん? どうした、なのは」
「あの……なんだかちょっと、おかしいなぁって思って」
「……? おかしい?」
手を上げて発言するなのは。その後、すっと椅子から立ち上がる。
「ああ待った、なのは。別に発言は座ったままでいい。楽に話してくれ」
「え、あ、うん。それじゃあ、えっと、失礼して……」
なんだか少し恥ずかしそうにしながら、座り直すなのは。その後一拍だけ間をおいてから、
「あの……もしかして、なんだけどさ」
「? 映像に気になる点でも見つけたのか?」
「ううん、そうじゃなくて、その」
さらに間を置く。考えて、垂れ流し状態の記録映像をちらっと見て、その後顔色を窺うように会議室に集まったメンバーの顔を見て、
「もしかして…………映像だけで、音声は入ってないの?」
気まずそうに、そう訊いた。途端に会議室が静まりかえったが、すぐにクロノが声を発した。
「待て……もしかして、話したのか? あの魔導師と」
「う、うん。あんまり長くは話せなかったし、目的とかは漠然とだけど……あの子、自分で言ってよ……? 私たちに会いに来たって」
「ど、どういうことだランディ! 報告と違うぞ!」
「ぅえ!? そ、そんな、だって確かにノイズフィルター調整した記録映像には、あの魔導師が話している様子なんて全然―――」
「あ、あの!」
すると、今度はフェイトが挙手していた。少々緊張した面持ちで、
「……フェイトも、なにかあるか?」
「う、うん。私もクロノの話聞いて、疑問に思ったんだけど……」
「どんな小さなことでもいい。気付いたなら言ってくれ」
「わ、わかった。えっと……というか気付いたというより、わからなくて……。エイミィ」
「ん? なに? フェイトちゃん」
「…………ファントムのこと、話してないの?」
なのはと同じような、気まずそうな問い。やはりその後、なのはが発言した時のように場が数秒ほど固まった。
「待て待て、おい、まさか……エイミィ。お前フェイトにもさっきみたいな作り話を話したのか」
「ちょ―――だーから作り話じゃないってば!! それに大体なによその言い方! まるで私がフェイトちゃんに嘘教えたみたいじゃない!!」
「――――――」
エイミィが大声を出すが、今度はクロノは応えなかった。代わりになんだか凄まじく苦いものでも食べてしまったような表情を見せ、こめかみを押さえ、一度だけ溜め息を漏らしてから、
「……本当に、一度全部、最初から話し直そう。なのはが聞いたあの魔導師の言葉というのも気になるし、フェイトの認識も直さないと、後々マズそうだ」
「え……え?」
「だ、だから、直すってどういう意味よクロノ君! ホントに何だか全般的に、私が悪いみたいになってるじゃない!!」
エイミィの再びの大声だが、それもクロノは聞いていない。
たった数分の出来事だったが、
ここまで……ここまで皆そろって、認識が異なるのか……。
艦長という職務に、改めて大変さを知るクロノだった。
そのころ、別の世界、別の場所。森の中で、
『ゲートアウト終了しました。消音、消熱、気流操作、光学迷彩、魔力素及び魔力迷彩、すべて問題なく稼働してます』
「エリアサーチ実行。周辺の動体反応を網膜に映して」
『了解。……どうですか?』
「ん、大丈夫そう。けっこう人里から離れてるから、やっぱり認識阻害結界は不要だったね」
『ですね。お蔭でステルスエフェクターの起動に集中できました。この後はどうしますか?』
「予定通りだよ。このまま移動して適当な場所で結界を構築する。型は5番。派手にやるから、通常空間との切り離しは念入りにね」
『わかってますよ。……いよいよ、ですね』
「初戦は様子見だ。これで全部済めばいいけど、長引いたらどんなことがあっても次に回す。……アースラの様子は?」
『変化ありません。相変わらず亜空間内で速度を維持し続けながら航行しています。こちらの意図には気付いてないでしょう』
「そっか。『偉大なる壁・散布型(リトル・グレートウォール)』は? 正常に動いてる?」
『はい。付属のセンサーも問題なく動いています。網に引っ掛かるとすれば、もうすぐです』
「ん。それなら……作戦通りってわけか」
『少々拍子抜けですね。ここまで簡単にいくと、逆に不安になります』
「油断しちゃダメだって。……一度イガナスクを追い詰めたのは運でもまぐれでもない。彼女たちの実力だ」
『……。過大評価だと思いますが……』
「? なんで?」
『なんでも何も、先ほどの一戦ではマスターに、手も足も出なかったじゃないですか。噂半分にも程があります。何がファーストエンゲージャーですか。話にもなりません』
「そんなことないよ。あの砲撃の威力、結構予想外だった。レムナントアーマーで受け止めてたら、たぶん防げなかったし」
『冗談はよしてください。あなたのレムナントを破壊するなど、この世界の魔導師では不可能です』
「……。過大評価はそっちでしょうが……」
『む……。私、間違ったことは言っていません』
「もう、変なところで頑固なんだから……。それより、そろそろ行くよ。標的は?」
『……。市内ですね。街の中心部、飲食店にいるようです。予想通り、護衛も一緒です』
「いつも通り邪魔な奴から潰す。標的への攻撃はその後。それまでは無理に張り合う必要ないから、攻撃されても反撃は牽制程度で。……アラームを戦闘開始から50分後に設定しといて」
『了解。作戦時間を50分に限定、作戦開始を次のコマンド入力時と定義します。本機はこれより結界構築時、及び標的との初期接触時以外サブマージモードで待機、ステルスエフェクト常時展開します。……本当に、50分でいいんですね』
「それでダメなら何時間やっても一緒だ。覚悟はいい?」
『………………。少々お時間を、いいですか』
「ん? ……うん、いいけど……何か、話?」
『―――あなたと共に生きられたことを誇りに思います。あなたは私にとって最高の主であり、最優の所有者であり、最愛の理解者でした。一緒に戦った日々、一緒に過ごした日常、一緒に生きてきたこと。誕生の瞬間から今まで、多くの困難がありましたが……それら全てが私の誇りであり、私はこの世で最も幸せなデバイスです。あなたの武具として傍らにいられることを、なにより嬉しく思います。…………最後まで、私はマスターの側にいます。決着をつけてやりましょう! 50分で……すべての戦いと、すべての悪夢に、終止符を!』
「―――……ありがとう、ブレイズ」
着々と準備は進み、そして幕は上がろうとしていた。
紅い少女と銀色のデバイスが、夜空が落ちたような、煌びやかな街の夜景を見下ろす。
すべては、
「そうだね。私たちで決着をつけよう。……彼女を殺して、全部に、決着を」
すべては―――明けない夜を、無くすために。
アースラでは、未だに会議が続けられていた。
ただし議題が進んだかと問われれば、否定せざるを得ない。話は本当に最初まで戻り、各々の認識を表示するに留まっている。
最初はクロノ……及びブリッジにいた面子からの、事態に対する認識の説明から始まった。
突然の結界出現と、高速で作戦領域内に侵入してきた正体不明の魔導師。艦のセンサーでは魔導師の動きを捉えられず、さらには出現した結界の奇怪な動きと不可解な構築式により内部状況の把握が困難を極め、満足な対処が出来なかったこと等が、主になのはとフェイトに説明された。また補足として、作戦領域に侵入してきた魔導師の速度についても話題に上った。センサーの感知能力すら超越したことから、解析班は「最低でも時速1500キロ以上」などというとんでもない回答を出した。なのはとフェイト以外は2度目の説明となったが、それでも皆の表情からは驚きの色が滲んだ。話を鵜呑みにすれば、件の魔導師はセンサーどころか音速すら超越したことになる。
次いで、なのはとフェイトによる、結界内での顛末が語られた。
といっても主に説明したのはなのはであって、フェイトはさほど発言をしなかった。最初の攻撃により意識を失ってしまった事もあるが……何より、激情に流されたことが大きく関与していた。相手の言葉などほとんど認識していなかったし……大体にして、認識していたとしても、詳しい説明など出来るはずがない。
蒼い炎の中から現れた、なのはと同じ姿の魔導師。
2人の前に現れた方法ですら、すでに不可解な出来事だった。転移魔法による転送ならば魔法陣が展開されているはずであり、しかし魔法陣など2人は見ていない。つまり「転移」ではないわけだが、そうなると出現方法が何であったのか、出現する前の奇妙な音は何だったのか。……すべてに説明が付かない。
そして戦闘方法と、その威力。
防御が薄いにしろ、それでもフェイトを一撃で気絶させるほどの近接攻撃魔法と、魔力刃の乱舞を片腕だけで防ぎ切った技量。それだけを考えれば近接戦闘特化の魔導師だと判断できるが、最後に見せた魔法が不可解極まりない。射撃魔法に類似していなくもないが、その効力はデクラインタイプに近かった。
デクラインタイプとは特定の効果を破壊、もしくは減衰させる効果を持つ種類の補助魔法のことを指す。バリアブレイクやバインドブレイク等がいい例で、接触や攻撃の命中などが発動条件となっていることが多いのだが……あの魔導師の攻撃は、「減衰」などという生易しいものではなかったのだ。
この時の話に話題が進んだのと前後して、医療班に所属する局員がなのはとフェイトに対し、治療の経過を説明した。
身体的なダメージは軽い打撲のみ。リンカーコアにも異常は見当たらず、
だが……体内に蓄積されていたはずの魔力が、完全に無くなっていたという。
あり得ない話だと、医療班の局員は前置きした。意識を失うほど魔力を消費する、というなら話はわかる。だが外部からの干渉で、さらに身体やリンカーコアに損傷を与えず、魔力のみを意識損失レベルまで無くすなど……メスを使わないで心臓を摘出するようなもの、というのが彼ら医療班全員の認識らしい。神の奇跡でなければ悪魔の所業だ、とも漏らした。
つまりは、あの攻撃はかなり上位に位置するデクラインタイプの魔法であり、それを行使できる件の魔導師は補助魔法を知り尽くした後方支援特化型だ……というのが医療班からの意見。しかしながら、それだと近接戦闘の技量と合致しない。双方の道を極めた人物……という考えもできるが、それは現実離れし過ぎの回答だとクロノが反論した。謎だけが残る。
そして最大の謎が……あの容姿。
顔立ちだけでなく、身長、体格、髪の色素。記録映像の解析が進んだ結果、その全てがなのはと合致してしまったのだ。なのはの話を受け、会議中にもかかわらず作業を進めていたオペレーターの1人が、さらに止めとなるデータを提出した。
声紋分析すら一致してしまった。もうコンピューター上では、2人を区別する要因は魔法に関連することのみ、ということになる。
あれは幻術の類だ。クロノがそう強く発言したが、皆は揃って目線を下げた。皆も理解していた。発言したクロノ自身も含めて。
幻術であるはずがない。それだと現れた魔導師の行動そのものに矛盾が生じる。誰かに姿を模して行動するなら本人の前に現れるべきではなく、普通に考えれば、それは避けるべき行動のはずで、
あまりに……簡単な理屈。だからこそ、その先の回答が出ない。
仮になのはの姿を模したのならば、なぜ件の魔導師は、なのはの前に堂々と姿を見せたのか。
場が沈黙に包まれ、謎だけが滞積していく。だがその時、力強く発言し始めたのが……エイミィだった。
―――レッドファントム。
月の光によって呼び出される、血塗られた魔導師。
呪いの時刻を超えた時、他者の虚像を利用して出現する、怨念を纏った亡霊。
フェイトに語ったのと全く同じ内容を話し終え、そして、
「それも、ないと思いますけど……」
真っ先に、なのはが否定した。
「え? ……え、ぇえ!? な、何でいきなり否定するの!? なのはちゃん!!」
「いやだって……にゃはは……」
力なく笑うなのはの様子は、苦笑いと表現するのがぴったりである。実際、完全な苦笑いだ。
「エイミィさんって、そんな意外なところがあったんですね。何だかかわいいです」
「あ、あの、待って待って待って! かわいいって、その、誉められてるのはわかるんだけど、嬉しいけど、何か素直に喜べない!」
「落ち着けエイミィ。……その反応だと、なのはは僕と同意見というわけだな」
少し得意げにそう語るクロノは、腕を組んでエイミィを流し見る。その視線に気づいたエイミィが凄まじく敵意剥き出しに睨み返すが、今度はクロノがわざとらしく視線を外した。勝者は僕だと言わんばかりの様子である。
そんな2人を見つつ、ああ、さっきのケンカってこれが原因だったんだ、なんてなのはは納得していた。
……もちろん、エイミィの話を一から十まで否定するつもりはない。
なのはだって怪談話くらいは夏になればよく聞くし、知っているし、興味だって人並みにはある。幽霊の存在についての是非は置いておくにしても、怖いと思うことはあるし、今流行りの映像技術を駆使したリアルで生々しいホラー映画には、若干苦手意識すら持っている。
だが、エイミィの語った逸話はどうかと思う。
怖くないのだ、正直言って。
実際にあった話であるならば、かわいそうだな、という感情のほうが大きい。教官の言うことをちゃんと聞いたのに、イタズラで、事故で死んじゃうだなんて……。悲しくて、寂しい話だと思う。だからこそ、怖いとかいう想いは全然なかった。
というか幽霊に遭う条件があまりに簡単すぎて、そこだけが信じられないでいた。夜の10時、月の光がきれいな時に、窓の前に立つだけ……。もし全てが真実だったと仮定するなら、
……。幽霊さんに出会っちゃう人、すごい人数になるんじゃ……。
『あの、なのは……』
そういえば昨日寝た時、カーテンどうしてたかなぁ、なんてなのはが考えていると、フェイトの声が頭の奥で聞こえた。思念通信だ。
『? どうしたの? フェイトちゃん』
『その、さ……。エイミィの話って、ホントの話じゃないの?』
『……。えっと……』
ふとエイミィとクロノの様子を見ると、いつの間にか言い争いが再開していた。エイミィは幽霊の実在と信憑性と現在の技術では証明が不可能だという旨の話を語り、クロノは現代の魔法技術で立証不可能な事実こそが存在の否定に繋がっている云々という話を繰り返している。とりあえずそっとしておこう、となのはは結論付けた。
『別に全部が全部、本当にあった話じゃないって否定する気はないけど……。でもたぶん、その幽霊さんはいないと思うな、私』
『な、なんで? 本当にいたら、大変だよ?』
『……。うん、確かに本当にいたら、大変なのかもしれないけど……。でもやっぱり、いないよ。幽霊さん』
なるべく優しく、そう話すなのは。念話と共に、横に座るフェイトに笑顔を向ける。フェイトちゃんは本当に怖い話が苦手なんだなぁと思いつつ、
フェイトの表情は、あの夜のように、不安で心細そうで。迷子の子供みたいな瞳で。だからあの時と、
『大丈夫だよ。もし本当にそのファントムさんがいて、それがあの子だったとしても、私は連れていかれたりしない。……フェイトちゃんの側に、ちゃんといるから』
……あの時も、同じ言葉を口にした。
ずっと、側にいると。
『……。なのは……』
安心したような、それでいてどこか嬉しそうなフェイトの呟き。それは思念でしかなかったが、フェイトの表情にも顕著に表れていた。
『それにね、私がその幽霊さんはいないって思うのは、実は確信があるからなの』
『……? 確信?』
『うん。だって私、昨日の夜、カーテン閉めないで寝てたから』
いたずらっぽく笑って、そう思念を飛ばすなのは。実は少しだけ嘘だった。
昨日の夜にカーテンを閉めていたかどうかなんて、実際は覚えていない。朝起きた時には開いていたように思ったからそう言葉にしたのだが、確証はなく、でもそれは……この際どうでもよかった。
目の前の少女の、怯えたような表情。それが晴れるなら、どっちでもかまわない。
『エイミィさんの話がホントに全部本当なら、私、昨日の夜に幽霊さんに会ってないとおかしいでしょ? それに……10時以降に窓の前に立つこと、よく考えたら、頻繁にあると思うし』
『……? なのは、夜更かしすること、多いの?』
『ううん、そうじゃなくてさ。ほら、フェイトちゃんのお家で訓練した時とか、夜遅くなっちゃうこと多いでしょ? 飛行魔法の練習の後に、そのまま窓から部屋に入っちゃうこと、たまにあるの。その時必ず……私の姿は、私の部屋の窓に映るわけだし』
『あ…………。い、言われてみれば私も、急いでいる時とか、ベランダから入ること……あるから……』
『ね? だから幽霊さんは、たぶんいない。ううん、もしいたとするなら、もっと前に会ってないとおかしいから』
『そっか…………そ、そっか。いないんだ……』
納得したのか、フェイトが心底ホッとしたような念話を送る。それと同時に、表情にも硬さが無くなっていった。だけど少しだけ、考える。
あれは……あの紅い魔導師は、幽霊なんかじゃない。亡霊なんかじゃない。
じゃあ、
『私に……心配くらい、させて……』
―――まさか……。
「だから、何度言えばわかるんだ、エイミィ! 幽霊なんて存在しない! 仮にいたとして、どうしてなのはと同じ姿で現れる必要性がある!」
「何度言えばわかるんだーなんて、こっちのセリフだって言ってるでしょ! あれはそういう幽霊なの! 他人の姿を借りて現れる幽霊! 伝説と一致している部分も多いんだから、それ以外の回答なんて無いんだってば!」
「何が伝説だ……。それは伝説なんて呼べる代物じゃない。ただの作り話で、出来の悪い噂話の類だ。そう思うだろ、なのは」
「え? あ、その、ええと……」
突然話を振られたなのはが言葉を濁す。だがその後何かを考える素振りを見せ、クロノとエイミィを交互に見て、最後に少しだけフェイトのほうに視線を向けてから、
「……。私の個人的な意見になっちゃうんですが、私も、あの子が幽霊だとは……思えないです」
静かに、でも確信を持って話し始めた。
「幽霊さんに会ったことなんて、今まで一度もないけど……。でも、あの子は違うと思います。自分の意思がはっきりあって、何か目的があって、私たちの前に現れたんだと思います。少ししか話は出来なかったけど……すごく、強い子でした。魔法の力とかそういうのじゃなく、もっとこう、意志が強かったような印象がありました」
思い出す。短かったけど、衝撃的だった……数分間の攻防。
「いま思えば、私たちの前に姿を見せる必要もなかったんだと思います。最後の攻撃、防ぎようがなかったから……。だから最初から、私たちに気付かれないように死角から撃っていれば、問答無用で私たち2人を戦闘不能にすることもできたはずです。それをしなかったのは私たちに、何か話があったんだと……」
「……。なるほど……」
的確な指摘に、話を振ったにも関わらず舌を巻くクロノ。突然の強襲と不可解な魔法に視点を向けすぎて、そこまでは考えてもいなかったからだ。
そう……接触してきたのならば、何か目的があったはず。
次元犯罪者は犯罪者であるが故に、管理局から隠れて行動する。自ら姿を堂々と曝け出したり自身の行動の痕跡を隠さない輩も少なからずいるが、それは稀な話だ。自身の実力や理論の証明を目的とする者たちが行う一種の提示であり、だからあの魔導師は……紅い防護服の少女には、何か意図的に、こちらに伝えたいメッセージがあったはずだ。
「盲点だったな……。姿がなのはと類似していることや、行使する魔法の不可解さ、それに僕らも着目し過ぎだ。あの魔導師も今までの次元犯罪者のように何か目的があると仮定するなら、その目的達成のためになのはの姿を借り、行動している……」
「うん、私も……なんで私とソックリなのかはすごく気になるけど、考える順序が逆だと思う。私とソックリの子が何を目的としているのかじゃなくて、あの子には何か目的があって、そのために私の姿になってるんじゃないかなって……。どう、かな」
「いや、なのはの言う通りだ。理に適っている。……さすが武装隊候補生だな。実に冷静な判断だ」
「そ、そんな、別に冷静な判断ってわけじゃ……」
突然褒められたことに照れているのか、少し慌てた様子で笑いつつ、小さくなるなのは。
……実際、褒められるようなこなんて言っていないとなのはは思う。現実逃避の一種だろうな、とも。
話していない事柄があった。話せなかった出来事があった。
『……ごめんね、フェイトちゃん』
少女が漏らした言葉を、なのはは皆に言わなかった。言えば事態がややこしくなるのが目に見えているのも理由の1つだが、決してそれだけではない。
自らの耳で聞いたはずの言葉なのに、なのは本人が1番理解に窮していた。
フェイトちゃん、と呼んでいた。
悲しそうな声で、辛そうな表情だった。
その言葉を聞いた途端に思考が真っ白になり、そして信じられない感覚と確証を感じてしまった。
あれは―――「私」だと。
まるで鏡の前に立った時と同じ。何の戸惑いも躊躇もなく、理由も理屈もいらず、目の前の少女を「自分」だと認識してしまった。……話せるはずがない。
だから、これは逃避なのだと思う。
自分でそう感じたのに、今更のようにそれを拒んでいる。矛盾してる。理解できない事柄だけど、誰よりも一番よく理解してる。それなのに、誰よりも一番強く否定したがっている。
私はここに……フェイトちゃんの隣に、ちゃんといる。それをどうしても、確かなものにしたい。
だからさっきの自分の言葉は、やっぱり逃避で、虚勢なんだろうな……。
「さて……じゃあここで、皆の認識を1つに固めておこう。本来なら事態への対応を柔軟なものにさせるために、皆の考えなどは統一するべきじゃないんだが……今回は対応する事態が特殊すぎだ。無用な混乱を避けるためにも、1つの認識の下でこれからの事態収拾に対応してもらう。……いいなエイミィ」
「……。なんでそこで私の名前が出てくるのよ……」
「言わなくてもわかるだろう。とにかく、これより敵魔導師、なのはに類似した特徴を持つ少女を……そうだな、仮に「N」と呼称しようか。Nは顔立ち、バリアジャケット、その他いろいろなのはと類似点があるが、それは何かの目的によりなのはに変装しているものとする。それを前提として話を進めていこう。異論は?」
クロノが会議室を見渡す。誰も何も言わないが、その沈黙こそ回答だった。皆も心の底では納得していた。
あまりに不可解で理解不能な事態の連続だったが……皆でバラバラな意見を抱え込むより、もっと簡潔な前提を置いて事態に挑むべきである、と。
……1人を除いて、であったが。
「はい、クロノくん」
「…………なんだ、エイミィ」
挙手するエイミィに向かって、なるべく感情を殺して先を促すクロノ。表情には出ていないが、まだ何かあるのか、と言いたげな口調だ。
「異論はないんだけどさ、少しいい?」
「……。幽霊に関してはもうナシだぞ。フェイトも納得いった様子だし、蒸し返されると困るんだが」
「むぅ。わーかってるわよっ。何だかすんごく悔しいけど、ファントムについては保留してあげる。なのはちゃんの話聞いたら、なんか納得しちゃったし」
「意外だな、エイミィが折れるなんて」
「…………そのクロノ君の認識も保留してあげる。とにかくさ、みんなの考えの統一については私も異論なし。でもちょっとだけ付け加えようよ」
「? 付け加える?」
「うん。なんていうか、その「N」っていうの? ……安易すぎだと思うんだけど」
「…………」
エイミィの言葉に、クロノが固まってしまう。だがエイミィのほうは至って真面目な表情だ。
「? ちょっと、クロノ君? 無視することないじゃない」
「いや……いや待て。無視とかそういうレベルの話じゃなくてだな……。それは、重要視すべき事柄なのか?」
「うん。もちろん」
胸を張るエイミィ。その様子を受け、クロノだけでなく会議室にいるメンバーの大半が、何やら毒気を抜かれた。
「……。あのなぁ……」
「ちょっ、なによその反応! 何を行動するにしても名称って大切でしょ!? 作戦名とかだって、験を担いだりするじゃない! フェイトちゃんもそう思うよね!?」
「え? え、えと……」
突然話を振られて、咄嗟に変な声が出てしまうフェイト。考え中だったのも災いしたのか、エイミィとクロノを交互に見やって、慌てて、しかし、
「あの、その…………わ、私も……エイミィと、同意見なんだけど……」
エイミィ以外にとっては、予想外な言葉が出てきた。
「お、おい、フェイト?」
「いや、く、クロノが安易とか思ってるんじゃなくて、えっとね……」
「はっはっはーやっぱりフェイトちゃんは私の味方だよねー! いやーお姉ちゃん嬉しいなー! やっぱり持つべきは無愛想な上司じゃなくて気心知れてる妹分だ、うんうん」
「……誰が無愛想だ……」
今度は先ほどとは形勢逆転、エイミィが得意気な顔でクロノを流し見て、わざとらしく目線を外す。その態度が気に入らないらしく、クロノの表情は本当に無愛想になっていく。
言うまでもないことだと思うが、もちろんフェイトはエイミィの味方をしたわけではない。彼女は彼女なりに考えて、そう発言していた。
スッと、彼女の手が上がる。
「……ん? どうした、フェイト」
「…………考えてたの。あの子のこと」
静かな口調。まっすぐクロノを見る瞳。それで、真剣な話だと誰もが理解した。
「あの子は……幽霊とかじゃ、ないんだよね」
「おそらくという言葉が付いてしまうが、今はそういう認識のほうがいいだろう。あれはなのはとは別人だ。そして幽霊なんていう曖昧な認識だと、今後の行動に支障が出る可能性がある」
「そっか……」
呟いた後、フェイトは少しだけ目線を伏せた。そして考える。
―――あの子は、幽霊じゃない。
あの子は、レッドファントムじゃない。
あの子は、なのはじゃない。
それなら、
『約束して……お願いだから……』
……約束……。
「………………ミラージュ」
小さな声で、フェイトが何かを呟いた。
「……? フェイト?」
「ミラージュ……。あの子の、名前……。「N」っていうのは素っ気ないし、どうかな」
遠慮気味に、そう提案する。ただし再びクロノに向けられた視線は真剣そのものだ。気まぐれで言っている様子は微塵もなく、エイミィのようにクロノをからかっているわけでもない。フェイト自身にも疑問は残る。なんでそんなことに固執してるんだろう、と自分でも感じている。
だけど譲れなかった。
―――名前を付けてと、お願いされたから。
「い、いや……僕も名称にこだわっているわけじゃなんだが……。だからその、なんだ、僕も安易すぎだとは思うし…………どう呼称しようとも構わないが……」
釈然としない様子で受け答えるクロノ。フェイトの真剣さがどこから来ているのか困惑しているからだろう。その言葉にも力がない。
「へぇ……。ミラージュ、「蜃気楼」か。フェイトちゃん、なかなかセンスあるじゃない。クロノ君とは大違いだね」
「え? そ、そうかな……。ありがとう、エイミィ」
「エイミィ、一言余計だ」
憮然としつつ、エイミィを軽く睨むクロノ。その後軽く咳払いをして、
「では……暫定ではあるが、なのはと同じ姿の魔導師、彼女を『ミラージュ』と呼称しよう。確かに「なのはとは別人」という認識を統一化するには、有効な手だと思うしな。……じゃあ話を戻す。この魔導師……ミラージュは、何かの目的のためになのはの姿に化けている。実に中途半端に。ランディ、資料はできたか」
「はい」
クロノに指名され、オペレーターの1人が立ち上がる。それと同期して、今まで映像記録を流していたウィンドウが別のものに切り替わった。静止映像だ。
「件の魔導師……えっと、ミラージュ、ですか。彼女となのはちゃんとの相違点を纏めてみました。ただし手元にあるデータはノイズの濃い記録映像だけですので、確定情報とは思わないでください。あくまでこれは現在までで確認できる情報と、なのはちゃんのデータを比較しただけですので」
前置きしつつ、手元のキーボードを操作する。静止画像に次々と補足が付き始めた。
「身体的特徴は……身長や体格、肌の色、髪の色素、顔の輪郭や瞳の色まで、全てなのはちゃんと一致しています。ノイズのせいで誤差範囲が広くなっていますが、それでも肉眼での区別は不可能に近いです。同じ服でも着ていれば、本当に見分けが付かないでしょうね……。ですが他の部分では違いは顕著に出てます。まず見てもらえばわかるとおり、バリアジャケットは完全な別モノです。大まかな形や装飾は同じですが、色彩がまるで異なる上に、詳細に調べると細部に違いが見られます」
「……細部に違い? どこに?」
訝しげにエイミィが問いかける。彼女も何度も記録映像を見返しているが、色以外の違いは見当たらなかったからだ。
「ええと、1つはここです」
再びオペレーターがキーボードを操作する。静止画像が別のものに切り替わり、それが拡大表示、さらに距離によるピントのズレが修正されていく。
紅い魔導師の、背中だった。
「かすかな違いなのでわかり難いと思いますが、この画像の色彩の違いを強調すると……」
少しずつ、画像の色彩が明確化していく。何かが浮かび上がっていた。
「……なに、これ」
「詳細はわかりませんが、何かのシンボルか、魔法陣の類だと思われます。映像が鮮明でない上に、この模様自身、生地と同じく紅い色で描かれているので読み取り難く、何の意味合いがあるかまでは」
形そのものはなのはのバリアジャケットと同じなので、襟の生地が背中まで伸びているのだが……その下に隠すように、確かに何かが書かれていた。円形に並ぶ細かな文字と、それに守られるような、
六角形の、シンボル。
「……。私は、魔法陣に見えるけど……」
「う、うん。でもこんな魔法陣、見たことない……。クロノは?」
「僕も心当たりはないな。見えにくいから構造がわかり難いのもあるが…………六角? 聞いたこともないぞ……」
「ミッド式にも、ベルカ式にも似てない……。クロノ君、私とフェイトちゃんを覆っていた結界って、さっきの話だと……」
「ああ。彼女……ミラージュは僕たちの知らない魔法体系で結界を敷いていた。これが彼女の使う魔法体系の基本的な構築式であるなら、僕たちが何もできなかったのも道理だな。彼女が使っていたのは「時空管理局でも認知していない魔法体系」。対処できる筈もない」
「か、管理局でも認知してないって……そんなの……」
エイミィの顔色が変わる。驚きの感情も含まれていたが、怪訝な様子だ。
管理局といえども、すべての次元世界を把握しているわけではない。次元世界は限りなく広く、今でも未開の地域や探査が進んでいない地域は多く存在する。
だが、こと「魔法」に関して管理局は敏感だ。
現在他の世界に対して優位を誇れているのは間違いなくミッドチルダの魔法技術の高さであり、それが瓦解すれば今の管理体制に支障が生ずるのは明白である。だからこそ魔法技術に関しては、新たな世界を見つけた際に最優先確認事項として調査することを義務付けるほど優先度が高い。未だミッドを上回るほどの魔法体系は見つかっていないが、どのような小さな魔法技術でも管理局は見つけ次第調査し、データベース化して管理している。危険度の高いものであれば封印することも辞さない。
その管理局を持ってして、「認知していない」という魔法が……本当に存在するのだろうか。あれほど強力な結界を構築できる魔法体系を、管理局が未だ発見できていないなんて。エイミィの表情は、そういう考えの元に出たものだった。
「エイミィの言いたいこともわかる。僕も自分で言いつつ、半信半疑だ。本局のデータベースにアクセスできればいいんだが……。鎮静化したらすぐに問い合わせよう。ランディ、他に違いは見つけたか?」
「はい。2つ目ですが、これは目に見える違いです。目視し難いという点では1つ目と同じですが、こちらのほうが確認はしやすい筈です」
そうして、今度は別の静止画像が現れた。前のとは違い後姿ではなく、上方、斜め上からの視点だった。紅い魔導師の、手の部分が拡大表示される。
「……? デバイス、ですか?」
「いえ。デバイスに関して別の資料として纏めています。今はここを見てください」
オペテーターの言葉に同期して、画像に補足が表示される。白い文字で表された数値データは、紅い魔導師の「手の甲」を示唆していた。
「……あれ? なにか付いてる」
「これって……宝石? なのはのバリアジャケットには、この部分に宝石はなかったよね?」
「うん。袖の部分には付いてるけど……」
2人の指摘通り、紅い魔導師の手の甲に、宝石があった。
なのははバリアジャケット着用時、細かく言えば1年前より、手に保護用の黒いグローブを付けている。ただしこれは砲撃魔法の反動で手が滑らないようにするための意味合いがあり、だから細かな作業が必要な場合を考慮して五指の部分はわざと露出されている。
画像に映し出されているのは、そのなのはと同じ指抜きのグローブだ。だが手の甲に、赤く輝く宝石が鎮座している。
「見ての通り、なのはちゃんのグローブには付いていない宝石が、彼女……ミラージュのグローブには両手に付いていることが確認できました。普段は袖に隠れて見えにくいですが……。また、この宝石はなのはちゃんのバリアジャケットに付いている防御結界の常時発生装置とは異なるようです。他の、バリアジャケットに付属されている宝石からは微弱な魔力が放出されていることが確認できましたが、この両手に付いている宝石からは一度も魔力が放出された形跡がありません。フェイトちゃんに攻撃魔法を使った時ですら、魔力は腕全体を覆っていますが、発生源はこの宝石ではありませんでした。何の用途で付いているのか、現段階では……」
報告者の言葉が途切れる。……皆、少しだけ気が重くなったような気がした。
違いが判明できたのはいいが、その2つの違いですら「相手の目的」と「正体」に結びつかない。逆に得体の知れない謎だけが増えていく。厄介この上ない話だった。
「はぁ……。小さな手がかりから何かわかればと思ったんだが、逆効果だったな……。仕方無い。この件については本当に鎮静化を待つしかないか」
ため息混じりにクロノが漏らす。釣られるように他の面子も何人か溜め息を漏らしたが、
「……? 鎮静化?」
「クロノ、それって何の話?」
なのはとフェイトだけが、クロノの言葉に疑問を持った。
「え? ……ああ、そういえば2人にはその説明がまだだったな。エイミィ、周辺の様子を出してくれ」
「はいはい」
答えつつ、エイミィがキーを叩く。紅い魔導師の画像を残したまま、まったく別の種類の映像が重なった。航路に関しての情報だ。
「九七管理外世界を離れる時に少しだけ、小規模な次元震について話をしたと思うんだが、覚えているか?」
「? ……あ。はやてちゃんが今日、アースラで待機してたって時の話?」
「えっと、近くで自然発生した次元震を見つけたって……」
「そう、その話だ。あの次元震、通常空間への干渉がほぼ皆無だったのはいいが、亜空間……船の航路と通信のほうに影響が出てるんだ」
「小規模なくせに分布がバラバラなせいで、影響してる範囲が広くてねー。本局にデータの転送も出来ないもんだから、午前中の調査資料も調べたはいいけどまだ送信できない状況なの。で、九七管理外世界だけじゃなく、この九二世界からも位置的な関係で通信は不可能。艦のコンピューターに記録されているデータじゃ足りないし、本局に問い合わせできれば、あの子……ミラージュについてももう少し詳しくわかると思うんだけど……はぁ、予想に反してなかなか収まんないんだよね、この次元震」
「そっか……。じゃあさっきクロノが、「鎮静化すればすぐに問い合わせる」って言ってたのも」
「ああ。この艦のデータにあの魔法陣のことが記されていなくとも、本局のデータベース……またはユーノに連絡を入れて、無限書庫で調べれば、あるいはな」
「じゃあ本当に、次元震が収まるのを待つしかないんだね」
「そーゆーこと。ったく、なんでこんな時期にぃ」
「………………あ、れ」
そこで、やっと、
なのはだけが、「おかしな部分」に気付いた。
「ん? どしたの、なのはちゃん?」
「え? ……あ、あれ? 何で……」
現実を直視したくない。あれは私じゃない。だから客観的に物事を考えよう……と、そう努めていたことが逆によかったのだろう。
客観的に考えれば、おかしな話になるのだ。なのは以外が皆、ミラージュと名付けた少女について着目しすぎだった。行動そのものに目が向いていない。
いや、それ以前にクロノとエイミィに関しては、本来なら「気付かなくてはいけない」問題だ。次元震に関して、小規模だったために問題を軽視していたのが原因だろう。もっと早く気付いていたならば、現状はもっと変わっていたはずだ。
間違いは、
この第九二管理外世界に来たという事実、そのそも。
「? なのは、どうした」
「…………クロノ君……なんで、疑問に思わなかったの……?」
「……え、」
「…………。エイミィさん、次元震って、いつ頃発生したんですか……?」
「え? えと、待って。アースラが最初の次元震を見つけたのは昨晩、正確には日付が変わった後の、2時42分。観測の結果、次元震そのものは5分くらい前から発生してたみたいだけど……な、なに、どうしたの?」
「お、おかしいじゃないですか。それなら……」
次の言葉に、全員がゾッとした。
「ロストロギアの回収依頼、どこから来たんですか……?」
「……っ!」
「そ、それはもちろん、本局―――」
「違う。……次元震が昨日の夜から発生してるなら、今日の午後、連絡なんて届くはずが……」
「………………」
「………………」
「………………」
そう、
――――――すべて、罠なのだ。
「自動航行システム緊急停止! 操舵をマニュアルに切り替え、航路を第九七管理外世界へ向けてセットします!」
「動力、姿勢制御、通信、誘導システム、各種センサー全て問題なし! シールド出力を40%から75%に増加! いつでも行けます!!」
「総員に連絡!! 本艦はこれより全速力にて第九七管理外世界に向かいます! 小規模次元震震源地付近を強行突破するため、かなりの揺れが予想されます!! 整備班以外は居住区画に戻り対衝撃姿勢に入ってください! 繰り返します! 揺れるから整備班以外は居住区に戻り待機!! 絶対に居住区から出ないで!!」
「乗組員の居住区域避難を確認次第、隔壁を下ろせ! それと必要最低限の設備を残して電力を落とす! 少しでもエネルギーを上げてくれ!」
「了解! 第一、第二倉庫の隔壁を閉鎖! 電力を落とします!」
「航路確認終了! 次元震震源地を除けば、障害物ありません!」
「通信装置の動作確認! やっぱり本局に繋がらないし、中継地点の大半に障害が出てる……。っ、なんでこんなことに気付かないんだ私っ!!」
「愚痴は後だ! エンジン出力を最大まで上げて全速力で九七世界へ向かう!! 準備はいいな!!」
「乗組員、第二階層への避難確認! こちらは問題ありません!!」
「動力機構問題なし! 行きます!」
ミーティングルームでの会議より20分も経っていないが、すでに皆の様子は激変していた。
ブリッジにはオペレーターやエイミィとクロノの他に、フェイトとなのはも居る。クロノの意向だ。2人とも揺れを警戒して、側の手すりに掴まっている。
なのはの指摘で、全員の行動と思考が加速した結果だった。
『ちょ、な、なのはちゃん! 急いで戻らないとって、一体何で―――』
『あの子の目的は何なのか、それはまだわかりません! でも手段だけは想像できる気がするんです! ロストロギア回収の依頼があの子の作った偽物なら! 次は海鳴市に行くはずです!!』
『ま、待ってくれなのは! どうしてそんな結論に達するんだ!』
『よく考えてクロノ君! あのロストロギアは私たちを誘き寄せるもので! そして回収に向かった私とフェイトちゃんの魔力を消して、行動不能にした! たぶん足止めだよ!』
『あ……足止め?』
『そう! だから私とおんなじ姿なんだよ! 私を遠くの場所で行動不能にすれば、あの子は「私」として行動できる! 狙いは私たちじゃない!!』
『――――――ッ!!』
まだ謎は解けていない。疑問はそれこそ多数ある。
だが、なのはが指摘した以上の答えを出せるものは、それこそ皆無だった。非の打ちどころはなく、あの紅い魔導師が「なのは」の姿で何かを行うのであれば、それ以上的確な答えがあるだろうか。
狙いは、「高町なのは」になりすます事。
誰もがわかっていた事柄だが、しかし予測できなかった事態だった。
「…………」
ブリッジの面々が思考を焦がす中、だが指摘したはずのなのはだけが、思考の温度を下げていた。
……正直、すごいと思う。
あの子の目的なんて、まだ全然わからない。だけど……こちらの通信を遮断してから誘導させ、遠いところで行動不能に陥らせる。その後メンバーの1人に取って代わり、別のメンバーと接触する。行動そのものを言葉にすれば簡単に感じるが、手段と大胆さが凄まじいの一言に尽きた。
まず方法はわからないが……通信の遮断に次元震を使うなんて。
発生時期の都合の良さから考えて、あの子が次元震を引き起こしたのは間違いないと思う。でも次元震は、世界1つを破滅させかねない危険な現象だ。次元断層が発生すれば、それこそ簡単に世界が消える。それ程の危険極まりない代物を、ただの通信妨害に使うなんて……信じられない。
そして、偽の依頼。
クロノとエイミィは気付かなかったが、依頼を受けた時点で、「依頼が来る」という不可解な現象にこちらが気付く可能性は充分にあった筈だ。だけど……おそらくは気付いても気付かなくても、どちらでもいいとあの子は考えていたのではないか。なのははそう感じていた。たとえ気付いてもクロノの性格上、「第九二管理外世界に何かある」とわかっていたら……絶対に向かうはずだから。
さらに極め付けが、自分たちの前に現れたこと。
あの姿が幻術なのか何なのかはわからない。だけど……現れる行動こそが時間稼ぎの一環だったのだろう。実際、自分たちの初動はひどく遅れた。あの姿のインパクトに目を奪われ、混乱し、行動そのものに視点が向いていなかった。議論を繰り返し、解けない謎に時間を奪われていた。これ以上の時間稼ぎなどないだろう。本当に……何から何まで、彼女の術中に嵌っていた。
私と同じ姿なのに、
この知略に長けた戦い方。驚き以外の感情が湧きあがらない。
……あれは「私」だという感覚が、なんだか薄まる。
こんな戦い方、私じゃ無理だ。
「なのは」
独りで考え込んでいると、背後から声をかけられた。フェイトだ。
「ん? ……どうしたの?」
「えっと、その……大丈夫?」
「…………え、」
突然の質問で、不意を突かれる問いだった。
「わ、私は別に平気だけど……どうしてそんなこと訊くの? フェイトちゃん」
「……なにか、悩んでるよね」
「―――」
なのは自身は隠し通せていると思っていたが、そうでもなかったらしい。
「さっきの会議の時から、ずっと疑問に思ってたの。なんだか表情が固しい、笑顔も見せてくれたけど、それも少し、ぎこちないし……。ミラージュのこと、だよね」
「……。うん……」
フェイトちゃんにはなかなか隠し事ができないなぁなんて思いつつ、そう返事をするなのは。フェイトの指摘する通りだった。
今は、あの紅い女の子のことで頭が一杯だ。
自分とまったく同じ姿をした少女。だけど魔法の力は強大で、意志が強そうで、知略に長けてて……。今までいろんな事件があった。管理局に正式採用されてからは本当にいろんな人に出会って、いろんな任務をこなして、だけど、
こんなこと、初めてだった。
異常なほど冷静に、状況を理解できている。
考えて出した答えが正しいかどうかはわからない。だけど、それでも何だか、あの子の考えがわかる気がするのだ。目的すら不明確なのに、「彼女なら次は絶対にこうする」と予想できてしまう。確信してしまう。
思い返せば、あの黒い部屋すら彼女の罠だったのだろう。
文明が誕生していない未開の土地に現れた、あまりに異様な建築物。そんなものを見つけてしまっては、管理局員として「絶対に調査しなければならない」。要は疑似餌だ。ロストロギアも、あの部屋も、全て自分たちを招き寄せるためのもの。
『あなたたちに会うために、ここに来ました』
私たちを足止めさせるための、完璧なステージ。
そして舞台は、私たちが住んでいる海鳴市へシフトする。私たちを……ううん、「管理局の戦力」の大半を、退けてから。
「…………。あの子は……」
「……え?」
「あの子は……誰なのかな……」
気付いたら、想いがそのまま言葉に出ていた。言葉にしても無意味だ。議論しても答えが出てくるわけじゃない。……そんなこと、わかっているはずなのに、
「……なのは」
その時、不意に、
フェイトの手が、なのはの手の平を覆った。
「……。フェイトちゃん……」
「少し……力を抜こう、なのは」
そう言って、優しく握ってくれる。その感触が、細い指が、気分を落ち着かせてくれる。
「不安、なんだよね」
「…………うん……」
答えつつ、だけどなのは自身はよくわからなかった。何に対しての不安なのだろう。
海鳴にいる家族や友人のことだろうか。どうなるのかわからない今後のことだろうか。それとも、
―――あれは「私」だという、得体の知れない認識に対してなのか。
知略に長けているという部分で既に、自分とは違う存在だとは思う。だけど……それだけじゃ説明が出来ない事柄がある。
自分がなぜ、あの子の次の行動に確信が持てるのか。
その事実こそ、あの子が自分なのではないかという考えを払拭できない。私はここにいるのに。「私」は一人だけのはずなのに。なんで、どうして、
この歪な考えが、頭から離れてくれないんだろう。
「……。なのはじゃないよ」
「――――――え」
「なのはじゃない。……あの子はなのはじゃない。全然別の人。幽霊じゃないし、レッドファントムでもない。……そう言ってくれてのは、なのはだよ?」
「…………フェイト、ちゃん……」
素直に驚く。隠し事は出来ないと思っていたけど、これほど、こんなに、
私の心、わかってくれるなんて。
「もしかして、「ミラージュ」ってあの子に名前を付けたのも、私のこと、心配して……?」
「……どう、かな。もちろんなのはのことが心配だったからっていう理由もあったと思うけど、3分の1は、自分のためだったのかも」
「…………フェイトちゃん自身のため?」
「うん。なのはとは別人だって、自分に言い聞かせたかっただけかもしれない」
そう言葉を紡ぎながら、握る手に少しだけ力を込めて、でも視線は外してしまった。
今の言葉に偽りはない。
3分の1は「なのはとは別人」という意識を自分に対して強制させるため。もう3分の1は純粋に「なのはのことが心配だった」。フェイトはそう感じていたから。
第九二管理外世界で建造物を見つけたとき、なのはは何かを言い淀んだ。
あの時は言い淀んだ理由がわからなかったが、今ならわかる気がする。あの建造物の存在理由が。
あれは犯罪者の隠れ家などではない。カモフラージュしては、それこそ意味がない。不審に思わせることが目的だったのだ。だからこそわざと、その世界の文明レベルに則さない建物を用意した。私たちを中に入れるために。誘き寄せるために。それをたぶん……なのははあの時点で気付いていた。
だからこそ、フェイトも今になって気付いたからこそ、心配だった。
そんなに早くから違和感を感じ取っていた。
あの少女の気持ちを漠然とだが、なのはは理解し始めている。私たちとは比べるべくもない早さで。不安になって当然だ。……今の自分がそうだから。
『私に……心配くらい、させて……』
違う。
あれはただの夢だ。自分の妄想のはずだ。そう……頭では、理解できているのに。
―――約束を、守ってしまった。
名前を付けてというお願い。私が名前を付けなきゃいけないと、強力な義務感が胸の奥から噴き出した。抗うこともできず、抗うことすら考えられなかった。
なのはとの約束じゃ、ないのに。
あの子は、なのはじゃないのに。
残りの3分の1の理由は、その「約束を守りたい」という不可解な想いからだった。……一体、私はどうしたんだろう……。どう考えても自分の感情は意味不明で、自分の感覚はおかしくて、
……でもそれは、なのはの比じゃないと思う。
いまこの場で、一番不安を抱いているのは、間違いなくなのはだと思うから。
「なのは……」
「…………。フェイトちゃん……」
名前を呼ぶ。だけど、なのはの不安の表情は晴れない。
だからせめて、強く、彼女の手を握る。
「大丈夫。あの子はなのはじゃない。なのはが不安になることなんてない。……今度は私、絶対、負けたりしないから」
負けない。誓ったのだから。
私が負けたら、誰が彼女を守るというのか。
「……。そう……だね……。今度会ったら、ちゃんとあの子と、お話ししよう。なんで突然攻撃してきたのかとか、何で私とおんなじ姿なのか、ちゃんと、今度は落ち着いて」
「うん」
返事をしつつ、彼女を見る。なのはは、小さくだけど……笑ってくれた。
「……懸念材料が少し減ったな」
わずかに離れた場所から声が掛かる。艦長席に座っているクロノだ。ディスプレイに映る周辺状況をチェックしつつも、少しだけ目線を後ろ……なのはとフェイトに向ける。
彼も、少しだけ笑っていた。
「クロノ……」
「なんだか2人とも、少し抱え込んでいた様子だったが……要らぬ心配だった」
「クロノ君……。ありがとう。ごめんね? 心配かけて」
「いや、別段僕が何かしたわけじゃないし、謝ることでもない。……逆に謝るべきは僕のほうだろう。すまないな、本当なら休ませるべきなんだろうが……」
そう言いつつ、クロノは視線を正面に戻す。ブリッジのメインディスプレイには航路と、次元震を示す赤い点が爛々と輝いていた。
「今回の出来事……特にあの魔導師、ミラージュに関しては2人の考えを終始聞いておきたい。直接接触したのは君ら2人だけだし、先の一件でのなのはの指摘も的を得ていた。マニュアル通りの行動では……正直、足元を掬われかねない。何か気付いた点があったら遠慮なく言ってくれ。頼む」
―――クロノも、気付いていた。
あの紅い魔導師……フェイトが「ミラージュ」と名付けた少女は、完全な未知の存在だ。扱う魔法は正体不明で、その姿は理解不能で、行動に至っては予測不可能。少しでも情報が欲しいところだが、その情報すら自分たちの手元にはノイズだらけの映像しかない。
だがそれを……なのはは、行動を予測した。これ以上はないという回答を、少ない情報源から導き出した。それが管理局に入局してから経験から来ているのか、それとも別の要因なのかはわからない。ただ、
おそらくは、後者なのだろうと思う。
別の要因。経験ではなく直感。なのははあの魔導師から何かを感じ取っていると、そう感じる。……それはフェイトからも。
ただの一度の接触だったが、あまりに短い戦いだったはずだが、それでも2人は、言葉にし難い何かを得ている。そしてこうも思う。
これは、
決して、言葉にしてはいけないと―――
突然、
ブリッジの照明が、真っ赤に染まった。
「……え?」
本当に突然だった。そして1秒にも満たない微かな間の後、
―――耳を劈くような、大音量の警報が鳴った。
「な、何だ……一体どうした!! 現状を報告してくれ!」
「……艦長!」
悲鳴のようなオペレーターの声と、それに続く言葉が、全員の思考を混乱させた。
「大規模次元震です!! 揺れの到達予測時刻……残り30秒!」
それはあまりに唐突で、
あまりに、現実離れしすぎた言葉だった。
「な……さ、30だど!? どういうことだ! 震源地からはまだ距離が離れて―――」
「観測していた震源が、突然活動を活発化したんです! それも1つじゃありません! 3つ……4つ! 次々に活性化しています!!」
「新たな震源を確認! すべて我々の航路付近です!! 最大震度は―――く、クラス6!?」
「な……によ、これ……。震源が……」
震えているエイミィの声。その言葉に、ブリッジにいた大半のメンバーの視線がディスプレイに集まる。
元は4つほどだった赤い点が増殖していき、まるで染みのように、画面の半分近くを埋め尽くしていく。ついには、エラーの文字。
「ウソ、だろ……。震源の数……計測不能……?」
「っ! は、速―――第一波、来ます!!」
その衝撃は、
揺れ、などという優しいものではなかった。
最初に感じたのは縦殴りの衝撃。
すべてが、軋みを上げた。
「―――うぁっ!?」
「―――っ!!?」
まともに悲鳴を上げられたのはオペレーター1人。その他は声を上げることすらできず、断末魔を上げたのは機器のほうが早かった。あちこちで火花が散り、映像がノイズとエラーで濁り、すぐさま事切れ、今度は横揺れが襲来した。船全体が悲鳴を続け、破砕音と爆音がそこかしこで合唱する。脳と身体と、世界が異様なほど動く。振動ではなく、爆発の余波に等しかった。
それも、収まる気配がない。
「ぐっ……な、なん……何だこれは!?」
「―――次元、震……クラス5以上が、8……うぉ!!?」
「し、シールド出力が落ちて……ダメです! 計器がまともに動きません!」
全員席にしがみ付くが、衝撃が凄まじくて機器の操作など出来なかった。さらに火花が肌を焼き、揺れが身体の動きを押さえつけ、耐え忍ぶことしかできない。だがオペレーターとエイミィ、クロノはまだマシだ。
席など与えられず、手すりにのみ身体を預けていたなのはとフェイトは、それどころではない。
「―――――――――っ!!」
「!! フェイト……ちゃん……っ!」
身体が跳ばされそうな衝撃波の中、なのははフェイトの身体を抱きしめつつ、全力で手すりを掴んでた。
咄嗟の判断だった。痙攣と似たような脊髄反射でフェイトの身体を抱き寄せ、利き手とは逆の手でなんとか手すりを握ったが……それも外れそうだ。縦横無尽に揺れ動く船は、しかし揺れ動いているのは自分の身体も同じ。船と身体の揺れはまったく同期していおらず、しゃがみ、必死に揺れと格闘する。数十秒前の不安など消し飛んでいた。今はただ怖くて仕方がない。
船が……壊れそう……っ!
「な―――のは―――」
抱き締めた胸の底から、小さな声。
「だいじょう、ぶ――――――離したりなんか、しない!」
離すもんか。
……腕が千切れても、船が壊れても、離したり……しないっ!
「――――――こん、のぉ!!!」
その時、周りの爆音など知らぬと言わんがごとき絶叫が、ブリッジに轟いた。
「え……エイミィ!! お前なにを―――」
「全員なにかに掴まってて!! 私を……舐めんなぁ!!」
ジェットコースターのほうがまだマシな平衡感覚の中、片手で椅子にしがみ付き、残りの片腕で……手元を見ることもせず、半ば自動的にキーを叩き、拳を振り上げ、
「通信主任だからって―――通信だけが、能じゃないのよ!!!」
勢いよく、全力を込めて、
最後のキーを、叩きつけるように打ちつけた。
次元震とは別種の振動が、
船全体を、加速させた。
「……ん?」
同時刻。第九七管理外世界、海鳴という街の飲食店で、
肩口まである茶髪、左側のもみあげだけにバッテン印のリボンを巻いた少女が、お冷を飲みながら周囲を見渡していた。
「? どうしたの? はやてちゃん」
隣に座る女性が声を掛けるが、少女は周囲を見渡しつつ、飲んでいたお冷を唇から離す。さらに周囲を見渡して、首を捻って、
「……いや、なんや、なのはちゃんの声が聞こえた気がしたんやけど……」
おかしいなぁという感情をそのままに、手に持ったグラスをテーブルに置く。
場所は市街地……中華料理店である。
駅からほど近いテナントビルの5階にあるその店は、名を「色即是空」という。中華なのに店名が堅苦しい日本語というおかしな組み合わせだが、味の良さもあってか評判が高く、なのはやフェイトも家族と共に来店することが多い店だ。
だから偶然一緒になることもあり得るなと思いつつ、少女はさらに店内を見回す。だがそれらしい姿は見当たらない。
「気のせい、なんかな……」
「反対側の席に家族連れがいるのを、先ほど見かけました。もしかしたら聞き違いかもしれませんよ」
「ん、そか」
対面に座る女性の言葉に、素直に肯く。確かに敷居の向こう側から楽しそうな声がするので、聞き違いもあり得ると納得し、視線を正面に戻す。テーブルにはまだ、暖かな湯気を立てる色とりどりの食材が並んでいた。来店してからまだ20分も経っていないので、注文した品々は少しも減っていない。
一角だけ、減る量の速い席があるが。
「ちょ、ヴィータちゃん。そんなに急いで食べないでも……」
「ん? いぁ、らっれうぇえんはもん、ほほのぇし」
……。料理を囲っているメンバーの中で一番幼く見える女の子が何かを喋るが、頬が膨らみ過ぎて何を言っているのか意味不明だ。
「ヴィータ、口の中のものを飲み込んでから話せ」
呆れつつも注意を促す女性の顔は、何やらうんざりした様子だった。その言葉の気配を知ってか知らずか、女の子はもぐもぐと口を動かし、しばらくしてからごっくんと喉を鳴らして、
「いや、だってうめぇんだもん、ここの飯」
ちゃんと言い直した。言葉の意味だけは理解していたらしい。
この見た目7歳程度の、食欲旺盛な女の子こそが……かつてなのはを襲撃した魔導師、ヴィータである。
さらに言えば、この席に座る全員が「魔導師」だ。生真面目で、ヴィータに注意を促した女性が、名をシグナム。その隣、落ち着いた様子だが、何やら困り気味な表情を浮かべているのがシャマル。そして、
「あはは。でもゴメンなヴィータ。お腹空いてたのに、ずっと待たせてもうて」
優しそうな笑顔を浮かべつつ、ヴィータの頭を撫でる少女が……聖祥大付属小学校4年、同級生からは「仲良し5人組」と呼ばれて(恐れられて)いる、最後の1人。
八神はやて。古代ベルカ式魔法継承者にして、この場にいる他のメンバーにとっての「主」である。
「あ、ううん。はやてのせいじゃないし……それにこんなご馳走、久しぶりだからさ」
「そう言えばそうね。全員が揃うの、いつ以来?」
「確か2週間ほど前だったな、前回は。その時は主はやての手料理で……」
「そやったね。あんときは奮発しすぎて、食べ終わったヴィータが身動きできなくなってシグナムにおんぶしてもらって」
「は、はやてっ。人の過去の傷跡は掘り返すものじゃないよっ」
「あはははっ。いーやんか別に、何か減るわけでもないし、いい思い出やん」
「……うぅ……」
おかしそうに笑うはやての顔を見れなくて、小さくなりつつ、でも食事の手は緩めないヴィータ。再びモノが口の中に溜まっていく。
「しかし、ずいぶん長引きましたね。何か問題でもあったのですか?」
「え? ああ、検査についてはなんも問題なんてなかったんやけど、石田先生の予定がちょうずれたみたいや。他の患者さんのほうで何かあったとかで」
「そうでしたか……。なかなか戻ってこないから、心配したんですよ?」
「あー、うん、念話で「先に帰ってもええよ」って伝えようともしたんやけど、ちょっとな」
検査、というのははやての身体に関することだ。彼女、実は……自力では歩くことができない。
1年前の「闇の書」事件に関係するのだが、彼女は1年前まで車椅子での生活だった。ロストロギア、闇の書。他者のリンカーコアを蒐集することで莫大な力を蓄える歪な遺失物は、しかし所有者にも牙をむく代物で、
はやては今まで、ずっと「闇の書」の呪いに身体を蝕まれていた。それが顕著に表れていたのが脚部……下半身だ。現代科学では「原因不明の麻痺」としか診断できず、治療法も回復の見込みも立たず、一時は内臓まで麻痺の範囲が広がる兆候が見られ、
―――だがそれは、1年前までの話。
現在のはやての身体は健康体だ。長い間使われることがなかった脚部は少しずつ麻痺が薄れ、今は車椅子を使わなくとも杖があれば一人で歩けるほど。今日の検査というのも、経過を見るだけの簡単なものだったのだ。
ちょっとした出来事もあるのだが。
「? はやてちゃん、ちょっとって、一体……?」
「え? …………んふふ……」
シャマルの問いに、何故か含み笑いで答えるはやて。何か言いたいのに、それをわざと勿体ぶっている感じだ。
「……。主はやて。何か嬉しいことでもあったのですか?」
「ん。ビックニュースや。実は、今日は外食しようって言いだしたのも、先に帰ってええよって念話で伝えんかったのも、皆にはすぐに報告したかったからで……」
そう言いつつ、はやてはテーブルの下に立てかけてあったL字型の杖を掴み、
ずいっ、とシャマルに差し出した。
「え? あ、あの、はやてちゃん?」
「シャマル。……これ、しばらく預かっててくれるか?」
「…………えっ! ま、まさか」
「は、はやてっ、それって―――」
「ん。石田先生からは「次の検査の時まではしばらく使うように」って言われたんやけど、それと同時に、「これから1日1時間くらいは、杖なしで歩いてみて」って言われたんよ。……順調にいけば、もうすぐ私、杖無しでも歩けそうや」
嬉しそうに……本当にうれしそうに、そう話すはやて。誇らしげに持つ杖は、しかし決別の意思表示だ。もう頼らなくても平気。一人で、自力で歩くことができる。それを自分に言い聞かせるような、そんな清々しい笑顔だった。
「―――」
「―――」
「―――」
「…………? あれ?」
ただ、彼女の言葉を聞いて、何故か他の3人は黙ってしまった。想定していた反応と違うことに、はやて自身は少々戸惑う。
「あ、あの、シャマル? ヴィータ? シグナム? そ、その、「やったー!」とかって反応を期待してたんやけど……。な、なんか私、まずいコト言ったかな……?」
「…………う……」
最初に反応を見せたのは、シャマルだった。
「えと……シャマル?」
「………………ぅう…………はやてちゃんっ!」
「へ? わ、わぁ!」
彼女は顔をあげると―――完全に号泣していた。ボロボロと涙を流しながら、感極まったと言わんばかりの様相ではやての頭を抱き抱える。
「ちょう、シャマ―――うぁ?」
「はやてっ!」
今度は反対側の隣の席に座っていたヴィータが抱き付いてきた。腹部に向って勢いよく。軽いタックルのような印象があって、はやては椅子から落ちそうになるのを何とか堪えた。
「待っ、ヴィータまで一緒になって―――ほ、ホントにちょう待って、おち、落ちる落ちる! シグナム、笑ってないで助けてや!」
はやての対面に座るシグナムは、抱き付いている2人と抱き付かれている主の様を見つつ、軽く笑っていた。
おかしそうに、ではない。うれしそうに、である。
「……回復の見込みが生まれてより1年。長かったですね……。おめでとうございます、主はやて」
「う、うん、ありがと……ってそれより早く助けてや! いやほんとマズ、待っ、落ち―――」
そして、突然だった。
はやてのことを抱きしめていた2人が、抱き付いていた2人を見ていたシグナムが、
ピタリと、動きを止めた。
「お? やっと正気に戻ってくれたんか。もー家族揃って甘えん坊さんなんやか―――」
「はやて。動かないで」
そう言葉を発したのは、ヴィータである。
いつもの、見た目相応の無邪気そうな声色ではない。
「……? どしたん、ヴィータ」
「……」
ヴィータは応えない。
そして頭を抱えているシャマルも、正面にいるシグナムにも、はやては「平常時」とは違う雰囲気を感じた。
「な、なんや、どうしたんや3人とも」
「…………シャマル、出ていったのを見たか?」
「ううん。それ以前に、気配がまったくないわ。……どういうこと?」
「……。主はやてを頼む。ヴィータ」
「ああ。あたしは厨房のほう見てくる」
言い残すと、ヴィータははやてから離れて一目散に店の奥のほうに走って行ってしまった。それと同時にシグナムも席を立ち、レジのほうに向かってしまう。
「ちょ、ちょう2人とも?」
「はやてちゃん、気を付けて」
「え? ……シャマル?」
シャマルもはやてを抱擁から解放し、スッと立ち上がる。そしてはやての肩に手を置きつつ、周囲を見渡す。
「な、なんや、一体どうしたん?」
「…………」
ヴィータ同様、シャマルもはやての問いには応えてくれない。緊張した面持ちのまま、周囲を警戒している。
そして、遅れてはやても、何かに気付いた。
「……はやてちゃんも、気付きましたか」
「…………うん。なんか、この店……」
シグナムがレジのほうに向かった。
ヴィータが、店員の許可も無しに厨房に向かった。
それなのに、何故か、
「静かや……」
自分たちの声と物音以外、何も聞こえない。
「さっきまで、家族連れの人たちの会話とか、聞こえてたのに……」
「それどころか姿すら見当たりません。他の席も一緒です。他のお客さん、何組かいたはずなのに……」
その時、遠くからこちらに向かって走ってくる足音が聞こえた。はやてが振り向くと、ヴィータが厨房から出てくるところだった。
「だめ。こっちは誰もいない。作りかけの料理があるだけだ」
「こっちもだ。隣の店も覘いてみたが、人のいる気配がない」
ヴィータに続きシグナムも戻ってくる。2人とも、表情には警戒の色が濃い。
「なんや、これ……。なんで突然、誰もいなくなるんや……」
「店から誰かが出ていくところを、私は見ていません」
「私もよ。席の関係上、私の席からのほうがレジ……出入り口はよく見えるけど、通るところなんて見た記憶がないわ」
「まさか……」
小さく呟くと、ヴィータが今度は別の席、窓に面する場所まで移動する。少し前までそこに座っていた人物の所有物であろうコートを退け、席に上って膝立ちになり、窓の外を窺い見る。
「…………。空に、変化がない。これ、結界じゃない……?」
「待て。ザフィーラ、聞こえるか」
虚空を見ながら、シグナムがここにはいない人物に問いを投げかける。返答は思念になってすぐに返ってきた。
『シグナムか。……そちらも変化があったようだな』
「ああ。主はやてと食事中、店内の人間が突然消えた。従業員も含めてだ。そっちはどうだ」
『大差ない』
ザフィーラと呼ばれた人物は、はやて達がいるテナントビルの入り口近く、ビルとビルの間にある路地裏を歩いていた。
『こちらも突然、表通りから人の姿が消えた。今ビルの周囲を見回っているが、生き物の気配は完全に消えている』
念話で喋りつつ、「鼻」で目の前の異物を突く。ビルの裏口の扉に挟まる形となっているソレはただのゴミ袋だったが、そこにあること自体がおかしかった。
鉄製で頑丈にできたゴミの蓄積場所は、ビルの裏口のすぐ側にある。こんなところに放置されているのは不可解だ。ほんの2〜3メートル歩けば、その蓄積場所に収められるというのに。まるで、
ゴミを持って裏口から出てきた人物が、扉を開けた瞬間、ゴミだけを残してどこかに消えてしまったよう。ザフィーラはそう思う。
『何かの結界だ。ひとまず建物から出ろ、シグナム』
『……外が安全だという保証はないぞ』
『わかっている。だが閉鎖的な、見通しの悪い建造物内に留まるよりはマシだろう。少なくとも、外なら視野が広く保てる』
念話で会話しつつ、ゴミから離れる。……不愉快極まりなかった。
ザフィーラは人間ではない。正確に言えばシグナムやヴィータ、シャマルも「人間」ではないのだが、ザフィーラについてはそれが顕著である。
彼の姿は、蒼い体毛で身を覆った狼。
自然ではなく人の手によって造り出された存在。はやてを守る四人の騎士の一柱。それが彼であり、彼は自らを「守護獣」と称する。彼は四本足で路地裏を歩きつつ、先ほど鼻で突いたゴミ袋を一度だけ振り返って視野に留め、
『……何が起きたのかはわからんが、これは我々が知っている結界ではなさそうだ。変化といえば生き物の痕跡が消えたこと。空の色も、魔力素の密度も変化はない』
『痕跡? 姿、ではなく?』
視線を正面に戻し、表通りに出た。
オフィス街の一角にあるその場所は、夜だというのに明るかった。星空は見えないが、煌びやかな電気店の看板と電灯、そして車のヘッドライトが星の光に代わって夜の闇を押し消している。暗い路地から出てきたために目が慣れず、少しだけ目蓋を細める。
焦げ臭い匂いを嗅ぎつつ、辺りを見渡す。
『とにかく主の安全が最優先だ。早く皆を連れて建物から出ろ。魔法が使用可能なのは先ほど確認した。思念通話が通じるのが何よりの証だろう』
匂いの元は目の前にあった。車だ。
後方から排気されるガスと、エンジン部から立ち上っている煙。それが匂いの発生源で、それ以上濃い匂いは感じ取れない。
車は、大破していた。
高速で動いていたであろう車は、別の車の後方に追突していた。だが燃料は漏れていないらしく、激しく燃え上がったり等はしない。燃料の匂いもさほどしない。
……それしかしない。さらに辺りを見渡す。好都合なのか、それとも真逆なのか。将であるシグナムの意見を聞きたかった。
『……武装は必要か』
『わからん。だが警戒は怠るな。この状況、異常と呼ぶに相応しい』
目線の先には、表通りの歩道がある。
レンガ造りの歩道はゴミ1つない。先ほどの、路地裏にあったゴミ袋とは比べるべくもない差だ。若干、鼻の緊張が解けるのが自分でもわかる。それほどに、
「……匂いがない」
肉声で声を漏らす。それほどに、状況は不可解だった。
鼻が麻痺しそうな裏路地に堆積するゴミの臭い。表通りに漂う焦げた匂い。レンガの匂い。アスファルトの香り。街路樹の香り。それは感じるのに、
数分前まであったはずの、「人の匂い」が微かにも感じられない。
路地裏に潜むネズミの臭いも、人が扱う香水の香りも、
生き物に関する匂いだけが、徹底的に排除されていた。
狼である自分が、匂いに関して間違えるはずもない自分が、
「…………何なのだ、これは」
何かの間違いであってほしいと、切に願っていた。
「ザフィーラ」
ビルから出たシグナムが、目の前にいた蒼い狼に声を掛ける。シグナムの後ろにはシャマルが続いていた。その後ろにはやて、最後尾はヴィータが務めている。
「建物内も、様子は同じか」
「ああ。人ひとりいなかった。……こちらも同じだな」
「突然だったぞ。何の兆候も見せず、人だけでなく生き物すべての痕跡が消えた」
「どういう意味だ、痕跡とは」
「…………匂いが無い。人間だけではなく、生き物に関しての匂いまでも、完全に消え去っている」
「なに……?」
ザフィーラの言葉を受け、周囲を見渡すシグナム。彼女には並外れた嗅覚など持ち合わせていないが、「騎士」としての直感を頼りに、辺りの様子を窺う。
確かに、生き物に関しての痕跡が希薄だとシグナムは思う。
事故を起こして大破した車。
無暗に光を垂れ流す、道路を挟んで向かい側の電気店。
何も落ちていない、ゴミ1つないレンガ敷きの歩道。
夜の街並みは変わらないのに、真っ暗な空も変わりないのに、人だけが姿を消していた。
「……。ザフィーラ、魔法は使えると言っていたな」
「ああ。先ほど建物の裏で簡単なものを試した。何も問題はなかったが……」
「……」
「あ、じゃあ私、広域探査を―――」
「待て」
シャマルの提案を、シグナムはすぐに遮った。視線はシャマルには向いておらず、真っ直ぐ続く表通りの先を、じっと見つめる。
駅とは反対方向に続く道路は、そこかしこで車が停止していた。信号の色が赤から緑に切り替わるが、ただただエンジン音を響かせるだけで、乗り手を失った車たちには動く術がない。歩道も似たようなもので、歩く人のいないレンガ造りの道は……物悲しいの一言に尽きる。
生き物のいなくなった街は、まるで見捨てられた廃墟だ。駅から離れれば離れるほど人口の光は密度を失くし、ビルの立ち並ぶ表通りの向こう側は、何か闇が沈殿しているようで、
―――その奥底から小さな音が近付いてくるのを、シグナムは聞き洩らさなかった。
「……広域探査を使う必要はなさそうだ。向こうから来たぞ」
「え?」
「っ! はやて、あたしの後ろに!」
「う、うん」
はやてを後ろに下がらせつつ、ヴィータが前に出た。その隣にシグナムが並び、シャマルははやての隣に並ぶ。そしてザフィーラは、
ヴィータとシグナムの間を抜けて、最も前に陣取る。
「ザフィーラ、お前―――」
「主の安全が最優先だ。何が起きているのかわからんが、我が役目は「盾」。……わかるな」
「―――」
シグナムは応えない。視線を一度向けるが、すぐに正面に戻した。
言葉にする必要はなかった。言葉にしなくても、よく理解している。いざとなれば「盾」だけ残し、主を安全な場所まで護衛しろと、この言葉少なな狼はそう言っている。そして、
応える暇などなく、音は近付いてきていた。
「来るぞ」
ザフィーラの一言に、全員が息を殺す。
鳴り響くのは路上で動かない車のエンジン音と、どの車かわからないがカーステレオが垂れ流す小さくて陽気な音楽と、近づいてくる足音のみ。
そう、それは足音だった。間隔の短い歩調は、走っている音だと容易に知覚できる。闇の奥から姿を見せた人物は、
「…………? なのは?」
2つの短いツインテールを揺らす、はやてと同じ年くらいの少女だった。
高町、なのはである。
「はぁ…………はぁ…………。あ、はやてちゃん!」
息を切らせつつ、なのはは片手を上げて走り寄ってきた。ずいぶん長い距離を走ってきたのか、距離が近付くにつれて走る速度が落ちていく。
「な、なのはちゃん!」
その様子に、はやてが飛び出す。他のメンバーも警戒を解き、なのはの元に駆け寄った。
「お、おいなのは! 大丈夫か!」
「は…………はぁ……ヴィータ、ちゃん……」
なのはは立ち止まって、息を整え始める。両手を膝の上に載せつつ、肩を上下させていた。疲労困憊な様子だ。
「……み、みんな……何とも、ない?」
「え? あ、ああ。あたしらは別になんともねぇが……それよりお前だ。大丈夫かよ、そんなに息切らせて」
「あ、はは…………。し、知らせなきゃって思って、ずっと、全力で、走ってたから……」
「なのはちゃん、そんなに走るの得意やないのに……」
「そ、そだね……。飛ぼうかなって、少し考えたんだけど……敵に見つかっちゃうかも、しれないって、思って……」
「待て、高町なのは。「敵」だと……?」
シグナムの表情に、再び緊張の色が戻る。その様子を見てなのはが顔を上げようとするが、すぐにまた顔を下げてしまう。
「そ、そうです……。敵が……フェイトちゃんが、やられて……」
「な―――。テスタロッサが、敗れただと……?」
「はい……。状況、せつめ…………はぁ……ま、待ってください。いき、息が……」
「おいなのは、とにかく落ち着け」
「う、うん」
気遣うヴィータが、なのはの肩を握って落ち着かせようとする。「ありがとう」と漏らしつつ、なのはは素直に従った。深呼吸を繰り返して、息を整えようと努力する。
「はぁ……はぁ……えっと、ロストロギアの、回収依頼で……。近くの次元世界に、行ったんですけど、私たちも、突然襲われて……。フェイトちゃんは、今、アースラで……休んでます」
「……。本当に、テスタロッサが、負けたのか……」
「私の、せい……なんです。フェイトちゃん、私を、庇って……」
「……っ」
「な、なのはちゃん。フェイトちゃんは、ケガとか……」
「ううん。ちょっと気を失ってるだけだから……すぐに目は覚めるって、クロノ君が……」
「そ、そっか」
「それより……はぁ……。この結界、私たちの時と、おんなじものです……。すぐ近くに、敵が……」
「…………。ヴィータ、彼女を下がらせろ。ザフィーラ、シャマル」
「心得ている」
「ええ。ヴィータちゃん、なのはちゃんをこっちに。疲労を回復させるわ」
「ああ。なのは、歩けるか?」
「う、うん」
敵。その一言で、守護騎士たちの緊張感は元に戻った。シグナムとザフィーラは油断なく周囲を見渡し、はやては不安げな表情で少し怯え、シャマルは不安そうなはやてを落ち着かせるため彼女の肩を握った。ヴィータはなのはの上体を起こさせようと握っていた肩から力を抜いて、
―――それが、絶望的なほどの、「隙」だった。
左肩に乗っていたヴィータの手を、『彼女』は予備動作なく右手で握り、引き寄せ、
踏み込み、容赦なく左の拳を腹部に叩き込んだ。
「―――ッ!?」
呻き声すら上げられず、ヴィータの身体が「く」の字に折れる。身体から完全に力が抜け、前のめりに倒れようとするが、それを待つほど『彼女』は優しくない。バランスを失ったヴィータの身体をさらに引き、後方に退かす。それで、
『彼女』とはやての間に、障害物はなくなった。
「え、」
はやてが僅かに反応するが、状況を理解するより早く『彼女』は次の動作に移っていた。ヴィータの腕を握っていた手を離し、それを真っ直ぐ突き刺すように、はやての頭部めがけて、
『彼女』の手がはやてに触れる直前、
ゴンッ、と鈍い音が鳴った。
「お前―――何のつもりだ! 高町なのは!」
シグナムの長剣だった。白い剣の腹が、間一髪で『彼女』の指突を阻む。シグナムが『彼女』を睨む。だが『彼女』はシグナムに目線すら向けない。指突が阻まれたとわかった途端、今度は左の蹴りが空気を裂いた。
「っ!?」
だが蹴りははやてには向かわず、攻撃を防いでいたシグナムのデバイス……剣の腹に直撃した。体重差によりシグナムの身体も、剣も衝撃に負けなかったが、『彼女』は剣を踏み台にするように後方へ跳躍した。
全員が、度肝を抜かれた。
高町なのはは、運動があまり得意ではない。それは皆が承知の事実であり、だからこそ目の前の光景に現実感を持てなかった。
剣を蹴り、衝撃で後方に距離を取った少女は、何と空中で身を小さく屈め、ぐるりと二回転ほど宙返りしたのである。そして狙っていたかのように、路上で停止していた車の屋根に着地した。
バゴンッ、という派手な音と共に屋根が曲がる。車の窓ガラスにヒビが入る。小さな身体でも、子供の体重といえど、落下という衝撃は相当なものだ。だからその現象は別段、驚くべき事柄ではない。
驚くべき存在は、その衝撃を「膝のバネ」のみで吸収し、無表情で、こちらの様子をうかがっている少女だ。
「……お、お前……何者だ」
シグナムの認識は、すでに数秒前のものとは変わっていた。
目の前の少女は、主はやての友人、高町なのはではない。
「誰でもいいでしょう。……さすがですね、魔剣士」
ゆっくりと立ち上がる少女は、敵意を込めた視線を向けてくる少女は、
「はじめまして、ヴォルケンリッター。……覚悟はいいですね」
「……覚悟だと? 何の覚悟だ」
「決まってます。今から殺し合うんですから、削除される覚悟ですよ」
―――敵以外の、何者でもなかった。
現れたのは なのはちゃんとソックリの 紅い女の子
圧倒的な力で 不可解な魔法で 私の家族を傷つけていく
何なんや なんで どうして こんな酷いことを……
これは 罰なんか
1年前の 弱かった私への 罰なんか
なんで どうして あなたは
そんなに私を 憎むんや……
Next 第4話 大切な人のために
あなたは 誰なんや……